#66 知恵の実
羽根ペンを走らせる音が
リシュカさん、すみません。
今度はなに。
ここってどういう意味ですか。
リシュカはインク壺を倒さないよう注意して羽根ペンを差し込んだ。そして立ち上がりクロエの肩越しに紙の束を覗きこんだ。
……どうもこうも見たまんまの意味でしょ。聖人様の高尚なお考えが延々と綴られてる。
使われてる語が難しくて理解できないんです。
あのね――。リシュカは腕を組んだ。頼まれてるのは写本だよ。別に意味なんて咀嚼しなくていい。丸呑みして丁寧な字で書き写せばいいんだよ。
でもそれでは写本の意義が喪われてしまいます。
あんたの我がままに付き合ってたら日が暮れちゃうよ。
お願いします。教えてください。
クロエが服の袖をつかんで嘆願してきた。まるで飢餓の中で一斤のパンを乞うかのような必死さだった。リシュカは指を広げては握りしめる動作を二、三度繰り返すと目を閉じて云った。
……要約だけしてあげる。後は自分で辞書を調べるなりなんなりして。
あ、ありがとうございます!
リシュカは呼吸をひとつ入れた。
そこに書かれてる聖人様は古いしきたりのおかしなところを挙げてる。――つまり犠牲の家畜を捧げることが善行になるんならその家畜の出どころを神様は気にしない、それは教えとしておかしいんじゃないかってこと。巡礼中に聖人様は山賊に出くわした。彼らは云った。お礼はするから祭祀を開いて自分達の前途を祈ってくれないか。だけどそいつらが捧げる家畜ってのは農民から盗んできたものだった。聖人様はその場では何も反論できなかった。彼らのやってることは古い教えとは矛盾してないからだ。そうなると盗みを働くやつのほうがたくさんの犠牲を捧げることができる世の中になりそんな連中ばかりが神様に愛され逆に家畜を大切に育ててきた農夫が死後の安寧を
ひと息に云い終えるとリシュカは表情を隠すように頬に手を当てた。クロエが口を半開きにして見つめてくるので何か文句あると訊ねた。
クロエは云った。……いえ、まさかそんなことは。
じゃあなに?
リシュカさんは、やっぱり凄いです。いちど目を通しただけなのに要約までしていただいて。
……モーレイ様、――ご主人様からいろいろ手ほどきを受けたから。本もたくさん読まされたし。
あとはお酒さえ飲まなければ。
放っとけバカ。
すみません。
あんたはどうなの。
え?
読書は熱心にしてそうだけど。
いえ……。クロエは顔を伏せた。私が持ってるのは善き本だけなんです。他のものは生活のために売り払わざるを得ませんでした。
じゃあ字を書くのも苦手?
ええ。インクが高価で。
……なるほどね。
二人のあいだに沈黙が泡立ちはじめた。続けてリシュカが何か云おうとしたときドアが開いた。丸眼鏡をかけた背の高い男が部屋に入ってきた。
やあ、――作業は順調かな。
□
祝祭日を無事に切り抜けて数日。次に元司教を名乗る男が頼んできたのは聖堂が所有する蔵書の整理だった。目を輝かせながら整理整頓を始めるシスター少女を横目にリシュカはパラパラと頁をめくった。どれも黄ばんでおり晩秋の落ち葉のように乾いていた。指先に軽く力を込めればそのままボロボロと崩れてしまいそうだった。黴の臭いが部屋に充満していた。ぺっとりとした石の壁から放たれる冷気は身震いを起こさせるほどで寒季にここで書見をするのはそれ自体が一つの修行となりそうだった。
風通しが悪いな。リシュカは鼻と口を覆う布巾の結び目を締め直しながら云った。窓が小さいからだ。
何百年も昔の造りですからね。大きなガラスが作れなかったんでしょう。
そりゃ本も傷むわけだ。
あ、――これ見てください。オーデルから赴いた三賢者の福音です。前から読みたいと思ってたんです。
嬉しそうで何より。でも手を止めないでよ。
分かってますって。
三賢者、ね。神の子の誕生を聴いて遥々やってきた。
ええ。お香の他にも白銀、それと長寿を願って特別な
あたしも産まれたときに祝ってくれる人がせめて一人でもいればよかった。
シスターが押し黙ったのでリシュカは咳払いした。ごめん変なこと云って。
いえ……。
あんたはどうなの。恵まれてはなかったみたいだけど。
ええ。母は
ふうん。
アリサさんが父の遺品を拾ってきてくれたんです。危険な場所に
なるほどそれがあんたとあの女の接点ってわけだ。
おっしゃる通りです。
掃除を続けながらクロエは彼女が父のことをどれだけ愛しているかを語ってくれた。そしてアリサに対する感謝のことも。懐から手のひらサイズの小さな袋を取り出して中身を見せてくれた。土埃で変色した骨片でそれは亡くなった父親の一部なのだという。お守り代わりなんです、ロザリオと並んで私の命よりも大事なものです、と彼女は語った。どちらもアリサが廃墟都市から持ち帰ったものだった。結局大した報酬も支払えなくて心残りであると。
そうしたことを語るクロエの表情は布ごしにも分かるほどにほころんでいた。小さな窓からわずかに差し込んだ陽射しに洗われて金色の髪の一本一本が輝いて見えた。リシュカはうなずきながら話を聞いていた。父親。クロエ。そしてアリサ。神様の息吹は人から人へと伝わっていくとはつまりこういうことなのかもしれない。
□
書庫の掃除をひと通り終えて二人が報告すると老人はうなずいた。
こちらまで手が回らなくてね。
何とかならないものでしょうか、とクロエ。ところどころ判読できない頁までありました。
ああ。もしかしたらこの世界に残された最後の一冊が含まれているやもしれんしな。朽ちさせるわけにはいかん。
どうすれば……。
いやアテはあるのだ。問題は時間さ。
リシュカは右手を軽く挙げた。――
元司教は首肯した。
ああその通り。あの人なら製本の技術を持っているし造詣も深い。
教授ってどなたです?
シスターの質問にリシュカは答える。
通称だよ。貧乏な子供のために教室を開いて歴史を教えてる。時には大人達も招いてね。それで付いたあだ名が教授。
ご立派ではないですか。
どうかな。戦中戦後を生き延びたってことはつまり他の誰かを踏み台にしたってこった。
リシュカさん、――どうしてそう人を
非難してるわけじゃない。事実を云ってるだけ。
もう!
二人のやり取りを見ていた司教は長椅子に足を組んで腰かけた老スカベンジャーに視線を移した。煙草の煙越しに両者の目線が交わった。くず鉄拾いが鼻でわらうように息を漏らし
元司教は云った。
写本は恐ろしく手間のかかる作業だ。戦前は活版もあったんだがみな焼けてしまった。植字をやっていた知人もいたんだが防空壕で溶けてしまった。文字通り骨だけを残してね。
では手を使って書き写すしかないということですか?
今のところはな。それで時間が掛かる。引き受けてはくれるだろうがあの人もそう暇ではないだろう。ほんの数冊だけでもいい。価値あるものを遺しておきたい。
クロエは手を挙げた。――私達が写本を手伝うというのは如何でしょう。もしくは別の雑用でも。
おい勝手にあたしを入れるな。
そんなこと仰らずに。
アレのキツさを分かってないだろ。延々机に向かって字を書き続けるんだぞ。
肉体労働よりはマシでしょう?
やってみりゃ分かる。
何事も挑戦です。
苦行を尊ぶ聖人様になりたいのなら止めはしないけど頼むからあたしを巻き込まないで。
二人が口論しているあいだ元司教は法衣の袖を寄せてしばらく考え込んでいた。白いものが混じった焦げ茶色の短髪を爪でかりかりと掻いた。
彼は云った。
ロイツェヴァ嬢。
え、あ。
リシュカはまごついた。
君のことだ。
――は、はい。
それならこうしよう。君がグロスマン教授を手伝ってくれたら感謝のしるしに私からもモーレイ氏にお咎めを解くよう頼んでみる、というのはどうかね。
そんなことできるんですか。
奴とは戦前からの知り合いでね。
でも……。
早く屋敷に戻りたいのだろう。
リシュカは小さくうなずいた。だがクロエが横槍を入れた。
――私はリシュカさんともっといろんなことがしたいです。すぐにお屋敷に戻られるのは反対です。
おいあんたどっちの味方だよ。
あ、――えっと、つい勢いで。
アリサの奴を探すために路銀が必要なんだろ。なら手伝う以外の選択肢はハナからないんだ。
…………そう、ですよね。すみません。
変なやつ。
顔をうつむけて黙ってしまったクロエの代わりに老スカベンジャーが灰皿に煙草を押しつけてから云った。――金が必要な理由は他にもあるぞ。お嬢ちゃんには私の再生機の充填費用も払ってもらわにゃならん。お前さんの我がままを仰せのままに引き受けていたらあっという間に枯渇寸前だ。
ち、ちなみにそれっておいくらですか。
くず鉄拾いが値段を告げるとクロエは目眩を起こしてリシュカの肩にもたれかかってきた。老人は笑った。まあ利子はつけんし急ぎじゃない。だが払うものは払ってもらわんとな。
…………リシュカさん。
なによ。
二度と癇癪起こして出ていかないでくださいね。でないと私が破産します。
それはいいこと聞いた。
い、――意地悪! 不道徳です!
□
二人とも作業は順調かな。教授は珈琲を淹れながらそう云った。やってみるとなかなか難儀だろう。
はい、でもリシュカさんのおかげで新しい見方を知ることができています。
リシュカが噛みつく。――あんた本来の目的を忘れてるだろ。
教授は苦笑した。クロエは大人が子供に接する際に時たま見せる困ったような笑みが苦手だったが教授のそれは違った。見守るような暖かい視線はそうして距離を取らずにこちらの話に引き込んでしまいたくなる気持ちにさせられる。
クロエはあらためて教授の
あれは点字本ですか。
あれ? ――ああそうだよ。スカベンジャーに頼んで取ってきてもらったんだ。君達と同じくらいの若者だったな。
長い金髪の女の子?
いや男の子だよ。茶髪でつんつんしてた。ぶっきらぼうで言葉遣いも乱暴だったが僕には彼が誠実な人間に見えた。もっと云うなら
教授はくつくつと笑いながらライティングデスクの引き出しを開けて紙巻き煙草のケースを取り出した。一本いいかなと了解をとってからマッチで火を点け時間をかけて美味そうに吸った。彼は拭えない焼け跡が残る天井を見つめながら煙と共に言葉を宙に漂わせた。
……僕の教室には目が見えない子供もいるからね。一冊でいいから彼に自分の力で読ませてあげたかった。読み聞かせをするんじゃなくてね。それが世界で一番大切な思い出になり宝物になるだろうと思ったから。
ご立派です、とクロエが口にすると彼は首を振って顔をうつむけた。そして云った。
戦争中に僕はたくさんの兵士と話をした。農家出身の次男坊もいれば工場で毎日十二時間働いていた孤児もいた。彼らの多くは簡単な読み書きしかできなかった。そうした兵士は上から命令されるがまま真っ先に突撃して死んでしまった。適性と幸運で生き残る者もいたが多くは戦争が進むにつれて獣みたいになっていった。彼らは元々とんでもなく貧しかった。占領した町の家財をひっくり返しては歯磨き粉を食べたり便器をシンクとして使ったり何本もの腕時計を巻いてみたりブラジャーを耳当てとして使っていた。そして通りで見かけた女性に手当たり次第に声をかけていた。複数の兵士が寄ってたかって女性の腕をつかみ空き家に連れ込んだ光景を僕は何度も目撃した。上官に知らせても見向きもされなかった。その頃にはもう国家はそういう形でしか兵士に給金を支払うことができなくなっていたんだ。数百年単位で人間の倫理観は先祖返りしていた。
教授は愛用の万年筆の尖った先端を指先でなでながら云った。
……僕が何より衝撃を受けたのはね、――その若者達がほんの数か月前までは牛の乳を搾ったり旋盤を動かしたりして毎日勤勉に働いていたはずの青年だったって事実だった。彼らの手は血潮ではなく別の何かを作るために汚れるべきだったんだ。その
□
休憩が終わり教授が自分の書き物に戻ってしまうと二人も作業を再開した。クロエはまるで泥の中を這いずりまわるような筆遣いで紙の上をあがいていた。綴りが間違っていないか逐一確認しながら時どきリシュカを盗み見た。彼女は垂れ下がってくる紅梅色の髪を細い指でかき上げ目を柔らかく細めていた。そうして軽やかに筆を走らせる姿は世間に隠れて執筆を続ける少女作家の趣きがあった。ふと手を止めてペンの羽先を桜色の唇に当てた。瞳を閉じて何か考え込んでいた。
あの、――どうかなさいましたか。
我慢できずにクロエが声をかけると少女はいつもの仏頂面に戻ってこちらを睨んできた。文学少女の様相は一瞬にして崩壊し二日酔いに苦しむアルコール中毒者に逆戻りした。
リシュカは頬杖をついて唇を曲げた。……あんたのせいであたしまで内容を考えながら読むようになっちゃった。
善いことではないですか。
これは写本。いちいち手が止まってちゃ効率が悪い。
――いやそうとも云えないよ。
教授が顔を上げて口を挟んだ。
写本は単なるビジネスじゃない。書き写すという行為それ自体、実は高度で神聖なものなんだ。
そういうものですか?
ああ。書かれた内容を別の紙に写し替える。やってることは単純かもしれないけどその過程で本に書かれた物語を僕らの頭の中に再構築することができるようになる。ちょうど絵画のデッサンで対象をじっくり観察しているうちに物の見方が変わるようにね。正しく模写するためには手を動かすだけでなくじっくり観ることも大切だ。光が物体にいかに複雑な陰影を与えているのか普段は想像もつかないだろう? ――それと同じように言葉の一つひとつがいかに僕達が普段
あたしには大げさに聴こえます。
いずれ分かるよ。――どちらにしろ先は長い。じっくり取り組みなさい。僕は急がないから。
クロエとリシュカは顔を見合わせた。クロエは笑みを投げかけてみたが神を信じぬ少女は顔をそらして作業に戻ってしまった。
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