それから二週間ほど経った頃、改めて小野寺さんと食事の席を設けることになった。

 そこにはちひろと、なぜか日下部女医の姿もある。小野寺さんが、世話になったので、とちひろのことも誘ってくれたのはわからないでもないが、仮にもヤンキー口調で呼び出された相手とも同席しようだなんて、小野寺さんもなかなか不思議な人だと思う。

 しかし、日下部女医から預かった例の言伝を伝えたところ、櫻田がなんとかリーズナブルなお肉で手を打ってもらえないかと直談判したそうで、その際「面白い話が聞けるかもしれませんよ」と彼女を煽ったらしいのだ。ちひろはそれを聞いて、あっさり断られるのではと思っていたのだが、意外にも日下部女医は乗り気だったらしく、加えて作家の大失恋話が聞けると聞いて、顔をほくほくと綻ばせながら焼き肉店にやってきたのだ。

「日下部先生、笑いすぎですよ……」

 ちひろが軽く窘めると、彼女はビールグラスを口元に運ぶ手を休め、

「だって、彼女の浮気で小説が書けなくなるとか、メンタル弱すぎじゃないの」

 と、他人のちひろでもぐっさりと心に突き刺さるようなことを平気で言う。

 酒を飲みつつ肉を焼きつつ、小野寺さんがなぜ小説が書けなくなったのかを話し終わった矢先のことだ。日下部女医の隣に座っているちひろも、ちひろの向かいの席の櫻田も、本人が目の前にいるのになんてデリカシーのないことを言うんだと顔が青ざめる。

 ――それでも医者か。喉元まで出かかり、ちひろと櫻田は必至にそれを飲み下す。

「ぶはははっ。ほんっと、そうっすよね。三十を過ぎた男が二年も前の失恋を未だに引きずってるなんて、アホですよ。高三のときからなんで、十一年は付き合いましたかね。その間、俺は、彼女が俺の書く話が好きだって言ってくれたことを真に受けて、執筆優先でちゃんと就職もしなかったのに、本当によく付き合ってくれてたと思いますよ。二十代の中盤までは、まだ夢にしがみついていても許せていたんでしょう。でも、いつまで経っても芽が出なけりゃ、そりゃ、他所の安定した男のところに行っても仕方ないです」

 しかし小野寺さんは、日下部女医の暴言をもろともせず……というか、自分でもっと煽りながら鷹揚に笑ってそんなことを言う。これにもちひろと櫻田は目を見張った。この間は少し涙を滲ませていたのに、彼の中で一体、何が起きたというのだろうか。

「そうよ。正社員をしながら執筆をしているプロの作家もいるのに、あなた、彼女にとことん甘えていたんだもの。そんなに長く付き合っていたんなら、結婚だって当然意識するでしょうし、子供だって欲しくなって当たり前なの。彼女のそういう心の変化に気づいてあげられなかったあなたが全面的に悪いわ。浮気されて当然よ」

「ですよね。それをあとから気づいた俺が悪いです。自分ばっかり傷ついたふりをして、その腹いせのようにずっと何も書かなくて。俺と別れて正解ですよ、彼女。風の噂で、どこぞの商社マンと結婚して、子供も生まれたって聞きました。俺が幸せにしてやれなかったのは今でも心残りですけど、でも今、彼女が幸せなら、それでいいです」

「ハッ。俺が幸せにとか、なに上から目線で言ってんの? だから男って嫌なのよ、そうやってすぐ自分が男であることを誇示したがる。まるで女は男がいなきゃ幸せになれないみたいじゃない。そういう考えを捨てれば、いい出会いもあるんじゃないの?」

「はっ! 目から鱗! 盲点でした!」

「バカだわ~、この人。こういうバカにほだされて女はダメになるのよ。斎藤さん、あなたも男を見る目はきちんと養ったほうがいいわ。こんなバカには惚れないように」

「あっ。……は、はい」

 そんな心配をよそに、日下部女医と小野寺さんは網の上でこんがりと焼ける牛ロースをつつきながら楽しそうに会話を続け、なんとも困る振りをちひろに向けた。面倒くさいことになるのを避けるために、とりあえず頷いておいたが、二人ともけっこうお酒が進んでいるので、日下部女医はもう言いたいことがオブラートに包みきれていない。

 とんでもなく、すっぽんぽんである。ぜひとも早めに避難させていただきたい。酔った勢いで日下部女医に男性遍歴なんて聞かれたときには、きっともう生きてはいけない。

「ま、まあまあ二人とも。この前発刊になった『小説つばき』に送られてきた読者さんからの感想の話なんですけどね、なんと大好評だったんですよ、先輩の書いた『東雲草の恋文』が! 定期的に短編を載せて、ゆくゆくは連載もできないだろうかって、つばきの編集長がわざわざ俺のところに言いに来てくれたんです。先輩、ぜひ書きましょう! うちの編集部でも短編集でデビューの話が再燃してるんです。ここは書かなきゃ絶対にダメなところです! 原稿を落としたクボタにもっと泡を噴かせてやりましょう!」

 そこに助け舟を出したのは櫻田だった。普段は全然気が回らないのに、こういうところだけはしっかりしている。こんなふうに人の心を読み取ることができるなら、廻進堂の和菓子だっていつでも献上できそうなものなのに。使える男なのか、使えない男なのか。微妙にジャッジに困るなと思いつつ、ちひろはちびりとビールを口に含んだ。

「そうだなぁ……。なんか、今なら書けそうな気がする」

「マジっすか! どんな話にしましょう!?」

 櫻田が食い気味で話の水を向ける。プリントアウトしてきた読者からの感想の紙をいそいそと鞄から取り出し、その場はあっという間に仕事の打ち合わせに様変わりした。

 すると、話し相手がいなくなった日下部女医が、ちひろにこそっと耳打ちしてきた。

「もしかして彼の別れた彼女、さげまんだったんじゃないかしら? まあ、賞に入選するくらいだから、もともと実力はあったんでしょうけど。でも、今になってようやく運が向いてきたっていうことは、その可能性も否定できないと思わない?」

「ごふっ」

 そのとたん、ちひろは盛大に咽込んだ。その背中を彼女が「あらあら、大丈夫?」とさすってくれるが、口調は実にしれっとしたものだ。彼女は『さげまん』の語源をきちんと理解した上で言っているのだろうか。……いや、この調子なので知らないわけがない。

 こんなところでそんな話はぜひともしないでいただきたいと、ちひろは痛切に思う。櫻田と小野寺さんは次回作の打ち合わせに夢中なので、ちひろが咽たことにも気づいていない様子だから、まあいいけれど。だが、とにかく二重の意味で失礼だ。

 それでも医者か。ちひろは危うく「そ」と言いかけてしまうところだった。

「でも、一緒にいてくれる誰かがいないと、幸せになれないってこともあるからね」

 ちひろが落ち着くと、日下部女医は言う。

「人は一人でも生きていけるわ。けど、どうしようもなく誰かにそばにいてほしいときだってあるもの。斎藤さんもそういうとき、ない? 他愛もないことを気軽に話せる相手とか、寂しいときにそっと寄り添ってくれる相手とか、猛烈に欲しくなるとき」

「え……」

「斎藤さんはまだ若いから、そんなことは考えないかしら。だけど、そういうのはお金ではけして買えないものなのよね。運命の赤い糸でも腐れ縁でも、縁は縁。自分にとってマイナスにならない縁なら、大事にしておくに越したことはないと思うわ」

 呆けるちひろにそっと笑って、日下部女医は網の上の肉を根こそぎ自分の皿に移した。タレをつけて上品に口に運ぶと、彼女は「焼肉もたまにはいいわね」と笑う。

 そのときちひろは、自分のことを言われているのかと思った。

 活字さえあれば生きていけるとずっと思ってきた。櫻田と関わるようになってからも、それは変わらなかった。でもたまに、それでいいのかと思うときもある。仕事に対する姿勢も、人に対する姿勢も、今のままでいいのだろうかと、漠然と思うときが。

 思い返してみると、早峰カズキのときも、美崎糸子のときも、そして今回も、ちひろの隣には当たり前に櫻田がいた。嫌な面だけ見せてくれたらいくらでも嫌いになれるのに、ときどき妙にいいことを言うから、結局いつも調子を狂わされるのだ。

 それが日下部女医の言うところの〝縁は縁〟なら、櫻田との縁を切るのは名残惜しいとさえ思う。小野寺さんの作品から溢れているような、無条件に誰かを愛しく思う心、慈しむ心なんて、リアルで一つも経験のない、経験しようとすらしてこなかったちひろにはまだまだわからないが、それでもこの縁は切りたくないと思ってしまうのだ。

 人の心はけしてお金では買えない、自分にとってマイナスにならない縁なら大事にしておくに越したことはない――日下部女医の言葉が、ちひろの胸にさざ波を起こす。

「……っ」

 ふと顔を上げると櫻田とちょうど目が合い、ちひろは軽く狼狽えた。焼き肉店の照明がオレンジがかっているからか、それともちひろの目が疲れているからなのか。目が合ったとたんにニッと笑った櫻田の顔に、なんだか胸が鳴るような気がする。

 気のせいだとやり過ごすには少し強い。

 でも、それがどんな意味を持つものなのか、ちひろにはわからない。胸に手を当てて首をかしげるそんなちひろを、日下部女医が数枚の肉を咀嚼しつつ訳知り顔で眺めているが、ちひろは自分のことにかかりっきりで、彼女の視線に気づくわけもない。

 そのうち日下部女医が追加のカルビを注文し、一人で焼いて一人で食べはじめた。「お肉なくなるわよ」と言われて、はっと我に返ったときには、網の上のカルビは、もう残り一枚。最後のそれを譲ってもらいつつ櫻田を見ても、やっぱりちひろの胸は少し鳴るような気がして、ちひろはそんな自分に戸惑うばかりだった。

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