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 そんなことがあってからしばらくして、平和を取り戻していた校閲部に再び櫻田の情けない声が響き渡った。「ちひろちゃ~ん……!」と勝手に泣きついてくる声を右から左へ聞き流しつつ概要だけは耳に入れさせられてしまったところによると、なんでも今回はネットで叩かれたからもう続巻は書きたくないと駄々をこねている作家がいるという。

 誰だそいつは。そしてなぜ櫻田は当たり前に自分を頼るのだ。

 ちひろは仕方なく校閲の手を休めて櫻田を見る。

「知りませんよ、自分で何とかしてください。それより、廻進堂はまだなんですか?」

 言うと櫻田の顔が「うげっ」と歪んだ。日下部女医と焼き肉に行った際、思いのほか高くついてしまったので、どうやら櫻田の財布事情は空っ風が吹いているらしい。しかし、もちろんちひろには奴の事情を汲み取ってやる筋合いは少しもない。

 なんだかんだと言い訳を並べられ、また先延ばしにされているのだ。もう八月になろうかというのに、また面倒事だけ持ってくるとは何事だろうか。

 三度目の正直は叶わなかった。その代わり、叶ってほしくない〝二度あることは三度ある〟は叶ってしまった。なんであのとき櫻田が格好よく見えたのだろうと、ちひろは不思議で不思議でたまらない。こんな縁なら、今すぐ切ってしまいたい。

「そんなこと言わないでさぁ。ね、俺とちひろちゃんの仲じゃん?」

「……親しき中にも礼儀ありって言葉、知らないんですか?」

「えっ。ちひろちゃん、俺のこと親しい人だと思ってくれてたの!? なんだよそれ、めっちゃ嬉しいじゃん! 今度のことが終わったら二人でゆっくりご飯行こう! 早峰カズキとか美崎先生とか小野寺さんの近況も報告したいし、ぜひそうしよう!」

「言葉のあやです。ていうか、話を逸らさないでくださいっ」

 ――と。

「まあまあ。毎度のことながら、斎藤さんも櫻田君も、ちょっと落ち着いてください。櫻田君のほうは、あれから体調は大丈夫ですか? 廻進堂のものではないんですけど、岩手の親戚から、滝沢たきざわ市で作られている有名な〝滝沢スイカ〟が送られてきたんですよ。ちょっと早いお中元だということだそうですけど、大玉スイカを三つも四つも送ってもらっても家では食べきれませんから。食べるの手伝ってもらえませんか?」

 そこに当たり前に入ってきたのは、やはり竹林だった。応接テーブルを見ると、そこには当たり前に贅沢に半月形に切った真っ赤なスイカが三人分、皿に乗っている。さらに周囲を見回すと、校閲部員全員のデスクの上にも同じものが置いてあり、彼らは仕事に没頭しつつもシャクシャクと小気味いい音を立てて真っ赤なそれに舌鼓を打っていた。

 これは食べなきゃ損だ。ちひろはゴクリと喉が鳴る。でも、ここで前回のように竹林にうまく誘導されてしまっては、元も子もない。だいたい竹林は櫻田を甘やかしすぎなんだと思う。だからこいつはいつまで経っても念書を守ろうとしないのだ。

「あ、おかげさまで、もうすっかり。その節は本当にありがとうございました。ろくにお礼もできないまま今日になってしまって、すみません。それにしても、めちゃくちゃ美味しそうなスイカですね~。いいのかな、いつも俺まで頂いちゃって……」

 おい。そんなことを言いつつ、もう食べる気満々じゃないか。ちひろは、意気揚々と応接テーブルに向かう櫻田の背中を激しく睨みつける。一度は目の前で倒れたその背中も、今ではすっかり元通りだ。元の調子のよさも、ますます健在である。

「斎藤さんも。ぜひ一緒に食べましょう? 美味しいですよ」

「……うう、はい」

 でも、上司の誘いを断れないのは、一塊の平社員であるちひろも同じだ。にこにこ顔の竹林にそう促されてしまっては、ご相伴にあずかるしかない。

「うっっま!」

「斎藤さんはどうですか?」

「……美味しいです。美味しくないわけないじゃないですか」

「ふふ。それはよかった。スイカは水分補給にもとってもいいんですよ。これから二人でその作家先生のところに出向くんじゃないかと思いましてね。……ここだけの話、斎藤さんと櫻田君の分のスイカは、みなさんのものよりちょっと厚めに切ったんです」

「……」

 なんということだろう。唖然としすぎてしまい、ちひろはスプーンですくい取ったスイカを皿の中にボトリと落としてしまう。前々から怪しいと思っていたが、今の台詞で確信した。上司相手にこう言った言い方は失礼だけれど、竹林は狸おやじである。

 ふわふわしているかと思えば、しっかりちひろの手綱を握っていて、ひとたびそれを握られてしまえば一巻の終わり。このように、まるで弱点のように扱われてしまう。

 ひょっとすると、櫻田の手綱もすでに握られてしまっているのかもしれない。とにもかくにも、食えないおやじである。一番恐ろしいのはこの人だ。

「だってさ、ちひろちゃん。部長もこう言ってることだし、一緒に説得しに行こうよ」

「なんで校閲の私が……。でも、仕方ありませんよね、こうなってしまっては。今度は誰が何の作品で叩かれたんでしたっけ? 私にできることがあるといいんですけど」

 けれど正直、ちょっとワクワクもする。ひょんなことから関りを持つことになった、あの三人の近況も聞きたいし、こうやって櫻田に振り回されるのも悪くない気もする。

 熱中症からの回復祝い……と言ったら、だいぶ日が経っているし、ちょっと言い訳に苦しいだろうか。でも、こういう〝縁〟も〝縁〟だ。廻進堂に関してはマイナスに働きっぱなしで櫻田の株はますます下降の一途を辿っているが、仕事の面でも対人関係の面でも、今のところ、なんだかんだとプラスに働いている要素があるように思う。

 そういえばいつの間にか、どもる癖も治ってきているし。この調子で自分で相原部長に櫻田の虚言癖を訴えるための内線をかけられるようになるといいんだけれど。

 ――いや、期待しすぎか。

 とにかく。

「わーい!」

 手放しで喜ぶ櫻田に、ちひろは苦笑する。こういうところが憎めないというか、助けてあげなきゃと思わされるというか、ちょっと可愛く見えなくもない……かもしれない。

「じゃあ、さっそく。今回は、時代小説の若手の木野下暁きのしたあかつき先生っていって――」

 櫻田の声に耳を傾けつつ、厚く切ってくれたという、滝沢スイカを口に運ぶ。よく冷えていて、びっくりするくらい甘い。スイカにはカリウムが豊富に含まれているので、疲労回復にもいいと聞く。出がけに水分補給していくのも、たぶん効果はあるだろう。



 ちひろが、念書を守ってもらうためには直接櫻田を廻進堂の店舗に連れて行けばいいのだと気づいたのは、木野下暁先生に、いかに先生の時代小説は素晴らしいかを校閲の目から見た観点で散々述べさせられ、やっと解放してもらった深夜0時過ぎのことだった。櫻田と二人で一生懸命に先生を励まし、褒めそやし、どうにかこうにか次回作もきちんと締め切りを守って書いてもらう約束を取り付けるに至った帰り道でのことである。

 どうやら木野下暁は褒められて伸びるタイプらしい。実に面倒くさい作家である。だったらネットで評判なんて見なければいいのに。……それはともかく。

「あ!」と声を上げたちひろに、櫻田がのん気に「先生のところに忘れ物でもしたの?」と尋ねてくる。ちひろはそんなアホな櫻田を見上げて首を振ると、

「今日はもう遅いので、明日にでもさっそくご飯に連れてってください、櫻田さん」

 にっこり笑ってそう催促する。そのとたん、ちひろの魂胆など知る由もない櫻田が、名字呼びにぱあぁっと喜色を浮かべ、さっそくスマホでお店のリサーチを開始する。

 廻進堂の店舗のほうが先に営業を終えてしまうのは、目に見えている。定時できっちり仕事を終えて、まずは廻進堂に連れて行ってもらってからご飯だ。

 どんなに太ってもいい。心ゆくまで廻進堂をむさぼられれば、それだけで十分だ。

「あ。ちひろちゃん、満月だね」

「わぁ。どうりで今夜はいつもより夜道が明るいと思ってました」

 隣で足を止めて煌々と輝く満月を見上げる櫻田に倣い、ちひろも空を仰ぐ。

 櫻田との縁を離さない限り、櫻田はこれからもちひろを良くも悪くも振り回すだろう。でも、そうして無理やりにでも引っ張り出されなければ見えなかったものを、校閲だけしていては見逃してしまっていた作家たちの大切な思いを、彼のおかげで見せてもらったのは確かだ。それが今、しっかりとちひろの胸に息づいているのも感じる。

 ――赤い糸でも腐れ縁でも、縁は縁か……。

 満月からそっと櫻田の横顔に目を向け、ちひろはふとそんなことを思う。櫻田との縁は腐れ縁のほうに決まっているだろうけれど、案外こういう縁も悪くないかもしれない。

 今まで、家族以外にはほとんど誰とも縁を結んでこなかったのだ。最初の縁が櫻田なんてちょっと嫌だな、なんて思いつつも、無理やり登録させられた櫻田の電話番号が今もちひろのスマホの中にきちんと登録されていることを思い出すと、少しおかしい。

「え、なに笑ってんの? 俺の顔、そんなにおかしい?」

「いえ。それよりさっさと帰りましょう。木野下先生のおかげで終電ギリギリです」

「ええー……」

 事実は小説より奇なり、とはよく言う。本当にそうだと、最近、よく思う。

 悔しいから櫻田のおかげだなんて絶対に言わないけれど、もう物語の中に閉じこもってばかりいては素敵なものを素通りしていくだけだと、ちひろは気づいたのだ。

 颯爽と前を歩くちひろの背中を櫻田が不満げに追いかける。そのとき、ちょうど夏の夜の風が二人を追い越していった。吹く風はお世辞にも爽やかとは言い難い、都会の夜のむっとした熱気を多く含んだものだった。でも、本ばかり読んでいては、こんな季節の風さえ感じられない。今まで、どれだけのものをリアルな世界で素通りしてきたのだろうと思うと惜しい。けれど、きっと今からでも遅くはないはずだ。

 そして、廻進堂もまだまだ遅くない。

 明日は首輪をつけてでも櫻田を廻進堂に連れて行くのだ。その先が廻進堂だと知って、がっくりと膝からくずおれる櫻田の姿を想像し、ちひろはまた、少し笑った。



【了】

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これは校閲の仕事に含まれますか? 白野よつは @chibiichigo

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