#76 闇夜の声

 歴史についての話をしよう。ミスター・ホプキンスは録音用のマイクに向かってそう告げた。あの時代を振り返る上でいちばん難しいのは当時の人びとが置かれた立場や状況、感情を自分に置き換えて想像することだ。つまり何不自由なく暮らしてきてこれから自分達に訪れる災厄について何の知識も覚悟もない人びとの身になって考えてみるということの難しさだ。私達は毎日のように戦前の人びとはもっと賢い選択ができなかったのだろうかと疑いを持つ。当然のことだ。だが、――例えば自分が選挙で投じたあの一票が独裁政権の台頭を許し世界を滅ぼす戦争に加わることになるなど想像できた人がどれだけいただろうか。勘違いしないでほしい。私はこれを以て当時の人びとを断罪すべきだと主張したいわけではない。そうではないのだ。つまり人にもし完全な自由なるものが与えられていたとしても。それどころかこれから起こる総ての出来事を予知できる御業を神様から分け与えられていたとしても最善の選択ができるとは限らない。それが恐ろしいんだ。


 ホプキンスは善き本の表紙に手を置いて一呼吸を入れる。


 もう一つ覚えておいてほしい。この国はかつて偉大な思想と文学、そして音楽や芸術を生み出した。セントラーダから、あるいはオーデルから。それこそ何十という偉人が輩出された。シュタッフェル兄弟のオペラは自由を愛する誰もが称賛し世界的な名声も得ていた。だが同時に我が国は渡してはいけない者達に権力を握らせてしまった……。私達はここからも教訓を得ねばなるまい。つまり、――優れた作品を享受することは必ずしも独裁への免疫を獲得することには繋がらないのだ。……ここで善き本から引用を一つ――。


   □


 夕食の後にもかかわらずスヴェトナはげっそりとやつれた顔をしていた。トフィーは満たされたお腹をさすりながらアリサの膝枕で眠っていた。そしてスカベンジャーの少女は背筋を伸ばしてホプキンスの言葉の一文節ごとにうなずきを挟んでいた。キャラバンの隊長は煙草を吸う手が止まらず護衛の男は膝の貧乏揺すりが止まらない。彼らが姿勢を正して目を向けたのはホプキンスが各居住地から集められたニュースやゴシップの類を共有するコーナーだった。


 駄目だ。何度聴いても欠伸が出る。話の後でスヴェトナは云った。抑揚もなければ小粋なジョークもない。間の取り方も下手くそだし肝心の中身だって祭日の礼拝のほうがまだしも希望の持てる説話が聞ける。原稿なしであそこまで喋るのは凄いが却ってブリキの人形みたいな質感に拍車をかけてる。――好く飽きないなアリサは。

 世の中ほんとうに大事なことは得てして平板なもんだよ。

 あいつは誰もが一度は考えたことを繰り返してるだけだ。

 だからこそ好いんじゃないか。そんな風に思ってたのは自分だけじゃなかったって安心できる。聴きたい言葉を届けてくれるんだ。

 お前の父親が好きな番組だったからその延長で奴を気に入っているだけに過ぎないんじゃないか?


 従者の少女はアリサの真後ろで鼻を鳴らした。主人の豊かな金髪をくしと香油でくしけずりながら。トフィーはアリサの膝に顔を埋めて寝息を立てている。彼女の銀髪をそっと撫でながらアリサは訊ねる。

 やけに突っかかってくるね今回は。

 心をくばってるだけだ。

 お金を取られてるわけでもあるまいし。

 むしろそれが奇妙だ。何か裏があるかも。

 気持ちは分かるけどさ。周りを見てごらんよ。


 アリサは周囲を右手で指した。一行が夜営に選んだのは戦前のドライブイン・シアターだった。十数台の車が放置され売店に目ぼしいものはなく空っぽだった。床には戦前では定番品だったポテト・クリスプやらチョコバーやらの包み紙が横たわっていた。辛うじて読み取れる商品名や煽り文句が今もなお人びとの気を惹こうと努力を続けていた。かつて映写用のスクリーンが張られていた構築物は骨組みだけとなっていた。その前の開けた空間に掘られた溝には山積みにされて焼かれた人間の骨があった。まるで映画の代わりに配置された展示物のように。ざっと数百人の命だったものが埋葬されることなく埋め立て場のゴミのように山となって砂塵に埋もれる時を待っていた。

 発見したときアリサはその遺体の山に再生機をかざして死因を再現しようとしたがスヴェトナに止められた。昼間のトレーラーで使ったんだから節約しろと。ホプキンスもすぐに同意した。死を視るのは充分だよスカベンジャーさん。今日はもう止めておきなさい。彼らのために祈るだけで弔いになるだろうから。


 アリサはスヴェトナに云った。――こんな救いようのない殺風景な場所にどんな裏めいた陰謀があるってのさ。見たまんまだよ。あるがままにみんな死んでる。ホプキンスさんは憂いているだけだよ。あの人も私達と同じ。死を目にしすぎたんだ。


 スヴェトナは何も答えなかった。アリサは振り返ろうとしたが両肩に手を置かれて叶わなかった。藤色の髪の少女がアリサの金髪に頬を寄せているのが感触で分かった。雪の結晶のように小さくはかない息の塊が吐き出される音が聴こえた。

 アリサも口を閉じた。スヴェトナの営為を沈黙して受け容れた。膝の上でトフィーが身じろぎした。あるいは目を覚まして話を聞いていたのかもしれない。


   □


 襲撃されたトレーラー。昼間に見かけたあれのことなんだが。キャラバンの隊長はドラム缶から立ち昇る炎を見つめながら云った。思い出した。あれに乗ってた運転手、――私と同じ組合だ。顔見知りだった。

 知り合い? 埋葬しなくてよかったの。

 別に親しかったわけじゃないよ。長いこと会ってなかった。

 それでもお仲間なんだろ。

 昼間も云ったが奴隷を商う連中と私らを一緒にしないでくれ。金輪際ね。スカベンジャーのお嬢ちゃんだって廃墟に巣食う人喰いと同類扱いされたら怒るだろう。

 ……確かにね。

 奴さんは真っ当な商売をしてたはずなんだけどね。何がトチ狂って奴隷を商うようになったんだか。


 護衛の男がわらい声を漏らした。乾いた雑巾から無理やり水滴を絞り出したかのような濁りを帯びていた。

 別に珍しいモンでもないだろ。屍肉喰らいにだって拾い物じゃなく生きてる人間から物資を奪うような畜生に堕ちる連中がいる。生活のためにな。販路がなくなってにっちもさっちもいかなくなったらそりゃ奴隷だろうと麻薬だろうと手を出す奴はいるさ。

 あのさ。云っとくけど私は同胞喰らいのスカベンジャーじゃないからね。

 不愉快か? ――お前が隊長に無遠慮に云ったのはそういうことさ。

 …………返す言葉もないよ。

 反省できる奴は嫌いじゃない。


 男は再び笑った。彼は銃を分解して布で清掃し油を挿していた。レシーバーとストックに軍用の防錆加工を施したショットガンだった。地面に敷いた板に各部品を整然と並べて一つひとつ点検する。まるで土産物を売る露天商のように。ドラム缶の火の明かりだけでは頼りないはずだが手つきに狂いはない。

 スヴェトナはトフィーの隣で寝息を立てていた。両膝を畳んで胎児のような格好で毛布にくるまっており大の字に近いトフィーとは対照的だった。お前より先に寝るわけにはいかない、あいつらはまだ信用できない、と踏ん張っていたがアリサの説得で寝てもらうことにした。足に巻いた包帯も替えてやった。銃創は感染症に繋がらなかったが出血で失われた体力は快復していない。


 隊長の女性に向き直ってアリサは云った。それで、――あんた達はどういう経緯でホプキンスさんと?

 昔からの腐れ縁だよ。あの男が移動する時は私らも同行するんだ。金払いもいい。

 移動? ――なんでまた。

 戦前の古い電波塔から電波塔へと各地を回ってるんだよ。巡礼の使徒みたいにね。あの人の声をより遠くに届けるために。今の設備じゃせいぜい周辺の町まで電波を届けるだけで一苦労。だったら直接出向いたほうが早い。――ただ今回は長旅だ。旧国境を越えるんだからね。

 オーデルよりもさらに東ね。アリサは灯を見つめながらうなずく。どんなところなんだろ。行ったことないな。

 スカベンジャーが歓迎されないことだけは確かだね。最初に魔鉱兵器の洗礼を受けたのは向こうの国だったから。

 アリサはうなずく。私が引き請けた護衛は旧国境まで。あんた達は向こうに行くわけ?

 いんや。積荷をおろして取引はするがそこから先はホプキンス一人さ。

 危険なんじゃ。

 危険のない場所なんてこの世のどこにもないさ。リーダーは低い声で笑った。――お嬢ちゃんだってリスクを犯してる。私らの護衛を引き受けたのも組合の他のスカベンジャーが目ぼしい依頼を掻っさらっちまったせいだろう。物拾いならともかく御守りなんて危険なばかりで報酬は高が知れてる。

 確かにそうだけど。何で分かるのさ。

 お前さんがいかにも貧乏くじを引かされそうな幸の薄い顔をしているからさ。

 アリサは何も云えずにうつむいた。代わりに銃の整備を終えた護衛の男が口を挟んだ。――おやっさんには自殺というか破滅願望でもあるんだろうよ。あのラジオの録音を連日聴かされてきた身になってみろ。まるで殉教のためにあちこち出歩いてるように見えてくるぜ。

 アリサは答えなかった。幸の薄そうな顔という言葉のショックから立ち直るのに精一杯だった。

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