#65 阻止砲撃

 今日ママを埋めた、という記述からその日記は始まっていた。グロスマンは丸眼鏡を外し柔らかい布でレンズに付着した埃を拭いた。そして傍らに横たわっている少女の遺体に視線を移した。耳と鼻から血が流れていたが損壊はほとんどなかった。爆風の衝撃波がその脆い魂を空へと連れ去ってから数日が経っていた。グロスマンは顔をうつむけて瓦礫に遺された黒い血の跡を指でなぞった。それから日記に目を戻して続きを読み始めた。


   □


 ママが息を止めるときまでわたしはずっと手を握っていた。ママも他の大人も生き残るためには動き続けることが大事なんだと云っていた。足を止めればそれが死ぬときなんだって教えられていてそれは本当だった。動けなくなったときにママが最初に口にしたのはお母さんはここまでみたいだった。病気がちなのに水もパンもわたしにゆずってくれた。咳に血が混じっていた。冬はまだ先のはずなのにわたしは肌寒さを感じて全身が震えた。ママと過ごせるのは今日が最期なんだって心よりも先に身体が知ってたんだ。


   □


 独りになった。いっしょにいた人はみんな死んでしまった。ママを地面に埋めてあげたあと流せるだけの涙を流していたら銃声がした。キャンプの方からだった。怖くて戻りたくなくて草っ原に伏せてじっとしていた。静かになってから戻ると生きている人は誰もいなかった。みんな血を流して倒れていた。お隣に住んでいたワリエフおじさんも。上の階のベティやキャスも。手足を縄で縛られてうつ伏せになっていた。似たようなのを前の町でも見たことがあった。ひざまずかせてから頭の後ろに銃口を突きつけて引き金を引く。それがいちばん辺りを血で汚さずに命を奪えるのだと。


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 街を目指して線路沿いを歩いていると停まっている列車を見つけた。客車が一輌だけだった。周りの原っぱに血の跡があった。腕と脚が何本か転がっていた。まるで石ころみたいなさりげなさで人の身体の一部が散らばっていた。わたしはそこで立ち止まった。リュックの中に食べ物は何もない。水もない。客車の中を覗きたくなかったけどそうしないと次はわたしが倒れてしまう。やっとの思いでよじ登ってドアを開けようとしたけれど動かなかった。そこで鉄棒を差し込んでぐいっと引っ張って開けた。戦争に往ったお父さんが教えてくれた知恵だ。開けた途端にドアにもたれかかるように座っていた人の身体がくたっと倒れた。予想はしていたけれど中はひどかった。客車の天井にいくつも穴が空いていた。これも見たことがあった。機銃掃射だ。穴は左右に二列。座席をくまなく縦断するように穿たれていた。一歩踏み入れたとたんに臭いで鼻が焼けそうだった。それでもわたしは手を伸ばしてぐじゅぐじゅになった服や旅行カバンを漁ってみた。その人達にはもう必要のない非常食や未開封の水が手に入った。埋めてあげられなくてごめんなさいと謝ってから外に出て深呼吸した。涙は出なかったのに嗚咽だけが止まらなかった。線路は地平線までずっと続いていた。


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 街までもう少しというところで他の人たちに出逢った。わたしと同じく他から逃げてきたという。いっしょに行きましょうと誘われた。最初は断ろうとしたけど話し相手がほしかった。結局はそれが間違いだった。夜の間に荷物を盗られて起きたときには誰もいなかった。食べ物がまたなくなった。他にもいろんなものを喪ってしまった気がする。木箱いっぱいに詰まった缶詰よりも大切なものを。毎日喪い続けてる。


   □


 やっと街に辿り着いたけどもともと住んでいた人たちはわたしのことは歓迎してくれないと思ってた。重い物を持てないし家事だって得意じゃない。ぜんぶパパとママがやってたから。でも通りをさまよっていたわたしを女の人が拾ってくれた。庭でお花の代わりに植えていたお芋を鍋でふかしてから塩を振って食べさせてくれた。わたしは前に読んだ小説の中にどっと涙があふれ出るという表現があったことを思い出した。その時はよくある大げさな書き方だと思ってた。でも違った。涙で塩水のスープが作れそうなほどに泣いた。美味しかったけどそれ以上に哀しかったのはママにも食べさせてあげたかったということだった。女の人は首を振ったりうなずいたりしていっしょに泣いてくれた。


   □


 わたしはお祈りの言葉を知らなかった。パパもママも前の街で忙しく働いていて滅多に教会に行かなかったし田舎のお爺ちゃんとお婆ちゃんのところにはたまにしか帰らなかった。だから食前の簡単なものしかできないと伝えるとわたしを拾ってくれた女の人はそれでもいいと云ってくれた。これから少しずつ教えるし大事なことは気持ちを込めることなんだって。神様の姿を夢の中でさえ見たことがないということも正直に伝えた。それでもいいのよとその人は繰り返した。神様の息吹はいつも人から人へと伝わるのであってこうして神様のことを話しているだけできっとあなたにもその光は届いているのだから。ママにも神様の息吹は伝わっていたのかな。もちろんよ。その人は笑顔でうなずいてくれた。


   □


 わたしは大人の手伝いを始めた。戦線がこちらまで迫ってきていて子どもでもいいから人手が必要ということだった。お芋の皮むきをしたり洗濯物を足で踏んで汚れを落としたり。手の皮がはがれて痛かったけどこれで他の人と同じになれたんだと思うと頑張れる気がした。もっと西に逃げるべきなんだろうか。でもどこに? わたしを拾ってくれた女の人はどこにも逃げないと云った。ここが私の居場所であり生まれ育った街なんだと。わたしもこれ以上どこにも行きたくはなかった。今回みたいに善い人に拾ってもらえる幸運は恐らく二度とないだろう。それにたとえこの選択が間違いだったとしても後悔はしていない。周りの大人たちはわたしを一人前に扱ってくれるし女の人もいつも気にかけてくれている。本当に一人きりで生きていけるほどわたしは強くない。


   □


 砲撃の音が遠くから聴こえてくるようになった。わたしを追いかけてここまでやってきたんだ。それでもわたしはこの街でいつも通りに働いている。他の人たちと留まっている。わたしみたいな孤児の女の子も何人も避難してきた。ひどいものをたくさん見たとその子たちの目は語っていた。わたしだってたくさん見てきた。日記に書ききれないくらいにいろんなものを。どうしていっそのこと楽になってしまわないんだろう。どうしてこんなことになってしまったんだろう。なのにわたしはいまだに諦めることができないでいる。不思議なのはこれだけ惨いことがあちこちで起こっているのに未だにわたしは人間の本性は善であるという希望を捨てきれないでいることでそれは拾ってくれた女の人も繰り返し云っていることだった。こんなことがいつまでも続くはずがない。みんなが正気に戻ったときにはきっと元の平穏な暮らしが戻ってくるはずなんだって。そう信じるのは難しいことだけど今は信じてみたい気持ちになっている。どうか神様の息吹がわたしたちみんなにあまねく伝わっていきますように。


   □


 グロスマンは日記を閉じた。鼻をすすり眼鏡を外して再び布でレンズを拭いた。黒煙で灰色に染まった空をしばらく見上げていた。それから日記の表紙の埃を払い落とし油紙に包んで革製の鞄に大事にしまい込んだ。手帳に遺体の場所を記録し来た道を戻っていった。そこは道路というよりも瓦礫のジャングルにかろうじて通された獣道だった。どの方角に目を向けても片づけきれていない死体が視界に映った。

 革鞄を背負い直して地面を見つめながら歩き続けそのあいだ本部に送るべき原稿の下書きを頭の中で綴りはじめた。セントラーダ、奪還せりの大見出し。サロッサ、ドリステン、オーデル、――あるいは名もなき土地で眠っている兵士達よ。聴こえるか。我々はやったのだ。そんな文面がエンジンのピストンのように高速で頭から弾き出された。グロスマンは首をゆっくりと左右に振った。


 街の外縁に沿って迷路のように掘られている塹壕はすでに一部が埋め立てられていた。街の人びとが敵軍に徴用されて掘らされた塹壕はそのまま彼らの集団墓地となった。小魚の缶詰のように市民の死体が積まれたあと石灰がまかれ土が被せられた。指揮壕に辿り着くとそこには何人かの兵士達がいた。見たこともないおよそ個人携行火器とは思えない大きさの砲を手にしていた。煙草を吹かしてくつろいでいるように見えたが目は時ならぬ訪問者をひたと捉えて離さなかった。グロスマンは敬礼してから身分証を見せた。


 兵士の一人が身分証に視線を落とした。指で口髭をつまみながら何度かうなずいた。まだ三十にもならない若者にも見えたがその髭や髪には白いものが混じっていた。

 ああ報道部。

 そうだ。

 何しにきた。

 話を聞きにきた。あと君らの写真も。

 なんで俺達。

 決まってるだろう。前線を切り拓いた英雄を一面に載せるんだ。


 彼は含み笑いをして相棒に目をやった。もう一人の男はその中でいちばん背が高くそして痩せていた。錫製のカップに入れた珈琲を飲んでいたが手が小刻みに震えていた。その割には、と彼は云った。

 その割には英雄様を称えたいって風には見えないな。あんたは。

 そう見えるかい?

 ああ。どっちかというと陰気だ。戦死公報を出してる部署みたいに。


 グロスマンは万年筆の先をとんとんと手帳に打ちつける仕草をした。黄ばんだページにインクが針孔のような染みを穿うがっていった。彼は話題をそらした。


 それが噂の新兵器?

 どれのこった。

 手に持ってるその馬鹿でかいの。

 ああ。

 使い心地はどうだった。

 最高で最悪。

 どういう意味なんだ?

 兵士は鋲打ちブーツの爪先で地面を蹴った。最高なのはこれのおかげで死なずに済んだってこと。――最悪なのは遅かれ早かれ敵もこれと似たようなものを使ってくるかもしれないってことだ。俺達がひと足早かったってだけさね。

 なるほど。


 なるほど、とグロスマンは心の中で繰り返した。次の質問をしようとしたとき指揮壕の中から部隊長が出てきた。噛み煙草の汁を塹壕の隅に吐き捨てるとグロスマンには目もくれずに口を開いた。


 休憩は終わりだ。彼は云った。配置につけ。反撃がくる。

 もう来たんですかい?

 今しがた連絡がきた。是が非でも街を取り戻したいようだ。急げ。愚図愚図するな。

 塹壕内の動きがにわかに慌ただしくなりグロスマンは脇に追いやられた。手帳を手に立ち尽くしている記者の存在にようやく気づいたのか部隊長が地平線の彼方を睨んだまま話しかけてきた。


 間の悪い時にやってきたな。

 お邪魔してしまい申し訳ありません。すぐに戻ります。

 むしろ丁度いい機会だ。お前もよく見ておけ。後で記事を書くのに必要になる。

 敵はここまで来るでしょうか。

 いや……。部隊長は嚙み煙草をせわしなく口の中で回しながら呟いた。我々を射程圏内に捉えることすら不可能だ。予定通りならな。

 それはつまりどういう――。

 今に分かる。他の連中にも伝えておいてくれ。塹壕から頭を出し過ぎるな。眼を焼かれたくなければな。


   □


 グロスマンはその戦争でついぞ敵の姿を見かけることはなかった。少なくとも死体や虜囚りょしゅう以外の姿では。死体ならば味方兵士の遺体と同じぐにゃり・・・・とした物体だった。そして捕虜ならばやはり味方兵士と同じ血の通った人間に見えた。自分が今まで散々記事の中で描いてきたような悪魔の化生けしょうとしての敵をこの目で捉えたことがなかったのだ。

 その日、その時、その場所もそうだった。

 隊長の言葉通りだった。

 すべては敵を視認する前に決着がついた。


 それは耳慣れた砲声とは次元の異なる甲高い音響から始まった。星の地核を加工して造られた巨大な笛の音のように重みのある高音。グロスマンよりも新兵器を手にした兵士達のほうが驚いて肩を縮みこませ互いを見やった。まるで誰かが誤射したかのように。続いて紅い軌跡がほうき星のごとく彼らの遥か頭上を過ぎ去っていった。雲海を切り裂く数十の航跡が空の色を赤銅色に塗り替えていくように思われた。その先端でひときわ紅い輝きを放つ光のたまは真っ直ぐ地平線の彼方を目指して飛翔し猛烈な勢いで高度を落としていった。

 最初の光球が地平線と交わったときグロスマン達は一斉に手で目を覆って塹壕に身を潜めた。誰もが反射的な行動だった。眼を閉じても真っ白になった視界はそのまま焼きついていた。目蓋の裏からでも次々と新しい光の洪水が生まれていくのが感じられた。誰もが塹壕の壁にしがみつくようにして身体を寄せ合っていた。十数秒が経過して首を上げかけた彼らは次に両手で耳を塞いだ。全員の肉体が活け締めされた魚のごとくびくんと震えた。轟音は長くながく続いた。グロスマンは軍に配属される以前、民間の記者として働いていた時分に火山噴火の現場をリポートする機会を得たことがあったがこの時の爆音はまさに間近で聞かされた噴火に似ていた。彼はねずみのように小さくなりながら先ほど拾った少女の日記の包装を強く握りしめていた。


 最初に顔を上げたのは部隊長だった。神よ、という呟きが口から漏れた。それが呪縛を解いた。兵士達は一人また一人と恐るおそる顔を上げた。グロスマンも肩を叩かれてようやく身を起こし塹壕から頭を覗かせた。

 地平線の向こうの空が真っ赤に染まっていた。土煙が雲よりも遥かな高度にまで昇っていた。木々は薙ぎ倒され川は蒸発し人間の構築物の一切合切が塵と化していた。爆心地は岩漿マグマのような炎の色彩を閉じこめており光沢すら放っていたがそれはあまりの熱に地表がガラス質と化しているからだった。何万の敵兵、何千の車両が含まれているのかは判然としない。ひとつだけ分かるのはそこに生存者がいるとは到底思えないということだった。


 地響きは爆音よりもなお長く続いた。その光景から最初に目を離したのもやはり部隊長だった。彼は新しい嚙み煙草を包み紙から取り出して口に含むと二人の兵士、――グロスマンが最初に出会った二人に指示を飛ばした。

 上に掛け合って全住民を街から避難させる。彼は云った。返答を待つ時間はない。今から誘導が必要になる。拒否するなら地下鉄にこもれと伝えるんだ。間違っても横穴を掘っただけの防空壕じゃだめだ。

 イエッサー。

 彼らは軍人らしく理由を訊いたりしなかった。仲間を取りまとめて新兵器のメンテナンスを行い塹壕を後にしていった。グロスマンは塹壕に背をもたせかけて何十もの煙の柱を見つめていた。あまりに長いあいだ。取材用の手帳はいつの間にか手からこぼれ落ちていた。彼はそれを拾い上げようとしてためらった。手垢のついたその相棒に触れたくないと思ったのはこの仕事に携わって初めてのことだった。

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