#68 地獄の釜の蓋

 陽の光をやっと浴びることができると喜ぶ市民をふたたび地下鉄に押し込めるのは容易なことじゃなかった。人手も足りなかったしそもそも市内に残る数万もの人びとを格納する隙間なんぞ地下鉄の構内のどこにもなかった。従わない者も大勢いた。自宅に戻らせてくれ。せめて家財を避難させたい。はぐれてしまった息子や娘が家で帰りを待っているかもしれない。押し合いへし合いしながら我々の制止を振り切る人びとをどう説得すりゃよかったのか。私ものっぽ・・・の戦友もまるで世間話のようにあの時の最善策について話し合ったものだが結論は出なかった。まさか銃で脅すわけにもいかない。すでに敵兵に散々脅された後だった。今さら銃口の一つや二つでひるむような人間はすでに街から出ているかさもなくば瓦礫の下に埋まっていた。結局のところ我々はオーデルの戦線から遥々やってきたよそ者だった。手を振って歓迎こそされたが人類初の大陸横断飛行をやってのけた英雄のごとく紙吹雪の絨毯で迎えられたわけじゃない。


 住民を街から退去させるにも道中を歩き通せるだけの食糧や水は我々の手元にはなかった。街までの鉄道線の復旧は始まったばかりだし後方の解放された各都市や村落でさえ餓死者が出ているという。我々が通りがかったある避難所には市内の廃墟から集めてきた百本近くの鉄パイプが洗濯物か何かみたいに紐を通されて壁際に吊るされていた。何をしているのかと聞けば朝露を集めるためだそうだ。清潔な布に染み込ませて赤ん坊のようにちゅうちゅう吸うのだと。見た目には美味しそうなパンケーキもあったが材料は街路樹の木の実を粉になるまで砕いたものだった。誰もが我々が背中に負っている荷物のなかに紛れているであろう糧食を想って透明な眼でこちらを見ていた。


 我々は解放者ではあったが救世主ではなかった。戦争の一年目や二年目ならば熱狂のひとつやふたつはあっただろう。花束だってもらえたかもしれないしこんな機会でもなけりゃ決して巡り逢えはしなかったであろう美人から頬にキスでも頂戴したかもしれない。だがそもそもの話として敵を掃討するために人質に取られた市民ごと街の区画を吹っ飛ばしたのは我々の方だった。石を投げられなかっただけありがたいと思うべきなんだろうね。


 いずれにしろ人びとが何かまとまった大きな単位で、――それこそ数万人規模でひとつの大きな営みを為していたのを観るのは私にとってはセントラーダの街が最期だった。戦友の予言は的中した。出るころには街は瓦礫の山と化していた。国家そのものが灰燼かいじんに帰すとはさすがにそいつも予想できなかったみたいだがね。


   □


 のっぽの戦友と二人で大聖堂の鐘楼に上がり地平線の彼方を見張っていた。それが我々の次の仕事だった。生き残っている建物でいちばん高いのがその鐘楼だった。下の身廊では家を失った数百という市民や難民が詰めかけて寝泊まりしていた。壁一面が貼り紙で埋め尽くされており声なき声をあげていた。大切な人を探していますと。残り少ない蝋燭やランプのかけがえのない灯りあかりが貼り紙に描かれた人びとの写真や似顔絵を浮かび上がらせている様はその空間を戦争前の時分よりもよほど神聖なものに変えていた。たった一枚残された子供の写真を手に持って人びとの間を歩き回る母親が何人もいた。服の裾をつかまれた人びとは母親が何かを云い終える前に手を払うか首を振った。


 我々は水晶のように滑らかな丘陵と化したかつての平原を眺めながら珈琲を飲んだ。いまだに熱を持っておりところどころが活火山の火口のように赤銅色に輝いていた。西からは強い風が吹いていた。立ち昇る黒煙や腐敗臭を街中から運んでくるので我々は珈琲からブランカ酒に切り替えた。多少は酔わんとやってられなかったってわけさね。

 錫製のカップの中身をずずずと音を立てて飲み干す私に対して戦友はいつものごとく貴重な飲料を大切に飲んだ。善き本に記されている命の水を頂くかのように。散弾槍を分解して油を挿している私に戦友は云った。


 ほんとうに長い夢をているようだ。

 稀に見る激戦だったしな。

 いやこの街のことじゃない。紙切れ一枚の召集令状を受け取ったあの瞬間からだよ。なんでまだ生き残ってるのか自分でも分からん。あるいは最初に砲弾が間近に落っこちたあの刹那から実はおっんでて今に至るまで時間の尺度が解体された長い走馬灯でも視ているのかもしれん。

 瞳孔が開き切るまでの数秒ね。

 ああ。

 まるで神話だな。

 神話といえば俺の父は学校の教師をやっていた。前にも話したかな。

 いんや初耳。

 歴史の授業さ。もちろん俺も子供の時分に受けていた。父なる祖国だとか栄えある民族とかいった単語が一回の授業に千回は唾液まじりに口から飛び出した。勤労奉仕団の要請があれば率先して受け持ちの生徒をボランティアに送り出した。想像つくだろうがあれは歴史の授業じゃなくて神話の伝承だったと今にして思うよ。父に云わせれば俺達は鉄青年・・・なんだそうだ。鋼鉄の闘志を持った自慢の教え子とでも云いたかったんだろうがこうして鉄と一緒にたがやされてる毎日を送っているとまったく別の意味に聞こえてくるな。

 今はどうしてるんだ。

 知らん。手紙は読まずに捨てた。一年ほど前からは連絡も来なくなった。今ごろは祖国の栄光よりも明日のパンをどう手に入れるべきかについて頭を悩ませてるだろうよ。

 ピアノも父親から習ったのか。

 いや――。母からだ。

 軍国少年に似つかわしい嗜みたしなみじゃないな。少なくとも。

 母は貴族の傍流の出だったらしい。らしいというのは出自の話をするのを嫌がってたからでピアノの腕前はなるほど路地の洗濯屋の娘じゃないってことは確かだった。持参金がどれだけあったか知る由もないがあの勇ましい父も母にだけは頭が上がらなかった。それで俺にはピアノが与えられた。母から懇切丁寧に教わりながら思ったのはこの人が本当に欲しかったのは娘だったんじゃないかってことだ。結局のところ俺は鋼鉄の青年にも薔薇の淑女にもなれなかった。無事に生き延びられたとしてもあの家に戻ることは二度とないだろうよ。


   □


 会話が一段落して無言で酒を飲んでいた我々はふと同時に手を止めた。一度だけ顔を見合わせた。それから地平線上の空をじっと二人して睨んでいた。苦労して運び上げた無線機を戦友が手に取り部隊長と連絡を取った。上官はすぐに返答を寄越してきた。のっぽの戦友はうなずきながら受話器を耳に押しつけていた。


 ――ええ、はい。真っ直ぐこちらを目指しています。親鳥は恐らく三機。不気味な卵を抱えてる。あとは護衛です。もうそちらからでもくっきり見えるはずです。指示を。……イエッサー。すぐに降ります。アウト。


 戦友が叩きつけるように受話器を置いたときには私は背嚢を背負っていた。もう一度西の空を見た。距離はまだ遥か彼方でありそれらは夕陽に点々と落とされたインクの染みにすぎなかった。だが死神の隊商のような黒い影の中でもひと際大きな三機が紅い明滅を繰り返しているのがこの距離からでもはっきりと見て取ることができた。平原に呑み込まれようとしている血潮の太陽よりもなお紅く濃い光。もしもこの星が球体ではなく平面であったとしたらその光は世界の反対側にいようとも視認できそうだった。


 我々は無線機を放置して地上に通じる階段を駆け下りた。駆けるというよりも落ちるような速度だった。敵の塹壕強襲兵の浸透を受けた時分でさえこれほど急ぎはしなかったはずだ。途中でサイレンが鳴り響き警戒飛行にあたっていた味方の戦闘機が編隊を組んで塔の上を飛び去っていく音がした。

 階下に辿り着くと身廊ネイブにはいまだに百人ちかくの避難民が留まっていた。私と戦友二人で地下鉄に逃げ込むよう呼びかけて回ったが出ていく者は少数だった。反応は鈍かった。戦時中、肝心なときに役立たずだった警報のために彼らは家族や親戚を何人も喪っていたのだった。よそ者の私らの警告なんぞ夏の羽虫ほどにも響かなかっただろう。


 それでも我々二人は止めなかった。両手を拡声器の形にして再度怒鳴りつけようとしたとき光の洪水が身廊を包んだ。目蓋の裏側までも焼き尽くされるかのようなその奔流はつい先日に塹壕の中で我々が見せつけられたものと同じだった。我々は真っ先に姿勢を起こして外へと飛び出した。瓦礫にさえぎられて遠くまでは見えないが西の空が燃えていた。

 遅れて押し寄せてきた爆音に負けじと戦友が叫ぶ。――親鳥が一羽ちたんだ!

 味方がやったのか?

 分からん。未完成で暴発したのかもしれん。

 なら他の二羽も巻き込んだのか。

 幸運にすがるな。もう時間がない。走れ!


 我々のあとから数十人の避難民が入り口から吐き出された。残りは聖堂の奥へと逃げたようだ。私と戦友も全速力で息を切らせながら走った。瓦礫の散乱する往来には街に残った数えきれない人びとが右往左往していた。我々は彼ら彼女ら全員の悲鳴や叫び声を振り切って走った。幼い子供も私の祖母と同じくらいの背格好の婆さんも。あるいはかつて同じ戦場を共にしていたかもしれない義足の負傷兵も。生き残るには走り続けるしかない。それが塹壕の生活で学んだ数少ない教訓のひとつだった。

 街区の切れ目に差しかかったとき二度目の光の奔流が世界を押し包んだ。ちょうど発光する巨大なヴェールで街全体をすっぽりと覆ったかのように。誰かが息を吹きかけて蝋燭の灯を消した瞬間を想像してもらえば分かりやすい。一瞬にしてすべての音が吹き飛び視覚だけじゃなく聴覚までもが白に塗りつぶされる。そのとき戦友は私の左隣を走っていた。爆発もその方角から起こった。彼は私よりも背が高くしかも休憩で着崩した外套をはためかせていた。それが私にとって最良の目隠しとなった。


 煤や塵にまみれながら起き上がった私は戦友を助け起こした。

 二機目の親鳥が墜落した。さっきよりずっと近い。

 目が、と戦友はしわがれた声で答えた。目が見えない。

 私は戦友の顔を覗きこんだ。白く濁った涙が流れていた。

 しっかりしろ。どうにか走れないか。

 無理だ。何も見えん。置いていけ。

 どちらにしろ最寄りの地下鉄には間に合わん。どこかないか。近くに隠れる場所は。


 戦友は顔を上げた。――あるぞ。酒場の地下だ。

 酒場ってどこだ。

 ピアノだよ。奥さんがいた。

 ああ分かった。一か八かだな。

 頑丈なことを祈ろう。


 私は外套を放り捨てて戦友の膝下に腕を回し首と背中を使って背負いあげた。そして再び全速力で走り出した。通りには彼と同じく目をやられた人びとが痛みに呻きながら転がっていた。再び遅れてやってきた轟音の残響がいくつかの建物を完全に崩壊させて横たわる人間を押しつぶした。瓦礫の下から伸びた幼い腕が視界の隅に映ったが私は見なかったふりをした。両手で目を覆ってうずくまっている母親にすがりついている男の子を追い越した。壁に背をもたせかけてロザリオを掲げながら祈りを唱えている老人の前を走り抜けた。この六年間というもの我々はこんな風にして生き延びてきたのだ。余計なものは何もかも脇目に捨て去る。決して振り返らない。前だけを見据える。何より大事なのは同情しないことだった。他人にも。自分にさえも。


 酒場のドアを蹴り開けたとき夫を亡くした女性は脚を畳んだピアノを地下へと運びこもうと格闘しているところだった。そんなの放っておけと私が怒鳴ると彼女は負けじとこれはあの人の形見なんだと叫び返してきた。手伝わないなら出て行け。さもないと撃つわよ。私は店の奥へと突進し多少の打撲を我慢してもらうことにして戦友を階下に投げ落とした。そしてホールへと取って返して未亡人を手伝い渾身の力を振り絞ってクソ重たいアンティーク・ピアノを持ち上げた。その後の人生で私が慢性的な腰痛にわずらわされる羽目になったのは間違いなくこの時の火事場の馬鹿力が原因さね。

 考えてみれば馬鹿げた話だった。今にも街を月面に変えようとしている悪魔が迫っているというのに私は歯を喰いしばって骨董品の運送係をやっている。私が地下室にピアノを押しこむと同時に女性はすぐさま跳ね上げ扉を閉めた。そして階段を降り終わるかどうかというところで本日三度目の光の氾濫が訪れた。信じられん話だが地下にいるのに浮遊感を覚えた。この地下室以外のすべての地表の構築物の一切が消え去って宇宙空間に放り出されたかのようだった。あのとき我々は間違いなく浮いていた。未亡人の悲鳴が隣の銀河から響いているかのように遠くに感じた。浮遊感の消失とともに私は宇宙から地下へと引き戻されて床に頭をしたたかに打ちつけた。頭蓋が割れなかったのが今でも不思議に思えてくる。あるいは割れたからこそ私の頭のねじは以来どこか緩んでしまっているのかもしれん。


   □


 とにかくそうして私は失神した。起きたときには世界は根底から変わり果てていた。これはセントラーダの街の成れ果てだけを指してそう云ってるんじゃない。それだけならどんなに好かったかと思うよ。最初にそれ・・をやったのは間違いなく我々だった。だが攻撃地点はあくまでも軍事目標という建前があった。その報復で選ばれたのが民間人が数万単位で残留する都市だったってだけで。あとはなし崩しだった。魔鉱兵器の際限も見境もない大量投入が始まり戦争はそれから一年足らずで勝者がいないまま終結した。


 何もかもが後から分かったことだが我々三人や他の多くの人びとが地表にへばりつく染みになってしまわなかったのは味方の航空隊が街の数キロ手前で最後の三機目の親鳥を捨て身の特攻で撃ち墜としてくれたからだった。おかげで街は月面にこそなったものの原型は留めていたし大聖堂は奇跡的に生き延びることになった。


 我々戦友は今でもその日・・・になるとグラスを掲げて名前も知らないパイロット達に哀悼と感謝の意を伝える。グラスの底にこびりついた言葉はだいたい次のようなものだ。――生かしてくれたことに。あるいは生かされてしまったことに。

 あの頃から幾らか人数は減っちまったが捧げる言葉の重みが損なわれることは今後もないだろう。

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