#69 グラスを満たせ

 クロエは羽ペンの先を唇に当てて日記帳に視線を落としていた。明かりはランタンが一つきり、外は雨雲が立ち込めているために僧房は薄暗い。肩から羽織ったケープは擦り切れやほつれに苦しめられながらもその役目を果たしていた。じっとしていると足の指先が冷えるのでピアノの演奏を思い出しながらリズミカルに上下させている。

 戦争を生き残った世代が口をそろえて認める事柄はいくつかある。そのうちのひとつが季節に関係なく舞い降りる寒さだった。夏であろうとふとしたときに冷気にも似た静けさが二の腕から肩にかけてをそっとなでていく瞬間が訪れる。はっと顔を上げて人びとは周囲を見渡す。そして塗装がところどころ剥げた壁や黒い染みのついた家具に目を向ける。


 日記帳のその日のページは日付と天気を記入したあと最初の一行を書きかけたところで止まっていた。その前の日付にはクロエとはちがう筆跡の持ち主、――敬虔なシスター少女よりもずっと達者な筆記体で数十ページにも渡って奔流のような激情がぶちまけられていた。貴重なインクがもたらした神の洪水。友人との軽い気持ちで始めた交換日記は今や激流をこぎ進むカヌー体験と化している。


 クロエはペン先を紙につけてからまた持ち上げて唇に当てた。眉間に寄った皺を親指と人差し指で揉みほぐして伸びをした。そして窓の外に視線を向けた。


 今夜はひと雨降りそうだった。


   □


 始まりはクロエがリシュカに対して突きつけたお酒の禁止令だった。演奏をすっぽかされた仕返しにその場の勢いで約束したのだが意外にもリシュカはそれを守っていた。だが爪を噛むという悪癖が始まったのでそれも禁止すると今度は髪の毛を口に含んでもごもごやり始めた。クロエが気持ちの整理のためにグロスマン教授にも勧められた交換日記を始めましょうと伝えたときには紅梅色の髪の一部はよだれまみれになっていた。


 最初のうちはリシュカの日記はそっけないものだった。日付を記した後に前日のクロエの記述に対してひと言感想を付け加えるくらいだった。――また綺麗事? ――朝の日課のお祈り、もう少し声を小さくできないの? ――あんたってほんとに幸せ者ね、頭が。

 だがクロエがめげずに日記を綴っているとリシュカの記述が増え始めた。ちょうど小雨が降って水たまりのかさが増えていくように。言葉の慈雨はインクの形をとって降り注いだ。日常生活では何も変わらない。リシュカは相変わらずの仏頂面で話しかけると今にも首を絞めてきそうな目つきになる。だが日記の頁を消費する速度は目に見えて早くなった。


 数週間も経つと水たまりはダムになっていた。そしてヒビの入った外壁から水がちょろちょろと漏れ出したのが数日続いたあと今朝になって決壊が始まった。それは日記帳ではなく呪詛をしたためた禁忌の魔導書だった。クロエは日記を開いたあと目をしばたかせおよそ数分をかけて前日の自分の記述を探す羽目になった。最初の一行目に読まなくていいと断り書きがしてあったがクロエは深呼吸して激流に飛び込んだ。数十分かけて読み終えたあと今もベッドで眠りこけているリシュカを見つめた。呼吸は成長しきったクジラのごとく長かった。恐らく徹夜したのだろう。


 クロエが日記とリシュカとを交互に見比べて迷っていると僧房のドアをノックする音が転がった。音を立てないよう椅子を引いて来客を迎えた。老スカベンジャーだった。彼は元司教からの伝言を預かっていた。


 今日は休みだと。

 おやすみ?

 お前さん達が日頃頑張ってくれてるから今日は好きにしてくれて構わないとさ。

 はあ。

 老人は赤黒く変色した外套の奥で腕を組んだ。――それでお前さん、予定はあるかね。

 いえ特には。

 それなら街の散策がてら組合に来るといい。奴さん、――ああ私の戦友があんたのピアノをまた聴きたいんだとさ。

 それは構いませんがリシュカさんが……。

 引っ張ってこればいいだろう。

 禁酒中なんです。

 分かっとる。しかしたまには羽根を伸ばさんと糸が切れたみたいにやらかすぞ。いきなり全面禁酒は反動で危ない。


 クロエは神の洪水に洗われた日記帳をかえりみた。もう糸はぷっつん切れている気がしたが口には出さなかった。そして老人に向かってうなずいた。

 …………仰るとおりかもしれません。でもほんとうにちょびっとだけですよ。リシュカさんがラクダみたいに飲みすぎてしまわないようあなたも一緒に止めてください。

 おう。

 約束ですよ。

 ああ分かってるよ。


   □


 酒場に入る前に老スカベンジャーは立ち止まりスイングドア越しに店内を見た。クロエにも、――後ろで眠たげに目をこすっているリシュカにも騒ぎは聴こえていた。あれまあ、なんてこった、と嘆息を漏らしてから老人は中に入った。


 組合酒場はいつにも増して混み合っていた。その主たる原因は新規の来客ご一行様によるものだった。クロエは何度かまばたきしたあと来客の集団とスカベンジャー達とを交互に見比べた。

 彼らの服装で何よりも視界に映えるのは鮮やかなグリーンの外套がいとうだった。店にいるくず鉄拾い達の血の色を染み込ませたものとは対照的に新緑の若葉を溶かした色彩。糊がきいていて生地は滑らか。縫い込まれた紋様もほつれがない。そのマークが意味する事象はたったひとつ、――緑服の彼らもまたスカベンジャーであるということだった。


 ――ほ、本当にないのか?

 ないよ。

 ご冗談を。酒場にエイルがないなんてクリープのない珈琲のようなものだ。

 だったら他を当たりなよ。あんたらなら他の連中みたいに門前払いはされないだろう。

 そうはいかない。酒を目当てに遥々中央まで足を運んだわけではない。だが礼儀として一杯だけは注文しようと考えたのだ。なのに肝心のエイルがないとは!

 ないものはないよ。ブランカかシエスコで我慢しな。濁りの好いのがあるんだ。あんたらのお好きな自然由来の味わい・・・・・・・・だよ。

 添加物は?

 てんか、――これまた懐かしい単語を。

 酸化防止剤だ。入っていないだろうな。

 …………ないよ。

 ふむ。それなら……。


 酒場のマスターと口論を繰り広げていたのはリーダー格らしい女性だった。男性陣に負けず劣らず背が高くインク瓶に詰まった塗料をぶちまけたみたいに漆黒に染まった髪を背中に下ろしていた。外套越しにもしなやかな肢体を有していることは明白で今にも鞭のごとき蹴りの一撃を放ちそうだった。

 議論がシエスコへと落着してマスターが奥に引っ込んでしまうとリーダーの女性は合図した。すると緑服のスカベンジャー達はカウンターに沿って横一列に並んだ。女性は軍隊の駐屯地を視察するかのように店内を一瞥いちべつしてから全員に向けて演説を始めた。


 ――赤服の同志諸君!


 するとこれまで黙って酒を飲んでいた常連客から次々と野次が飛んだ。

 同志じゃねえ。

 なんでよりによって今日来るんだよ。

 引っ込め!

 環境団体はお呼びじゃねえぞ。


 横槍が降り止むまで女性は辛抱づよく腕を組んでいた。聴衆が進んで話を聞く気になるのを待っているようだった。場が静まると第一声よりも幾分か声のトーンを落として語りかけた。


 同志諸君、……君達と話がしたい。遥か三百二十年もの昔、我々の父祖はこの大陸に種をまいた。圧制からの解放、そして自由と平等、公正の精神を大地に根づかせ彼らの血と汗で育ててきたのだ。そう、あの忌むべき破滅の戦争に至るまで。我々はその一大激戦地でこうして相会している。この地で生命を捧げたすべての人びとに対して遺された我々が負っている責任とは何か。それはかろうじて生き永らえたこの社会を二度と同じ惨禍に引きずり込まないようたゆまぬ努力を続けることであるはずだ。


 そこで彼女は間をとった。緑服のスカベンジャー達は直立して傾注を続けていた。赤服の常連客は頬杖をつくか貧乏ゆすりをするかげっぷ・・・を漏らしてその間を引き取った。


 女性は続ける。――なのに諸君はっ、――あの戦争で大陸中を汚染した魔鉱兵器の成れ果てをいまだに振り回しては各地で殺人を繰り返し強奪し公益の名のもとに設立された組合の精神をけがし続けている。草木そうぼく枯れ果て砲弾孔ばかりが広がる不毛な大地で蛮行を繰り返す君達は今こそ目覚めるべきだ。もはや我々はこの大地を捧げることはできない。清めることもできない。聖別することもできない。なぜなら戦った人びと、あるいは戦禍に呑まれたすべての人びとの血と汗と涙によってすでに清めささげられているからだ。――では次に捧げるべきものとは何か。我々自身であるはずだ。今こそ散弾槍を棄てよ。再生機を打ち壊せ。冒険し、――探索し、――文明の遺産を拾い集め、――そして社会復興を担う人びとのための前衛として復帰するのだ!


 彼女は余韻たっぷりに言葉を結ぶと聴衆を見渡した。誰かが欠伸をした。一部はトランプ遊びに戻ってしまっていた。入り口で呆然と突っ立っているクロエとリシュカの隣にいる老スカベンジャーは頭をかいていた。彼に目を留めた女性はあっと叫んで歩み寄った。

 ――ああ、こちらに戻っていたのですか。

 お前さんこそ遥々西部から何しに来たんだ。

 視察です。噂には聞いていましたがひどい荒れようですね。中央のスカベンジャー達の規律は乱れに乱れています。

 どこも似たようなもんだろう。

 少なくとも我々は違う。


 老スカベンジャーは女性の肩越しに緑服のくず鉄拾い達を見た。彼らはカウンター席にめいめい腰かけて給仕されたシエスコ酒で乾杯し濁りを宿したフルーティーな味わいに舌鼓を打っていた。演説の時の現役将校のごとき直立不動ぶりが嘘のようだった。

 老人は鼻で笑った。――お前さんの部下は掃き溜めの巣窟・・・・・・・でも割とよろしくやっとるようだぞ。

 遠征で疲弊しているのです。女性はちらりと振り返って云う。君達は後で説教だ。

 それにしてもお前さん以外は見る度に顔ぶれが違うな。

 女性は答えなかった。

 老人は顎鬚あごひげを指でなでながら続ける。理想が高いのは結構なことだがね。

 答えは沈黙だった。

 まあ好きにするといいさ。

 無言。


   □


 ほんとうに散弾槍も再生機もお使いにならないのですか?

 席に着いてからクロエは緑服の女性スカベンジャーに訊ねた。隣に座るリシュカが酒を一気飲みしてしまわないよう横目で監視しながらの会話だった。給仕を務めるリィラが無言で注文の品を置いていく。女性スカベンジャーが礼を述べると少女は微笑んで一礼した。

 さて、――答えはイエスだ。それが我々の法だからな。

 彼女は濁りシエスコを味わいながら云った。ひと口ずつ時間をかけて。まるで飴玉を噛み砕かずに丁寧に舐めるかのように。

 君は聖職者を志望していると云ったな。なら説明せずとも分かるはずだ。世界を滅ぼした神の火を懲りずに使い続けているからいつまで経っても私達スカベンジャーの地位は向上しないのだ。破滅の時代を生き残った長老どもは致命的な選択をした。公益のためと称してあの呪われた兵器を接収したのが全ての元凶だ。

 クロエは老スカベンジャーに視線を送ったが老兵は元戦友のピアノ弾きの演奏に耳を傾けるふりをしていた。アップテンポのテーマが蜜蜂のようにぶうんと飛び交う店内では赤服と緑服のスカベンジャー達が混じり合ってテーブルを囲んでおり時ならぬ祝祭日の様相を呈していた。電飾のついたモミの木を持ってこさせるべきかもしれない。


 クロエはミルクを口に含んで間を取ってから慎重に言葉を選んで答えた。

 仰りたいことはよく分かります。素晴らしい献身の姿勢だと思います。――しかしあえてお訊ねしますが散弾槍は多勢に無勢の状況下で身を守るために不可欠な道具であり再生機は瓦礫に埋まった遺物を探し出すためには必需品のはずです。その二つをなくしてどうやってお仕事をこなされているのですか?

 女性スカベンジャーはウェーブのかかった漆黒の髪を小川のようにテーブルに這わせていた。彼女が首を傾げると髪先は蛇が鎌首をもたげるかのように揺らめいた。


 同じテーブルについたこの距離からでも女性からはほとんど嗅覚を刺激される感触がなかった。赤服のスカベンジャー達には付き物のあの臭い、――香の匂いでは隠しきれない死臭がまったくない。その時クロエはほとんど直感で思い当たった。――恐らく彼女らには禿鷲はげわしにつきまとわれる呪いがないのだ。散弾槍を負わない不利と引き換えに。


 女性は感情の読み取れない透明な目をクロエに向けた。髪と同じく深黒しんこくの瞳は眼球にぽっかりと空いた穴のように見えた。彼女は無表情のまま呟いた。……君の、名前は?

 く、クロエと申します。

 そうか。申し遅れたが私はハーゲンだ。

 女性はファースト・ネームではなく何故かラスト・ネームだけを名乗った。理由を訊ねる間も与えずハーゲンは先を制して云った。

 きっと手放しで我々の思想に賛同してくれると思ったが、――存外に君は柔らかい頭をしているようだな。今どき珍しいことだ。

 そいつは異端者なんだよ。

 今まで沈黙していたリシュカが笑いながら云った。

 仰るとおり柔軟な思考の持ち主だ。善き労働のためとか理由をつけて三人前の食事を一気に平らげるくらいには。

 クロエは真っ赤になってリシュカの足を踏んづけようとしたがかわされてしまった。顔をうつむけて口を開いた。

 …………私は、くず鉄拾いの皆さんに今まで何度も助けられたのです。おかげで父の形見を見つけることができました。オーデルからこの街まで無事に辿り着けたのも散弾槍のおかげです。再生機にも一度ならずお世話になりました。頭から否定することは、……どうしてもできません。

 女性はうなずいた。君は善い人間のようだ。そして無垢だな。

 …………。

 いずれ分かるようになる。くず鉄拾いに根っからの善人はいない。この私も例外ではない。そこの胡散臭い爺さんも含めてな。

 ひどい云われようだ、と老スカベンジャー。

 ハーゲンは腕を組んでせせら笑う。お嬢さん達、よくよく注意しておくといい。飄々ひょうひょうとした態度こそ取ってはいるが相当な食わせ者だぞこのご老体は。自分の身は自分で守れるよう銃の扱いくらいは学んでおいた方がいい。

 確かに生まれながらの不審者みたいな方ですが――。クロエは反論した。私の依頼はきちんと果たしてくれています。

 それなら連れている禿鷲を数えてみたらいい。小金のためにどれだけの人間を空に還してきたかそれで一目瞭然――。


 ハーゲンは話を止めて椅子を引いた。カウンター近くの席で騒動が持ち上がっていたからだった。緑服の一人が同席していた赤服のスカベンジャーの襟首をつかんでおり一触即発の状況だった。マスターは溜め息をつきリィラは給仕用のトレイで顔を隠しピアノ弾きは演奏を止めていた。君達なにをやっている、とハーゲンが詰め寄った。

 ――こ、こォいつが俺達のこと虚仮こけにしやがったんです!

 緑服はすでに出来上がっており呂律が半分回っていなかった。赤服も同様である。紅色の外套と見分けがつかないくらいに顔全体が赤くなっている。

 馬鹿になんてしてないさ。ご活躍はかねがねお伺いしております。慈善活動いつもご苦労様ですって労ってやったんだよ。

 それを馬鹿にしていると云ってるんだ!

 日夜スカベンジャーの地位向上のため頑張ってくれてんだろ。忙しい俺達に代わってな。何をそう興奮することが――。

 ならそのヘラヘラした薄笑いを今すぐ止めろッ。

 おうじゃあはっきり云ってやる。辛気臭い顔を見せに来んな酒が不味くなるだろうが。

 ンだとコラ。

 やんのか。

 上等だ。

 表出ろや。

 ――ストップストップ、お仲間同士で喧嘩は、――暴力はいけません!


 二人の間に割って入ったクロエはあまりの酒の臭気に横から金槌で頭を殴られた気分になった。二人のスカベンジャーはどちらもクロエの頭二つか三つくらい背が高かった。それに負けない背丈を誇るハーゲンも同じく仲裁に入る。

 そうだ双方とも鎮まれ。道は違えたとて我らは同胞。殺し合いをする道理はない。

 緑服が何本か欠けた歯を剥いて反抗する。

 ですがハーゲンの姉御。

 姉御と呼ぶな恥ずかしいだろうが。

 ハーゲンさん、俺達は侮辱されたんですよ。舐められたまま引き下がっていいんスか。

 そうした下らん名誉や面目や意地やらにこだわるから世界は一度滅びたのだ。

 しかし――。

 そうだぞ、その姐さんの云う通りだ。赤服のスカベンジャーの仲間が茶々を入れる。好い機会だからお連れさんに隣人愛ってもんを教えてやってくれ。夢見がちな小僧の代わりにいったい誰が危険な廃墟都市まで足を運んで遺品を拾ってきてやってるのか。本当に世の中の役に立ってるのはどっちなのか。徹底的に叩き込んどいてくれ。


 ハーゲンは無言で声のした方を振り向いた。漆黒の瞳がますます深みを増して底なしの穴となり店内にあるコップからピアノに至るまですべてを吸いこんでしまいそうに見えた。クロエは背伸びしてハーゲンの肩を両手でバシバシと叩いた。

 ハーゲンさんどうか抑えてっ。お願いですから暴力だけは止めてください! ねえ誰か――?


 クロエは助けを求めて老スカベンジャーの方を振り向いたが老人は手拍子を打ち鳴らしてブランカ酒のロックを一気飲みするリシュカを煽っているところだった。次の瞬間、クロエは眼球が飛び出さんばかりに目を見開いて叫んでいた。

 ――ちょちょちょ、ちょっと何やってんですかこの不道徳者のアンポンタンっ!


 それがお前さんなりの精一杯の罵倒かい?

 老スカベンジャーは大笑いして応えた。

 いやはや、すまんね。つい瓶ごと渡しちまった。あんまり飲みたそうにうずうずしてたから可哀想になってね。

 せっかくリシュカさん頑張って禁酒していたのに何て、――なんて馬鹿なことを!

 リシュカはすでに酩酊状態だった。幾日か振りに生命いのちの水にありつけた幸福感で顔をとろけさせている。不安を呼び起こすような早口で彼女は云った。――ごめんねクロエ今夜だけは許してこれが最後だって約束する今度こそお酒は止めるから。

 ああ、神様……!

 あんたもお上品ぶってないでたまには羽目を外しなさいよ。

 云うが早いかリシュカはブランカ酒の瓶を引っ掴みクロエの口に先端を突っ込んだ。

 むぐぅっ――、という絶叫に似た悲鳴が酒場の天井を震わせた。


 その様子を見ていたハーゲンは緑服と赤服のスカベンジャー双方と顔を見合わせ唇の端をひん曲げて提案した。

 そうだ狼藉沙汰はいかん。ここは酒場だ。なら酒で決着をつけるといい。代金は私がまとめて払うから勝負しろ君達。

 マジっすか?

 女に二言はない。

 そういうことなら話は変わるぜ。


 女性スカベンジャーは指を鳴らしてマスターとピアノ弾きに声をかける。

 ――という訳だ店主。じゃんじゃん持ってきてくれ。それと盛り上がる一曲を頼む。星の彼方まで時空をすっ飛ばしてくれ。

 私としてはもっと味わって飲んでほしいのだけどね……。

 こいつは面白いことになってきた。長生きはするものだな。

 マスターは溜め息まじり。ピアノ弾きの老人は歯を見せて笑った。リィラはすでに酒のボトルを満載したトレイを軽々と持ち上げて満面の笑みだった。


   □


 その夜は雨が降りしきっていた。月も星も見えない暗い夜だった。その雨はかつて破滅の時代に魔鉱兵器の残滓をばらまき大地や海原をことごとく汚染したものだった。人びとは家に閉じこもり暖炉の前であるいは寝台の上でじっと耐えていた。

 だがその日の夜。灯火と喧噪は絶えることがなかった。廃墟と化したセントラーダの片隅に。数十年ぶりにかしましい一夜が再臨したのだった。

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