喫茶アルコポン

安良巻祐介

 

 喫茶「アルコポン」の戸はもう三日も前から閉め切ったままであった。

 扉の上には少し黄色がかった褪せ紙が貼られ、そこに「蜃気楼を見に行くため臨時休業致します さざなみコーヒーは通信販売致します でんわ ○○××…」とだけ書いてある。

 一体いつまで休むのか、そして蜃気楼を見に行くとは何なのか、どこへ行ったと言うのか、そして通信販売とは何なのか、いずれもよくわからないため、喫茶の常客たちは店の前で行き遭っては、狐に抓まれたような顔を見合わせるだけであった。

 一応電話番号が書いてはあるが、皆の知っている店主の番号ではないし、そもそもさざなみコーヒーが何なのか誰も知らなかった。喫茶のメニューにはなかった筈の名前だ。

 とりあえず一昨日、昨日とそれぞれ皆帰りがけなどに話し合って不思議に首をひねるばかりであったが、とうとうこの日、思い切ってそこに書いてある番号に電話をしてみることに決まった。

 店主がいつ帰って来て店を開くつもりなのか、全く分からないままでは気持ちが落ち着かない。皆積極的な性格ではなかったものの、憩いの場の消失に耐えられるほど頑丈な性格でもなかった。

 コインゲームの結果、電話役を仰せつかったのは私であった。

 何となく英雄的な心持がして、我ながら大げさに思いながらも、客たちが見守る中、震える手で電話のダイヤルを回し、少し待つ。

 遠く、何かが渦巻いているような音が耳の奥で小さく響いていたかと思うと、ふいに水中から浮上したように音が鮮明になり、何やら名を名乗ったようだ。

 その名前はひどく不鮮明であったから、まずは店主かどうか確かめて安否の確認を……と声を出すと、ショウショウショワショワと雑音が風のように混じり、シャジャナミコーシー(さざなみコーヒー)と勝手に注文を取った。あっけにとられているうちに電話は終わり、聞きたいと思っていたこともろくに聞けなかった。

 自宅に帰ってから予想以外の喪失感に苛まれ、私などは引きこもっていたが、やがてさらに時間が経って、喫茶を惜しむ声や様子を見に来る客足もぽつぽつと疎らになってきた頃、ちょっと変なことが起こった。

 喫茶アルコポンの前には古ぼけた宣伝スタンドがあるのだが、そのスタンドの、コーヒーカップの形をした部分に、ある日の朝、なみなみと空色の透明な液体が満たされていたのだ。

 前の晩に雨が降っていたので、普通に考えれば雨水の筈なのだが、それにしてはひどく綺麗な色をしている。おまけに何とも言えない芳ばしい香りが、そこから立ちのぼって店の周りに漂っていた。

 そのあたたかな香りに惹かれて喫茶の前に集まった常客の面々は、鼻を幸せそうに蠢かしながら、口々になんだなんだと言い合った。

 誰も何の説明も付けられず、ただ手持ち無沙汰に取り留めもない話をするばかりだった。春の日の薄い陽光が、久々に人で賑わう店の屋根の上に差し、眠たくなるような空気の中、ふと誰かが「くだんのさざなみコーヒーとはこれではないか」などと言った。何の理屈も通っていないのだけれど、空色の残り香に鼻腔を擽られていると、何となくそんな気もしないではなかった。

 結局、正午までにその不思議な液体はすっかり蒸発し、貼り紙もいつの間にか消えていた。

 あいにくと誰も電話番号を控えていなかったので、あの通信販売の番号へは、もう二度と掛けることができなかった。

 それから今日で十年。

 店主はまだ、帰って来ない。

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喫茶アルコポン 安良巻祐介 @aramaki88

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