#67 焼けた手記

 窓の外から転がり込んでくる子供達の声を聞きながら教授は書き物を続けていた。シスター志望だという少女が中庭で子供達の先生役を務め字の読み書きを教えてやっていた。黒板の代わりはモルタルの瓦礫。戦前に使われていた硬貨がチョーク代わりだった。紅い髪の少女は腕を組んで学校の外壁に寄りかかっていたがすぐにシスターに手を引っ張られて助手役をやらされることになった。口元は引きつっていた。眉間にしわが寄ってしまわないよう神経を集中させているのが二階の窓からもよく見えた。きれいなお姉さんと子供達は大喜びだった。私だって負けてはいないつもりですと頬を膨らませるシスター。紅髪の少女が応える。なに張り合おうとしてんだか……。


 教授は軽くうなずいた。作業を再開しようと机に向き直ったがすぐ隣に老いたスカベンジャーがいるのに気づき椅子から転げ落ちそうになった。眼鏡が数センチずり下がった。足音はまったくなかった。もし老人が真横ではなく死角に立っていたとしたら一段落するまで作業を続け腕を挙げて背筋を伸ばし珈琲をもう一杯飲もうと椅子を引いたときになってようやくその存在に気づいたに違いなかった。


 帰っていらっしゃったのですかと眼鏡を直しながら訊ねる教授を老人はいつもの薄ら笑いを浮かべながら見下ろしていた。幾度いくたびもの血染めの洗濯を経て黒ずんでしまった彼の外套からは香の匂いに混じって隠しきれない死臭がした。外で子供達の話し声が静まり何人かが空を見上げているのが分かった。何十羽もの禿鷲が周囲の瓦礫に留まって羽づくろいを始めたのだから無理もなかった。


 老スカベンジャーが答えを返すまでにたっぷり間があった。教授が言葉を継ごうと口を開きかけたときそれに被せるようにして老人は静かに云った。オーデルに往ってきたよ。相変わらず酷い荒れようだった。

 教授は無言でうなずいた。

 老人もうなずいた。それは応答の意を込めた首肯というよりも教授の動きを真似してみせた芝居がかったものに思われた。彼は続けて云った。――旱魃かんばつで全滅した集落に寄った。何か残ってないかと思ってな。信じられんかもしれんが山裾のほうまでずーっと地面がひび割れていた。まるで大地の全面がガラスで出来ていて神様がポケットから大きな石を落っことしたんじゃないかと疑っちまったよ。

 何人が亡くなったのですか。

 さてね。とてもじゃないが数えられる状況じゃなかったね。お前さんも飽きるほど見てきたと思うがああした渇きの中で死ぬと人間も動物も文字通りぺしゃんこになる。まるでそのまま絨毯として使えそうなくらいにね。だから死体とまだ生きてるやつの区別はすぐついた。村の広場でうずくまってる小さな女の子がいたよ。栄養失調で全部の毛が抜けて頭とお腹だけが異様に膨らんで見えた。私のじゃない別の禿鷲が一羽女の子のそばに降り立って獲物が死ぬときを待っていた。翼を畳んで足を揃えて。まるで行儀よく順番待ちでもしてるみたいにね。――で、事を済ませるとそいつも私の葬列に加わった。――ほらあそこにいるやつだ。そう、あの女の子のそばに留まってるやつ。村でうずくまってた子もあのくらいの背丈だったかな。


 教授は眼鏡の縁を指に挟んでかけ直す仕草をした。老人は窓の外に眩しげな視線を向けたままだった。

 教授は云った。……それで価値のあるものは拾えたのですか?

 いんや何も。

 ではどうして僕にその話を。

 昔お前さんが書いとった記事にああいう可哀想な女の子が登場したことが一度でもあったのかと気になっただけさね。

 教授は机に両手を置いてじっとしたまま何も云わなかった。老人はのんびりと付け加えた。――別にお前さんを責めてるわけじゃない。時代が時代だった。ただの好奇心さ。私がいた部隊でも意外と人気だったぞお前さん。少なくとも前線まで足を運んでくるだけ殊勝だとか。他の連中に比べて戦果の水増しとか損害の過小報告がなかったとかね。


 教授は頭を上げて老人の横顔を見たがすぐに視線を机に戻した。そして薬指で自分のこけた頬や目元の皺を指でなぞった。禿鷲の存在に慣れてしまった子供達の話し声が再び窓から飛び込んできた。二人の少女が教えを再開する声も。


 教授は右の手のひらでひたいを覆った。机に肘杖をついて口を開いた。…………それもあの日あの時までのことでした。あれ以来、僕は長いこと何も書けなくなりました。

 ああ覚えとる。私らの塹壕に来たときだろう。

 そうです。魔鉱兵器が初めて実戦投入されて……。

 すごかったなぁアレは。

 今も目を閉じるとあの光の洪水が脳裏をよぎります。あれを書くなんて。とても記事にできるもんじゃない。あれは。


 教授は机の引き出しを開けて油紙に包まれた一冊のノートに手を触れた。空白をすべて埋めることなく記述が終わってしまった日記帳。老人が横目にその表紙に視線を配っているのが見なくとも分かった。

 そのとき開け放たれたままの部屋のドアをノックする音が転がった。入り口に一人の少女が胸に本を抱えて立っていた。片目を眼帯で覆っており給仕用のエプロンを身につけたままだった。彼女が無言で本を差し出してきたので教授は立ち上がって受け取り本棚から次の巻を抜き取って手渡した。少女が小銭を出そうとしてきたので教授は云った。


 毎回借りるときに払わなくていいよ。君が余裕のあるときで構わない。

 少女は首を左右に振った。教授にお金を押しつけると老スカベンジャーを含めた二人に一礼してから足早に去っていった。


 老人はまばたきして云った。なんだ酒場のマスターのところの子か。

 ええ。小説を借りにくるんです。返してくれるのならお代はいいと最初に伝えたのですが聞き入れなくて。

 それもお前さんの慈善の一環かい?

 慈善なんて大それたものではありません。せいぜい罪滅ぼしですよ。

 なら今この世界にいる年を喰った人間はみな罪滅ぼしせんといかんな。あの赤毛のお嬢ちゃんがなかなか的を射たことを云っていたよ。戦後を生き延びたということはすなわち他の誰かを踏み台にしたんだとね。

 教授は微笑んだ。

 ええ、――まったく仰る通りです。


   □


 午後になり子供達は帰宅する。彼らの一日はそれで終わりではなく日が暮れるまで各々の労働が待っている。泥だらけの作業服を洗濯するか自分が泥だらけになって集団農場の畑を耕すか。リシュカはそうした真っ当な仕事にありつけるような人生は歩んでこなかったがそれでも小さな手のひらにできたマメやあかぎれ・・・・から伝わる彼らの物語を読み解くことができた。隣で一緒に手を振るクロエを見ると屈託のない笑顔。分かってて見送っているのなら大したものだった。


 夕暮れが近づいたころになって写本が一段落した。報告すると教授が提案してきたのは各々の作品・・を見せ合うというものだった。

 嫌ですよ小っ恥ずかしい。リシュカは聞くなり首を振った。交換日記じゃあるまいし。

 クロエも小声で同調する。私もちょっと……。自信ありません。字も汚いですし。

 だからこそだ。君達の写本はこれから何世代にも渡って何百人にも読み継がれていく可能性のある遺物だということを思い出してほしい。目の前の一人にも見せられないままでは自分の過ちにも気づけない。

 それでもこいつには嫌です。

 教授がそこまで仰るのなら……。

 え、ちょっとシスター。

 一宿一飯の恩義ですよリシュカさん。これもお仕事のうちです。せっかくきれいな字を書かれるのですからしっかりチェックして誤字脱字のないようにしなくては。


 クロエの反論にリシュカは応戦できず親指の爪を噛んだ。祭儀でのオルガン演奏をすっぽかした一件以来クロエから酒類禁止令を出されており悪寒と不眠が重なって人目をはばからない悪癖がついていた。隠れてマスターのところまで飲みにいこうとしたらすでに手は回されており断られてしまった。悪いことは云わないから当分は止めときなと女主人は云った。ちょうどいい機会だから内臓を労っておやり。何よりあの子を本気で怒らせると後で非常に面倒なことになりそうだ。

 禁酒はともかく最後のひと言には完全に同意せざるをえなかった。


 それにしても君は好い喩えを持ち出してくれた。教授は二人の口論を無視して云う。交換日記だよ。これが終わったら本当に二人で書いてみるといい。

 本気で云ってるんですか。

 嘘偽りないとも。面と向かって話せないことでも手紙だと気持ちを伝えられるのと同じように日記の形ならお互いに何か新しい発見を見出せるかもしれない。――それに何より気持ちが紛れる。君のその、あまり褒められない習慣も治るかもしれない。

 大きなお世話です。

 リシュカは唇から親指を離してハンカチで覆った。あの丸眼鏡をバールで叩き割りたいという衝動に駆られたが教授と呼ばれる男の表情はあくまで真摯だった。


 君達がなんだかんだでいっしょに行動して仕事をしてくれた理由はなんだと思う。――答えは単純。自分にないものを相手が持っているからだ。それで相手に影響を与えたいとこいねがう。そうした出逢いは大事にしなさい。人生は君達が思っているよりもずっと短いんだ。短いのに楽じゃない。順調に大手を振って歩いている時間よりもつまづいてくじいた足を冷やしている時間のほうがずっと長い。


 教授は机の引き出しから油紙に包まれた紙束を取り出した。中から顔を覗かせたのは革表紙の手帳と古ぼけたノートだった。手記のほうは一度火でも点けられたのか角から中程にかけてが黒く焦げていた。


 これが――、と教授は焼けた手帳を指差した。これが自分の食い扶持を稼ぐために美辞麗句を並べて数十万の人びとを戦場へと煽り立てた男の取材ノートだ。そしてこっちが、――彼は顔をうつむけて小さなノートの角を指先でこすった。――そんな男の目を最初の一ページで醒まさせた女の子の遺言だ。


 リシュカもクロエも何も云わなかった。顔を見合わせることもしなかった。目の前の男の懺悔にも似た独り言にじっと耳を傾けていた。


 ……彼女と僕は一度も生きて顔を合わせることはなかった。後で遺体を埋めてやろうと印をつけていたんだがその後にあれが起こって世界がひっくり返り埋葬どころじゃなくなった。僕が願ったのはただ一つだ。どうかこの子が僕の書いた記事を一度も読むことのないまま天に召されていますように。――僕は戦前、ほんとうは作家になりたかったんだ。子供はもちろん大人まで楽しめるような軽妙さと芳醇さを併せ持った児童文学を書きたかった。現実は違った。このノートを遺した女の子のほうが僕より何十倍も善き物語の力を信じていた。詮無いことだ。


 窓の外から街の営みの音がそっと入ってきた。弱りきった小鳥のように。一度は完全な死を迎えたはずの街。夕陽を背に浴びながらとぼとぼと歩き荷車を引く人びとの話し声。農場からの帰り道。聖堂の晩鐘を耳にして畑の中に立ち尽くし祈りを捧げてから道具をしまって帰路につく。それが毎日まいにち繰り返される。織物の糸のように絡みあって各々の物語を紡いでいく。一度は焼き切られたかに見えた線をつないで。汚れた生地を仕立て直して。セントラーダの街は今日も生活が続いている。


 リシュカは伸ばしていた背筋を弛緩させて椅子にもたれかかった。中空にさまよう言葉を繋ぎ合わせて教授に問いかけた。

 それで、そうした理由で交換日記なんて薦めたんですね。あたしとこいつのために。

 ああ――。……君達は二人ともどこか危ういところがある。互いにとって実りのある関係におなりなさい。少なくとも僕のようになってはいけないよ。

 …………。

 リシュカは黙って男を見返していた。


   □


 仕上がった写本を元司教に引き渡して二人の研究室通いも終わった。久々にゆっくり眠れそうだった。しばらく文字という文字を見たくなかった。ずっとペンを握っていたから指先が痛かった。酒もないならさっさと寝てしまうに限る。リシュカは消灯を呼びかけたがクロエはぼうっとしていて話を聞いていないようすだった。


 おい、ねえ、――あんた。

 リシュカが立ち上がって肩に手を置くとクロエは手首を握り返してきた。相変わらず見た目とは裏腹に強い力だった。引きはがそうとしても小指一本びくともしない。

 なに、離してくれない?

 そろそろ名前で呼んでください。

 は?

 せめて他人行儀は止めてください。私達、知り合ってもう長いではないですか。

 あんたなに云って――。リシュカは抵抗しながらクロエの隣に腰かけた。古い木製の寝台が迷惑そうに軋みを立てた。顔を伏せているシスター少女に向かって声を低めて言葉をかけた。……教授、いやあいつの云ったこと気にしてるわけ。世話になった優男がとんでもない悪人だったと知ってちょっぴりショックだった?

 その皮肉な物云い、――本当にどうにかなりませんかリシュカさん。

 あのスカベンジャーの爺さんに比べりゃマシだろ。あたしは別に何とも思ってない。誰だって何かをなくしてるし何かしらを奪って生きてる。あいつだって例外じゃなかった。それだけのことじゃない?


 クロエは握りしめる力を強めた。肩が微かに震えていた。手首の骨が折れそうだから離せと抗議しようとしたとき少女は呟いた。

 ……わたし、自分が情けないです。

 え、は、――なんで?

 教授さんがせっかく打ち明けてくださったのに私はなにも答えを持ち合わせていませんでした。懺悔された方におかけするふさわしい御言葉を幾つもいくつもそらんじてきたはずなのに。実際には沈黙を選んでしまいました。


 リシュカは手首の救出を断念して天井を仰いだ。唇がぼそぼそと声にならない声を形作った。懺悔、懺悔――。こんな時ですらクソ真面目にシスターの真似事かなどと声をかけようものなら動揺のあまり本当に腕の骨を折られかねなかった。深呼吸して言霊ことだまを紡ぐ。


 あのさ、ねぇ、――クロエ?

 少女が金髪を跳ねさせてこちらを見た。リシュカは目をそらして続けた。

 話を整理させて。あんたには、聖典に載ってるどの福音も嘘っぽく、――いや似つかわしくないように思えてしまった。少なくともあの場においては。

 ……ええ、そうです。

 それってつまりさ、あんたが自分自身・・・・の言葉でゆるしてやりたかったってことなんでしょ。借り物じゃない。上辺だけのフレーズでもない。でもそれに足るだけの言葉が今の自分にはないことにも気づいてしまった。

 ……ええ。

 あたしにはその沈黙は、――あの教授の言葉を借りるなら美辞麗句を並べる・・・・・・・・よりもよほど正直な行為に思える。そういう考え方はだめなの?

 でもそれだと教えに――。

 独自解釈は得意なんでしょ?

 …………。

 繰り返すけどあたしは嫌いじゃないよ。そういうの。


 クロエは口元に右手を当てた。日々の作業の労苦で汚れたかさかさの手。その指先に涙の粒が留まりしばらく羽を休めたあとまた流れ落ちていった。後から後からそれは川の筋を形作った。胸元に顔を埋めてくるクロエの背中をリシュカはぎこちなくかき抱いた。しばらく頭の後ろをなでてやっていると少女が涙に濡れた顔を上げた。


 リシュカさん。

 なに。

 ――痛いです。

 え?

 爪が首筋の肌を引っ掻いてます。

 あ、――ああ、ごめん。

 がりがり噛むからですよ。不揃いなノコギリみたいになってます。

 うるさいな。

 どうせ手入れしていないのでしょう?

 ……うるさいよ。

 よかったら私にケアさせてください。ささやかなお礼です。道具もありますから。


 いつもならすぐに断るところだった。でもリシュカはうなずいていた。ヤスリと香油を取り出して鼻唄を歌いながら爪の形を整えていくシスター少女の営為を受け容れた。


 ……きれいな指ですね。ほんとうに。字もすごくお上手でしたし。羨ましいです。

 あたしはあんたの切り替えの早さというかそのポジティヴさがひたすら妬ましいよ。

 なら、おあいこですね。

 お相子?

 ええ。 

 やだなあ。

 何がいやですか。

 なんかやだ。

 ――あなたらしいです。


 クロエは唇に指を寄せて幸せそうに笑った。海色の瞳が眩しく感じられた。海面に陽の光が反射してきらめくように。リシュカは指先に気遣わしげに触れるクロエの熱に耳を澄ませていた。互いの血潮が体温を通じて皮膚ごしに混じり合っていくかのような錯覚を起こした。さざなみのように寄せては返すかけがえのない熱量。ヤスリをそっと動かす乾いた音が二人きりの息遣いの合間を縫いながら部屋の中空をたゆたう。


 リシュカは首を振って幻想を払い落とした。

 お酒は禁止。爪を噛むのもだめ。

 気を紛らわせる何か別の方法を探しておかなければならない。

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