#77 演じること

 翌朝早くにアリサは目覚めた。出発まで時間があったので紅い外套を羽織り再生機とサイド・アームの拳銃をリグに入れてドライブインの敷地内を歩きまわり始めた。車の一台一台の中を覗き込み価値のあるものが残されていないか確認した。何かあることを期待してというよりも散歩や準備体操にも似た日々の営みだった。起き抜けの頭に自分が何者であるかを思い出させるための一連の儀式。ニワトリが鳴きセミが奏でるのと同じようにスカベンジャーは灰の中へと手を差し伸ばす。


 戦前では高級車に分類されていた残骸の車内を物色しているとき背後からアリサ、と呼びかけられた。アリサは驚いて顔を上げた拍子に車の天井に頭をぶつけた。

 あらまあ大変! トフィーの笑い声が朝の澄んだ空気の中で咲き乱れた。――アリサったらおっちょこちょいね。

 …………おはよう、トフィー。

 ええおはよ。朝から仕事熱心ね。

 畑に出かける農夫さんと同じだよ。すきくわの代わりに握るのは再生機。それで過去を掘り返して収穫物をさらうんだ。

 いつも素敵なご飯をありがとう。

 どういたしまして。昨日もそうだったけどその身体のどこにあんなに入るんだろう。

 美味しいものなら無限にいけちゃうわ。

 冗談に聞こえないからやめてよ……。


 アリサは車内の物色を再開した。しばらく充填の機会がなかったので再生機はできれば節約したかった。ダッシュボードにもトランクにも目ぼしいものは見当たらない。トランクには旅行カバンがあったが中は漁られた後だった。ハンカチ一枚すらない。もう使われることのない路線バスの回数券が蓋裏のポケットに入れられていた。アリサはかすれた文字を読んだ。知らない地名だった。


 アリサは諦めて車体にもたれかかると柑橘かんきつの色をした朝陽を目を細めて眺めながらスキットルに入れた水を飲んだ。これが瑞々みずみずしく甘味と酸味を湛えた果物の汁だったら再生機とだって交換するかもしれないと思った。


 スカベンジャーの少女をじっと見つめながらトフィーは口を開いた。ねえアリサ。

 …………。

 ねえったら。

 何。

 今まで生きてきて何もかも投げ出して終わらせたくなったことってある?

 これまた唐突だね。

 答えて。

 アリサはスキットルの蓋を固く閉めた。凹んで傷だらけの塗装を眺めながら云った。――あるよ。そりゃある。何度願ったか分からない。誰だってそうだと思うよ。

 生きてこうあるか、消えてなくなるか、それが問題、――というわけね。

 え?

 人生のしがらみを振り捨てても死という眠りのなかでどんな夢を見るか分からない。だから二の足を踏まずにいられない。――それを考えるから辛い人生を長引かせてしまう。こうして決意本来の血の色は蒼ざめたもの思いの色に染まってしまう。

 ……トフィー、また本からの引用?

 ええ。何度読み返しても飽きないわ。

 面白いんだ。

 それ以上に執着ね。大事なことを読み落としているんじゃないかって気になっちゃうの。戯曲だから読みやすいし尚更にね。

 今度貸してくれないかな?

 もちろんよ。寝る前に読み聞かせてくれたらもっと嬉しい。

 分かった。夜更かしはしない程度にね。


 トフィーは陽だまりの笑顔を咲かせて腕を回しアリサの胸に顔を埋めた。星の熱を蓄えているかのように高い体温が岩のすきまに沁みこむ清水のように心臓に伝わってくる。アリサは視線を移した。ドライブインの空き地に積まれた遺骨の山。陽射しに洗われたそれらは夜の時分に増して展示品の様相を濃くしており現実味を失って見えた。


 腕の中で少女はつぶやく。――ねえアリサ、これで死なない理由が一つできたでしょ?

 そうかもね。

 小さなことでいいの。毎晩の読み聞かせ。もしくは今夜のご飯の献立のこと。それを楽しみに生きるのよ。

 アリサは少女の背中をさすりながらうなずいた。そんなことで好いのかな、と言葉を舌の上で転がした。


 トフィーは顔を離して云った。読み聞かせ、――アリサが主人公の王子をどう演じ分けてくれるのか楽しみだわ。

 演じ分けるってどういうこと。

 あのね、――主人公は幕によって本当にたくさんの表情を見せるの。ある時は瞑想する哲学者。ある時は狂人。またある時は失恋した男の子。または友人。あるいは復讐者。

 それって本当に同じ登場人物なの。

 凄いでしょ。でもわたし達だって同じなのよ。誰だって時に過去を隠してまったく違う人間を演じてる。わたしが本当はアリサより年上で戦争前から生きてるなんて云ったら隊長さん達はきっと可哀想な目で見てくるわ。だから妹みたいな自分を演じてるのよ。生きてる人はみんな、――舞台の上だけじゃなく地面に這いつくばってる時も役者なの。

 そんな風に意識したことはなかったな。

 そう? ――アリサだっていろんな顔を見せてるわよ。物を拾うときは真剣に仕事をしてる大人の顔。美味しいものを食べてるときは見た目どおりの女の子。人の命を奪ってしまった後はとても哀しそう。そしてわたしがトラウマを突っついて怒ったあなたがお腹をつねってきたときは凄い顔してたわよ。

 アリサは顔をそらした。外套の襟を引き上げて口元を隠した。

 …………もういい。充分わかったから。

 あ、それとね。

 なに。

 その車。助手席のシートを裂いてみて。下に魔鉱石の欠片が隠してある。好い値がつくと思うわ。

 アリサはトフィーが首からさげているペンダントを見た。紺碧の魔鉱石。危ないから普段は隠すよう云っているのに気づいた時には戻している。

 アリサは云った。それを使ったの?

 ついさっきね。

 最初っから教えてくれたらよかったのに。

 ごめんなさいね。アリサが熱心に仕事をしてるところが見たかったから。

 本当にお前ってやつは……。

 見つけた報酬に一粒でいいからくれない? 最近口にしてなかったから。

 昨日あれだけポーク&ビーンズを食べたのに?

 あれは別腹よ。文字通りね。お願いよアリサ。

 ……敵わないなほんとに。

 やったわ。

 トフィーは再びアリサに抱きついた。


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【引用元】

 ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』,松岡和子 訳,シェイクスピア全集1,筑摩書房,1996年。

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