青銀のヴェルショナル
牧屋
プロローグ ジェシカとロラン
王国歴337年。肥沃な国土と多彩な文化を持ち、長きに渡り繁栄の歴史を紡いできたフォレス王国。
その威容を誇る王城の見下ろす城下町に、私、ジェシカ・ネリーセンの働く王立図書館がありました。
世界中から集められた本が納まるこの王立図書館で、私は司書をしています。司書の仕事は本の収集、貸し出しといった管理作業から、本棚に上がるための書架など必要な道具の入手、さらには図書館全体の掃除まで多岐にわたるのです。
学校での猛勉強の末に小さな頃からの夢だった王立図書館で働く事ができて、毎日が目も回るほどの忙しさですが充実した日々を送れています。
今日も私は図書館を巡り、地味で地道な事務仕事や、手が空けば簡単な掃き掃除をしたりと、莫大な数の本に囲まれて過ごしていた時の事でした。
「こんにちはー」
のんびりした男の人の声がして、私は入り口の方を振り返りました。どうやら来館者のようです。
図書館にやって来る用なんていうのは本を読んだり、借りたりする場合がほとんどで、そうなると司書の私が対応しなければお客さんも困ってしまうでしょう。
だから慌ててそちらへ向かおうとするものの、ちょうどその時の私は書架の上で本棚の整理をしていた真っ最中で、振り返った拍子にがくりと膝が折れてしまい。
「きゃ……きゃああっ!」
手元に抱いていた何冊かの本と一緒に床に真っ逆さま。敷いてあったふかふかしたカーペットに軽く背中を打ち付けたくらいで済みましたが、それでもうめきが出るくらいには痛みます。
しかも、せっかく整頓していた本までもめちゃめちゃに散らばっています。もう何年もここで司書をしているくせに、何ともふがいない不覚を取ってしまいました。
「お、おい……大丈夫か?」
先ほど来館した方のものでしょう、心配げな声が近づいて来ます。何事かと見に来てくれたみたいですが、私は痛みをこらえて起き上がりながら通路へ呼び掛けます。
「だ、大丈夫で……きゃ!」
一歩踏み出そうとした瞬間に足下の本にけつまずき、またも床へダウン。その上支え代わりに本棚へ添えていた手がさらに何冊かの本を引っ張り出してしまい、それらがどさどさっと頭へ。もう泣きたいです。
と、開いた本が頭にかぶさり、半分ほど悪くなった視界に、ついに来館者の方の姿が映りました。私と同じくらいの年齢と思われる、男の人です。
鳶色の髪に、青い目。羽織った外套はところどころほつれたり破れたりで、長く旅をして来たのだろうという事を窺わせます。
もしかして旅の方でしょうか。王都で暮らす人には見えませんでした。
「お、おーい……やっぱりダメそうじゃない、か……?」
私の様子を見るなり、遠慮がちに問いかけて来ます。そうです。こんな有様では私、本から生まれた怪物か何かです。あまりの恥ずかしさにぼっと身体が熱くなり、彼から見えている顔半分が赤く、本のページに覆われた部分が青くなった気がしました。
「そ、そうですね……やっぱり、ダメみたい、です……」
あはは、とごまかすように笑うと、彼もつられたように引きつった笑みを浮かべてくれました。何となく親近感。
「こ、これはたまたまなんですから。いつもの私は、もっとちゃんとしてるので……」
「ああ、うん……そっか」
言い訳がましい言葉にも、彼は苦笑いをしつつ頷きます。冗談だと思ってくれればこれ幸いですが、とにかくこの本をどうにかしなくては。
「なあ……俺も手伝おうか?」
私がわたわたと本を取り上げ、本棚に戻している間、手持ちぶさたにしていた彼が、興味深そうにこちらを眺めて言ってきます。まだ身体も痛いし、その申し出はぶっちゃけありがたいのですが。
「い、いえ……来館者の方に、そこまでしていただくわけには」
「そう言うなよ。なんか、見てるだけでも本の背文字とか逆さまだし、そっちのやつは今にも落ちそうだし」
「え……えぇっ?」
ぎょっとして確認してみれば、その通り。誰かに見られて緊張していたからでしょうか、いつもは完璧にこなせる本の整頓作業が、何ともお粗末な状態に。またまた顔に汗が浮いてきます。
「うう……違うんですよ。これはその、たまたまというか、調子が悪かったといいますか」
「はは、分かってるよ。言ってくれれば、俺も手を貸す。この本はどこに置けばいい?」
と、半ば強引に近づいて来た彼が、まだ大半床に散らばったままの本を手際よく拾い集めていきます。今の私よりもてきぱきとした動きで、何とも言い難い恥ずかしさがこみ上げてきました。
それ以上拒む事もできず、その後は二人で何とか本の整理を終えました。途中、また何度か書架から足を踏み外しそうになったので、そっちも彼にやってもらったり。我ながら司書の経歴を返上したくなるひどい仕事ぶりでした。
「本当にありがとうございました……助かりました」
「いいんだって。困った時はお互い様だろ?」
「あのままだと、下手をしたら私は永遠に本の山から出られなくなっていたでしょうし」
本の下敷きになって圧死。いくら無類の本好きを自称すれど、そんな死に方はしたくありません。
「まあ、そうネガティヴになるなよ。どうにかなったんだからいいじゃないか」
うう……今は目の前で屈託なく笑う彼が救い主に見えます。……見え……あれ?
「み……見えません」
「え?」
「あ、あれ、私の眼鏡、一体ど、どこに……!」
何度かまぶたを開閉し、顔を触ってみてさっと血の気が引きました。近眼の私には眼鏡が欠かせません。でもその眼鏡がどこにもないのです。
きっと、最初の方で書架から落ちた時に落としてしまったに違いありません。今までその事に気づかなかった私は、どれだけ慌てていたのでしょうか。
「さ、探さないと、眼鏡、眼鏡……」
「おい、落ち着けって。そんなばたばた動いたら――」
ぱき、と。踵の辺りでガラスが割れる音と、何かを踏み抜いた感触。おそるおそる足を引いてかがみ込むと、そこには愛用している大きめの丸めがねが、見るも無惨な姿で転がっていて。
「……あああ、もうやだぁーっ!」
ここ一番の、私の情けない叫びが図書館中に響き渡りました。
「……えっと、それで本日は、どのようなご用件でしょうか」
ドジを踏み、眼鏡をも踏み割ってしまった私は図書館奥にある休憩所の机から、換えの眼鏡を取り出して顔にかけてようやく戻り、待ってくれていた来館者の彼へ応対できました。
そうです。散々迷惑をかけてしまいましたが、これが本来の私の仕事なのです。
「……あー、もう大丈夫なのか?」
司書机のカウンター越しに苦笑する彼に、私はこくこくと頷きます。というか、勝手ながらさっきまでの醜態にはもう触れられたくないです。
「おかげさまで、はい……。――あ、自己紹介が遅れましたね。私はここで司書をしてます、ジェシカです。先ほどはどうもありがとうございました、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ、ジェシー。俺はロラン。こっちこそよろしくな」
いきなり愛称で呼ばれてしまいました……でも恩人ですし、快活な笑い方にも好感が持てて、あまり気になりません。私にもこれくらい人当たりの良さがあったらな、と少しばかり羨ましく思ってしまいます。
「ロランさんは、やっぱり本をお探しでしょうか。というより、ここには本しかないんですけど……」
「ああ。世界中の珍本、奇書が集まるっていうこの王立図書館の噂を聞いて、やって来たんだ。だから特定の本を目的にしてるわけじゃない。要するに物見遊山みたいなもんだ」
なるほど。ですが、確かにこの図書館には変わった本も多いけれど、ちゃんとした学術書もたくさんあります。
ロランさんは旅の方みたいですし、ここはよりよくこの図書館の事を知ってもらいたいですね。
「では、私がこの図書館を案内しましょうか。見ての通りすごく広いので、一人で回ろうとするとすぐに迷ってしまいますし」
「んじゃあ頼もうか。せっかく来たんだし、ぐるりと一周させてくれよ」
分かりました、と私は快く頷き、カウンターを出て左手にある本棚へ向かいます。汚名返上、というわけではないのですが、このあたりできちんと仕事ができるところをロランさんに見せなくては。そう考えれば内心気合も入るというものです。
入り口から見て縦並びに列を成す本棚にはそれぞれナンバーが振り分けられ、各階層のブロックごとに一つのグループとして管理されています。グループ一つだけでも膨大な数なので、常にどの本がどこの棚にあるのか、こまめな確認が欠かせないのです。
「こうして見渡すとまるで迷宮みたいだな……全部で何冊くらいあるんだ?」
棚に隙間なくぎっちりすし詰め状態になった本を見やりながら、ロランさんが感心したように呟きます。
「ええと……実は私も正確な数までは把握しきれていないんです。最後に数えた時は二十万冊くらいあったと思うんですが……私がまだ生まれる前の、数代前の国王陛下がとても探求心にあふれた方らしくて、私が司書になった時にはもうこれくらいで」
「へえ……」
「あ、でも、本の数が分からなくても、何とか管理はできてますから! たとえばここのコーナーには、学校でも使うような教科書や参考書がありますよ」
そんなこんな、各グループの蔵書について説明しつつ、私は二階へロランさんを案内する事にしました。この図書館には、本棚のあるブロックから少し奥まった場所にカーブした階段が左右に一つずつあり、そこから二階へ上がれ、さらには三階までも続いているのです。
なあ、と階段を上がっていく最中、後ろからロランさんに話しかけられました。
「ジェシー以外に司書はいないのか? まさか一人でこの図書館を切り盛りしてるわけでもないだろ?」
「そうですね、今は所用で出ているだけで、基本的に二、三人の持ち回りで仕事をさせてもらってます」
「そうか……それでも大変だな」
「はい。前はもっといたんですけど、みんなやめてしまって……司書の仕事って忙しい割りにあんまりお給料も良くないし、何より城下町にあるとはいえ、家からとても遠いですから……」
「ああ……なるほど。この図書館、丘の上にあるもんな。あのばか長い坂を登ってくるのはめっぽう骨が折れたぜ」
「でしょう? 私なんか最初の頃は、坂を登るだけでも足が棒のようになって、まともに動けなかったんですよ。利用者の方も徒歩で来る人はほとんどいなくて、みなさん途中まで馬車に乗って来られますし」
世界中の本が集まるフォレス王都屈指の名所の割に、建物のある立地条件が最悪なのです。
広大な城下町を抜けて、その先もちょっとした登山にも似た急勾配で長い坂を登るものだから、いくら多種多様な本に囲まれるとはいっても、進んで司書になりたがる人は滅多に現れません。
自分で言うのも何ですが、それこそよほどこの図書館の魔力に取り憑かれた私みたいな変人くらいです。
でもその代わり、これだけ高所にある図書館なので、本を盗んでいこうなどという不届き者も途中で疲れてしまい大体諦めてしまうようです。
それ以前に、坂の入り口には警備の兵士さん達が立ち番をしてくれているので安心だけれど、どうせなら図書館の前にいて欲しいものです。やっぱり毎回坂を往復するのが大変なのでしょうか。
「大丈夫なのか? 正直、ここの本を管理するって考えただけで気が遠くなりそうなんだが」
「はい、うっかりしてると本の配置場所を間違えたりしてしまって余計に時間がかかりますけど、それでも慣れたら結構いけるんです。……人手が多いに越した事はないですが」
あはは、とロランさんと二人で笑い合い、そのまま二階へ到着。
ここにはより複雑な専門書や、フォレス国土の郷土資料、各国の歴史書などがまとめられています。全てを回っていると日が暮れてしまうので、ロランさんには特に目立つ見出し部分の蔵書をそれぞれ案内しました。
あ、とそこで私は思い出し、ロランさんへ向き直ります。
「ロランさんって、城下町に住む人じゃないですよね……? 多分、国外から来た旅の方だとは思うんですけど」
「ああ。俺はフォレスの人間じゃない。それがどうかしたか?」
「あのー……残念なんですが、王立図書館はフォレスの人じゃないと本の貸し出しができないんです。そのまま持ち去られちゃったり、戸籍上の問題で管理に支障が出たりと、色々ありまして……」
申し訳なさそうに言うと、ロランさんはそんな事か、と明るく破顔して。
「いいよ、別に。俺もちょっとばかり覗きに来ただけだからさ。――それに貸し出しはできなくても、読むのは構わないんだろ?」
「はい、それはもう! それこそ心ゆくまで読書していって下さって大丈夫です。ロランさんには、もっとこの図書館を楽しんで欲しいので……」
照れるな、と頭を掻くロランさんに、思わずテンションの上がっていた私までちょっと意識してきてしまったので、あわあわと背を向けて三階へ向かう事にしました。
私がロランさんに合いそうな、著名な作家の小説が収められているブロックへ先導すると、見るからにロランさんの目の色が変わり。
「すげぇな、こっちの列のやつ全部冒険譚じゃねぇか! 有名な冒険家がこんなに本を書いてたなんて、初めて知ったぜ!」
「ロランさんは、冒険に興味がおありなんですか?」
「興味も何も、俺も冒険家なんだぜ」
ロランさんは振り向き、私へにやりと笑いかけます。どちらかというと細身ながら鍛えられた風体や爽やかな中にもどこか旅慣れた雰囲気から何となく感じていた事ですが、そう面と向かって言われるとやはり驚かされます。
「すごいです、私、冒険家の方なんて初めて見ました!」
まだ見ぬ秘境や秘宝、伝説を求めて世界各地を旅する人々。そんな人が王立図書館に来てくれるなんて、興奮もひとしおです。
ロランさんは本を棚に収め、通路を抜けて三階バルコニーまで行くと、柵に肘を立てて前方へ視線を送りました。
「冒険はいいぞ。そりゃ、収入は安定しないしその日暮らしな面はあるけど、それ以上に誰も知らない大地、宝、そして何よりも夢とロマンが待ってる。高い山、時には深い沼や激しい流れの川、どことも知れない闇の深まる洞窟と、険しい道のりの数々。人と人との一期一会、出会いと別れを抜けた末にたどり着いた境地は、何にも代え難いんだぜ」
遠くを見るようにして語るロランさんの隣を、清々しい一陣の風が吹き抜けたような気がしました。同時にどこまでも続く草原の風景や、匂いまでもが感じられて、私は思わずロランさんを見つめてしまいます。
「何だか……素敵ですね。私なんて、図書館どころかろくに城下町からも出た事がないし、ロランさんの仰る外の世界は、それこそ本の中でしか見た事がないですから」
「そんなの見た内に入らないって。その足で歩いて、その手で掴んで、その目で見てこその世界なんだぜ。ジェシーもこれだけの本に囲まれてて、あんまり外を知らないってのはもったいないなあ」
でも、と私はうつむいてしまいます。両親の勧めで図書館で働けるようにはなったけれど、本当は人と話すのは苦手なのです。
できればずっと本の中だけで生活していたいくらい。だからそんな私が、いきなり旅をしてみるなんて想像もできないというか、無理というか。
ロランさんはそんな自信なさげな私を一瞥して、気遣うように笑いかけました。
「……まあ、そんなわけだからさ。俺もいつか名が知られるくらいになったら、この図書館にも本が置かれるかも知れないな。奇想天外な体験を綴ったロラン冒険記、みたいな」
「あ……いいですね、それ。もしそうなったら、私もぜひ読んでみたいです!」
本という媒体を読む事で、私もロランさんの旅路を同じように冒険した気になれる。空想めいた楽しみ方だけれど、内気で閉じこもりがちな私にはそれくらいが似合っているように思えます。いつかそんな日が来たらいいな、と微笑みが漏れました。
三階の案内も終わり、階段を下りて一階へ戻ります。そこまで行ったら、ロランさんはどうするのでしょう。だいぶ様々な本に関心を持たれていたようですし、一階の机で読書をするのでしょうか。
それとも……もう帰ってしまうのでしょうか。ここまで案内するだけで結構時間もかかりましたし、城下町へ徒歩で戻るだけでも一苦労なのです。ロランさんは冒険家ですから、その後はまた、別のところに旅立ってしまうのかもしれません。
そう考えると、寂しげな気持ちが湧き上がって来ます。ロランさんはいい人です。最初の時だって本の山に埋もれた私を助けてくれましたし、今だって気遣ってくれたり、冗談を言って笑わせてくれます。できるなら、もっと話をしていたい。一緒に本を読んで、笑い合いたい。
そんな風に思ったのは初めてでした。今まではお客さんと接する事に緊張はあっても、それが緩むのは本の紹介や内容について話す時だけです。もっとその人を知りたい、なんて事はありませんでした。
だから私はそわそわしたものを表現できるわけでもなくただもてあまし、無言のまま一階へ下りてきてしまいます。もう少し社交性があれば何かできる事があったかも知れないのに、顔も上げられない自分が恨めしいです。
「いや、楽しかったよ。本当に色々な本があってさ。ここの司書さんも面白い人だし」
にっ、と笑われると私はそんな事、と顔の前で手を振ってしまいます。からかいだとは分かっていても、恥ずかしいものは恥ずかしいのです。
沈黙してしまった私と違い、ロランさんは改めて図書館を見渡しているようでした。世界あまねく蔵書を蓄えた本棚を眺めて、何に思いを馳せているのか、私には知りようも、想像しようもありません。私とロランさんとは、あまりに住む世界が違うのです。
「……おや?」
勝手に落ち込みかける私に背を向け、きびすを返したロランさんは読書用の机の一つへ近寄っています。視線は机上へ落とされ、口元が怪訝そうに開きました。
「こりゃなんだ?」
「え……?」
つられて、私もそちらを向きます。
――そこに置いてあったのは、見覚えのまったくない、鮮やかに赤い一冊の本でした。
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