第一章 一話 ジェシカの日記帳
「本……だよな? でも、あれ、こんなものここにあったか?」
「い、いえ……そんなはずは」
この本が図書館のもので、こんな一階の真ん中に堂々と置かれていたならば、私が気がつかないわけがなく、本棚へ収められているはずです。
それに、私がロランさんを案内し始めた時には、机の上には何もありませんでした。よって急に忽然と、この本は現れた事になるのです。
「でも、それならどうして……?」
と呟いたものの心当たりはなく、仕方なく本を手にとって確認してみる事にしました。この本が誰のものか、あるいはどこにあったものか分かれば、返却も可能です。この王立図書館には、きちんと身元の明らかな本しか置けないのですから。
本は事典ほどもあるページ数で分厚く重く、私の腕に抱え込む事でようやく運べそうなくらいでした。表紙は赤と金の縁取りがされ、本全体が高価なインクや紙を使った、高級な装丁であると見て取れます。
それなら内容は、とさらによく調べると、題の部分にインクで字が書かれてありました。表紙が派手なせいで、一見した時には見落としてしまいそうで、私は眼鏡をかけ直しながら目を凝らして見つめ――息を呑みました。
そこには、確かに、『ジェシカ・ネリーセン』と、名前が書かれていたのです。まるで、この本の所有者である事を証明するみたいに、見慣れた私自身の筆跡で。
「え……なに、これ……?」
思わずそんな声が漏れました。それもそのはずです。私がこの本を見たのは初めてのはずで、当然自分の名前なんか書き込んだ記憶はありません。そんな本が突然、目の前に現れたのだから、混乱するのも当然でした。ロランさんも目元を細め、私へちらりと視線を送り。
「……その様子だと、この本に見覚えはない、って感じか?」
「は、はい……これだけ豪華な本なら忘れるわけがないですし、名前だって書いた覚えもないんです」
誰かのいたずらでしょうか。けれど、筆跡は紛れもなく私のもの。たとえそこまで真似をしたとして、何のためにそんな事を。
冗談にしては笑えません。何やらおかしな事態に巻き込まれているような気がして、私はうっすら寒気を覚えていました。
「こうやって眺めていてもらちがあかねぇな。中身を見てみたらどうだ?」
「あ、は、はい……――でも、いいのでしょうか」
でもロランさんは、そんな私の不安を見通したように、からからとした笑みを浮かべて見せます。
「構いはしないさ。俺だって、こんな妙な状況は日常茶飯事だしな。こうやって迷った時こそ、前に向かってみなきゃ何も始まらない。後悔する前に行動した方が、時にはいい事もあるってもんだ」
「で、でも……」
「安心しろよ。もしジェシーが何かに巻き込まれていると分かったなら、俺が手助けする。こうやって会ったのも何かの縁だし、何より面白そうだしな! だから、ここはあえて飛び込んでみようぜ」
ぽんぽん、と優しく肩を叩かれ、私は顔をうつむけました。ロランさんからはまたうじうじしている、と思われているでしょうが、違います。
こんなにカッコよく力を貸すなんて言われて感動というか、恥ずかしいというか、とにかくまたまともにロランさんを見られなくなっていたのです。今回の赤面は鏡を見なくてもここ最高で、火の付いたみたいになっているでしょう。
とにかくその恥ずかしさから逃げるように、半ばやけっぱちで私は本のページに手をかけました。ロランさんの言う通り、何が書いてあるにせよ、見てみなければ始まりません。
でも、本はぴくりともしませんでした。両側へ開こうとしても、開かないのです。別に錠がかけてあるわけでもないのに、ページ自体が固く糊付けされたみたいに、めくる事すらできません。
「うう……どうして、開かない……」
途中で多少むきになって足を踏ん張り、両腕の筋肉が引きつるほど力を込めてみましたが、まったく歯が立ちません。ただでさえ持っているだけでも重量があるのでほどなく疲れ果てて、私は元のように机へ本を置いてしまいました。傍らではロランさんが真剣な眼差しで目線を注いでいて。
「なあ。俺にも試させてくれないか?」
「いいですけど……本当に固いんですよ。重いですし、気をつけて下さいね」
角で殴れば下手をすれば人の頭くらい潰せそうです。それとも男の人の力なら、これくらい軽いのでしょうか。
「よっ……と……? あれ、あっさり開いたぞ」
「え、えっ……本当、どうして……?」
気合を入れて引っ張ったロランさんが、拍子抜けしたような声を発しながら簡単に開かれた本を見せてきます。
私はといえば目的が達せられたのに、ロランさんがそんなにすごい力の持ち主だったのか、それとも自分自身があまりに非力すぎたのかと微妙な気分になりました。
「いや、違うんだ……何の抵抗もなかったんだ。何かで張り付いてたとかじゃない。全然力を込めなくても開けたぞ」
「で……でも、本当なんです! さっきは本当に、すごく固くて……っ」
まさか嘘をついていたのかと、疑われているように感じて私がまくしたてると、ロランさんは分かってるよ、と言わんばかりに笑いかけてきます。
「ジェシーが苦戦してたのは信じるよ。さっきの力一杯出してた時の顔や、手の血管の浮きっぷりはとても演技には見えなかったしな」
「うう……それはそれで恥ずかしいです」
歯を食いしばって本と格闘する瞬間なんて、女としてはとても見せたくありませんでした。けれどそれも今さらなのかも知れません。ダメな場面なら散々ロランさんに見られてしまいましたし。はあ。
「さて、何が書かれているんだ……? ん? 日記……?」
ロランさんが呟いたセリフに、私はえっと声を漏らしました。日記。それなら一体誰の。
「これ……ジェシーのじゃないか? 名前も書かれてるし、司書だってあるし」
「そんな……私、日記なんて書いた事ないのに……」
唖然として言葉もありません。知らない本に、覚えのない私の筆跡。しかも内容は、やはり書いた記憶のない日記。いよいよわけがわかりませんでした。
「あ、あの……私にも見せて下さいませんか?」
もちろんだ、と頷いたロランさんから本を受け取ります。目を通すよりも先にページを何枚かめくってみましたが、今度は嘘のようにぺらぺらと送れます。はじめの接着でもされていたような固さは何だったのでしょうか。謎は深まるばかりです。
そして肝心の中身ですが、確かに日記が綴られていました。内容はといえば、どうやら私が司書になった初日の出来事が書いてあるようです。日付もかなり前でした。
――王国歴335年。3月4日。晴れ。
今日は初めて司書として王立図書館で働く日になります! 緊張のあまり昨日は一睡もできませんでしたが、記念に今日からこの日記をつけてみる事にしました。
今は起き抜けの朝頃に執筆していますが、後半は家に帰ってから書く事にします。図書館のお仕事とか、初めて日記を書くのとか、どきどきわくわくで待ちきれなくてつい日記帳とペンを手に取っちゃったわけではありません! 私今、すごく変なテンションになってます。それでは行ってきます!
帰ってきました、すごかったです! 本当に書ききれないくらいたくさんの本があって、この目にした瞬間感激で泣きそうになってしまいました。あれだけ夢見た王立図書館で泣いちゃうのはいくらなんでも恥ずかしすぎたので、眼鏡を拭くふりをしてごまかしましたけど。
仕事もとても重労働みたいです。って書くと他人事っぽいですが、説明を受けたり先輩の仕事の手際を見学したりで今回は研修みたいなもので、直接のお仕事は明日かららしいです。ちゃんとできるか今も不安だらけですが、大好きな図書館のためにも気合を入れて頑張ります。……でも、行き帰りだけでもあの坂だけは馬車を使わせて欲しいです。
まだまだ書きたい事はいっぱいありますが、それはこれからの日々を過ごしながらおいおい綴っていく事にします。ここで焦らなくても、きっと充実した毎日を生きていける気がします。
「……これが、私の……日記」
読み終えた私は、当惑してひとりごちました。内容的には変哲もない、日常の一ページ。司書の仕事に対する私の心情や意気込みが推敲した跡を含めて記録されているだけで、特におかしなところもありません。
けれど、それが逆に不気味でした。思い返せば懐かしい出来事。なのにこうして見慣れた自分の文字に起こされ、この本――日記帳に羅列されていて、そこに違う私がいるみたいです。
私は取り憑かれたように次のページ、さらに次のページと忙しく手繰っていきました。
その手は唐突に止まります。開きません。始めのページから少し進んだ先から、あの固い感触が私の指を止めて、それ以上開かなくなっていたのです。例によって力を込めてもうんともすんとも言わず、私はもどかしくなりました。
「なんだ? まさかまた、開かなくなったのか……?」
はい、とロランさんへ振り向こうとした矢先、私のうなじを何かが撫でたような気がしました。それは冷たい風でした。今日は図書館の窓を開けてもいないのに、どこからともなくざわりと吹いた風が、私の肩口にまで伸びた髪を持ち上げるようにくすぐっているのです。
背筋がぞっとしたのもつかの間、私の背後で渦を巻くようにしていた風が、一息に手元の日記帳へと殺到していました。
「え……?」
「な、なんだ……っ」
だしぬけに突風に襲われ、私もロランさんもよろめいてしまいます。風はどうしてか私がとっさに抱えた日記帳へ集束しているようで、その凄まじい勢いにページがぱたぱたと激しくはためいたかと思うと、次の瞬間日記から無数のページが離れ、中空へと舞い上がっていくのです。
「ぺ、ページが……!」
私の視界を覆い込むほどにばらまかれるページ。どこもかしこも真っ白で、手元もロランさんも、目の前さえ見えないほどです。一体何が起きているのか分からず、私は風から眼球を守るために目を閉じ、身をすくめて嵐が過ぎ去るのを願うしかありませんでした。
竜巻みたいに乱舞していたページはやがて勢いを失い、下へと落ちていきます。壁のように視界を遮っていた分までも剥がれて、口を引き結んで耐えていた私は、恐る恐るまぶたを上げました。
そこにあったのは見知った図書館の屋内ではなく――どこか薄暗い、通路の風景でした。
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