#64 鍵盤と葡萄酒

 修道女見習いの少女がピアノの前で悪戦苦闘を続けているあいだリシュカはいくつか雑用をこなした。荷車を引いて聖堂と組合とを何度も行ったり来たりしたため程なく腰を痛めた。他にも遣い走りの仕事は幾つもあった。単純な日用品の買い出しはもちろんのこと。シエスコ酒で満たされたクソ重たい酒樽を運ばされたこともあった。この辺りでは教授と呼ばれる本の写植を請け負っている人物にこれまた重量級の書物の山を引き渡したりもした。

 大聖堂とくず鉄拾いの組合の間には思っていたよりも深い繋がりがあるようだ。組合のスカベンジャーが各地の教会の廃墟から集めてきたガラクタ紛いの品々を貰い受ける代わりに元司教は死臭避けのお香なるものを供給していた。香はともかくガラクタはやたらと重かった。九本に枝分かれした燭台などは特にかさばった。幕屋に置かれる神聖な代物なんだそうだが運ばされる身にとってはひたすら不便で非効率な物品だった。


 元司教を名乗る得たいの知れない男から払われた給金は飯代や宿泊費を除いても悪くはない額だった。リシュカはそれをほとんど全部酒手に突っ込んだ。場所はスカベンジャーの組合酒場。他の場所だと知り合いに見つかる可能性があった。モーレイに飼われていた小娘が今や零落して酒に溺れる日々を送っている。そんな噂を立てられるのはごめんだった。時折ブランカ酒が注がれたグラスを置いた。考えこもうとしばらく目を閉じる。だが首を振ってまたグラスを上げるのだった。


   □


 リシュカが酒場でマスター相手に飲んだくれていると下手くそなピアノの音が店中に木霊する。輪姦される七面鳥の鳴き声のような旋律だった。それが毎日続く。だが他に飲める場所もない。人目につかないよう閉店後に飲ませてくれるのはここくらいだった。リシュカはとろんと蕩けた瞳で振り返り店の中を眺め渡した。スカベンジャー達のいない酒場は陰気さが薄れて却って明るくなったかのように思われた。


 ……あいつちっとも上達しないな。

 リシュカはクロエをあごで指して呂律の回らない口調でそう云った。

 マスターは頬杖をついて目を閉じていた。穏やかな表情だった。

 最初はそんなもんさ。ピアノどころか楽器さえ手にしたことないんだから。自分の名前さえ書けない子供にいきなり文法を教えるわけにもいかない。

 こんなんで祝祭日とやらに間に合うわけ?

 本番で成功できるかどうかはさほど重要じゃないんだろうね。あの子にとっちゃ。

 リシュカはグラスを干して息を吐く。

 ……変なやつ。


 クロエの豊かな金髪が演奏に合わせて背中で踊っていた。左に右に。春を迎えた地リスのようにひるがえっては着地する。ピアノ弾きの老人は手取り足取り教えている。感情を込めるべきところと込めるべきでないところ。自分を主張しすぎないこと。余計な装飾はいらないこと。それはピアノの技術的指導というよりも哲学の講義といった風情だった。あの教え方ではあと三日もすれば餓死寸前のカナリアくらいにはなれるかもしれない。


 リシュカは首を振った。

 見てらんない。好きにやって好きに失敗したらいいさ。

 そしてブランカ酒をもう一杯要求すると注がれたのは真っ赤なシエスコ酒だった。それも濾過を挟んでいないにごりを残したもの。雪のようにピュアなブランカ酒とは似ても似つかない。酒精の濃度は当然比べ物にもならないだろう。


 ……何これ。いつ誰が醸造酒を注文したの?

 たまには酔うため以外の愉しみを見つけな。マスターはボトルにコルク栓を詰めながら云った。あんたの飲み方は早死にする。それに元々こっちの方が店の売りだったんだ。今じゃ頼む人も少ないがね。

 濁りのシエスコが?

 ああ。フルーティーで美味いんだよ。戦争前はいわゆるジン横丁とは距離を置いていた。今はみんな薬みたいに度数の高い酒ばかりさ。スカベンジャーも含めてね。でもしょうがない。同じ量でより手っ取り早く酔えるならどっちを選ぶか。答えは決まりきってるからね。


 マスターは苦笑いしていたがその口調はあくまで柔らかだった。樽の中で熟成されて丸みを帯びた味わいになったかのように。リシュカはもう一度練習に打ち込むクロエのほうをかえりみた。あのピアノも年季こそ入っているが今ではまず手に入らないヴィンテージ品のようだった。ましてや演奏に耐える状態のものなど。

 リシュカは文句をつけるのは止めてグラスを鼻に近づけた。果実の香りが胸を満たした。しばらくそうして時間が過ぎ去るに任せ口に運ぶことはしなかった。思えば酒の香りを楽しむという行為自体が思い出せないくらいに久しぶりのことだった。ためらいつつもグラスを傾けて紅い命の液体で喉を潤した。目を閉じて。舌で転がして。


 …………悪く、は、ない。

 素直に美味いと云ってちょうだいな。


 マスターは微笑んだ。目蓋や口元の皺の奥に彼女の若かりし日の面影が浮かんだように思えた。彼女はリシュカの紅梅色の髪を指してきっとあんたにはシエスコ酒が似合うと思ってたと語った。安い蒸留酒なんかよりずっといい。これからはこっちを飲みなさい。濾過してないぶん栄養もある。もう少し肉を付けたほうがいいよ。

 リシュカは目をそらして組んだ脚の上下を入れ替えた。もう一口、グラスを傾けた。

 気が向いたらね。


 マスターは黙ってうなずいた。ピアノに視線を戻して語った。……昔は蓄音機もあってね。弦楽四重奏をよく流してた。ディー・メジャーのね。聴いているだけでせわしなく立ち働いていた筋肉がほぐれていくのを感じるような好い曲だった。砲撃で蓄音機は駄目になっちまったけど今でも思い出すんだよ。あの頃のお客さん一人ひとりの顔をね。勘定を済ませるとみんな一度も振り返らずに出て行った。当然だよ。明日もあるいは一週間後もこの店に来るつもりなんだから。まさかそれが最期になるだなんてね。


   □


 祝祭日はあっという間に訪れた。晩酌をしながら深夜まで小説を読んでいたリシュカが起き上がったころにはすでに祭儀は中ほどを過ぎていた。宿坊から身廊へと通じるドアをそっと開けるとすでにクロエは演奏中だった。席には二十人ばかりが座っていた。思っていたよりは多かった。誰もがくたびれた枯れ木を思わせる高齢で子供を連れてきている者はいない。あるいは子供を含めた親族を喪った者こそ訪れているのかもしれなかった。ピアノ弾きの老人も最後列に座って義足を手でさすりながら演奏に耳を澄ませている。


 白と金の聖衣に着替えた元司教の男がたどたどしい演奏に合わせて言葉を紡ぐ。彼の聖衣もまたクロエと同じく継ぎはぎだらけで戦前からの使い古しだった。その声は緩急があり時に低く時に高まりされど耳障りではなかった。普段の事務的な話し方とは異なるそれは朗読というよりも唄だった。彼の声量に合わせて十三本に枝分かれした燭台の炎が揺らめく。言葉の意味は分からなかった。敬虔な信徒ならばその文言だけでなくその空間、――その時間の一瞬一瞬に何か重みのある意義を感じ取れるのかもしれない。この世とあの世を隔てているヴェールが取り払われる瞬間を幻視するのかもしれない。唯一リシュカが気に入ったのは甘いお香の匂いだった。これがスカベンジャー達も愛用している死臭避けの香りなのだろうか。


 リシュカが首を振って出て行こうとするとすぐ隣から声をかけられた。

 ――おいどこ行くんだ。

 ひっ、と肩を跳ねさせて振り返るとそこにいたのはセラウィだった。灰色の髪をかき上げる仕草をしながら目を見開いている。唇は微笑みを形作っていたがまばたきひとつ挟まずこちらを見据えていた。祭事の邪魔にならないよう柱に身を隠しながら二人は小声で話をした。


 まだ式は終わってないぞリシュー。いちばん大事な拝領が済んでない。

 あたしは様子を見に来ただけだって。――それよりなんであんたがここに?

 こっちの台詞だ。お前がそんな信心深い奴だったとは。

 それ本気で思ってる?

 ンなわけないだろ。

 この野郎。


 セラウィは唇の端を上げて静かに笑った。……お休みを頂いた日はここに足を運ぶんだ。亡くなったお婆ちゃんからの教えでね。世の中がどれだけ変わってしまっても祈ることを止めちゃいけないんだと。私だって別に熱心な信徒じゃない。でも気持ちを入れ替えるには好い場所だぞ。心の底から深呼吸できる機会は今の世の中そう多くはない。

 あんたがそんな改まったこと云うの初めてだよ。

 だからお前には黙ってたんだ。馬鹿にされると思ったから。


 そんなこと――、と云いかけてリシュカは押し黙った。今もオルガンを弾いている少女の信仰に対して自分がこれまで何を云ってきたのか。思い出そうにも酔いが残っていて記憶は曖昧だった。セラウィはリシュカとクロエを交互に見ていたがやがて息を吐いて話題を替えた。


 それよりモーレイ様から伝言だ。あまり聞きたい気分ではないだろうが。

 …………なんて?

 話は聞いている。荷物を盗まれたそうだな。宿代くらいは給料前払いで出してやる、だとさ。


 リシュカは足を踏みかえたが体重を支えきれず柱にもたれた。セラウィが肩を貸そうとしてきたが手を振って断った。声が震えないよう目を閉じながら言葉を紡ぐ。 

 どうしてご存知なの。そんなこと。絶対知られたくなかったのに。

 あの司教とモーレイ様は古い知己だそうだ。いつどこで知り合ったのか詳しいことは聞かされてない。とにかく今お前が冷たい路地を寝床にせずに済んでいるのは神様のご慈悲だけじゃない。あの方の人脈のおかげでもあるってこと。――ねぇ、リシュー、あれから少しは酒から離れたのか? その様子を見てると屋敷に戻るのはまだまだ先になりそうだな。


 セラウィは声を落として肩がくっつくほど近くに寄ってきた。まつ毛が微かに震えているのが分かった。

 リシュカは天井に視線を向けた。元の色彩も分からないボロボロの聖画。神様のご慈悲、という言葉を口の中で繰り返す。そして懸命にオルガンを弾いている少女の横顔に目を移す。


 量は減らしてる。少しずつだけど。リシュカは嘘をついた。――だから、ねえ、セラウィ。あたしのことは放っておいて。


 セラウィの身体が一瞬だけ揺らめき灰色の前髪が振り子のように踊った。すきま風に吹かれた蝋燭ののようだった。一歩後ずさって距離をとる。

 ……そうかよ。少女は低い声音で云った。で、給金はどうする。一応モーレイ様から預かってるが。

 いい。いらない。何とかなってる。

 じゃあ勝手にしてな。せいぜい野垂れ死ぬなよ。


 彼女は足早に立ち去った。リシュカはふらつきながらも後を追いかけたが外に通じるドアを抜けたときには姿は見えなくなっていた。曇り空だった。また一雨来るかもしれない。リシュカは両手で髪をかきむしった。ポケットから残りわずかな金を取り出し独りごちた。酒を。お酒を、飲もう。


   □


 まーた来たのか。マスターは腰に手を当てて云った。祭事はどうした。もう終わったのか。

 抜けてきたの。それより昨日のシエスコ酒くれない?

 気に入ったんだね。

 ええ。

 ならよかった。


 くしゃくしゃになった紙幣を受け取った女主人はカウンターの上で丁寧に皺を伸ばした。世界が一度終わってしまってなお魔力を失わない紙切れ。それに視線を落としたまま彼女は云う。

 ……あの子の演奏は聴いてやらなかったのかい?

 途中まで。

 薄情だね。それに不信心だ。

 あたしは信徒じゃないから。

 落ち込んでるように見えるけど。

 だからなに。

 酒に逃げるのは結構だよ。うちだって儲かるし。あれこれ詮索する義理はないさ。

 じゃあ早く持ってきてよ。


 注いでもらったシエスコ酒は苦かった。中身は同じはずだった。半分と飲まないうちにリシュカはグラスを置いた。ぽたりと水滴が紅い液面に波紋を広げた。それが涙だと気づくのにしばらく時間がかかった。リシュカは黙したまま唇を噛んでいた。涙は後から後からあふれ出た。店にはお香の匂いが微かにただよっていた。先ほど教会でたかれていたものと同じだ。死臭避け。死。これまで沢山の数の死体を見てきた。セントラーダに来る前は自分や親友がそうなるのも遠い未来ではないと毎日のように考えていた。それでも死ぬときは一緒のはずだった。それだけが救いだった。


 不意にセラウィの言葉を思い出した。屋敷を追い出された日。部屋で雑誌をめくっていた彼女の台詞。


 もしお前が戦前の時代に生まれていたなら。

 きっとゴシップ記事に取り上げられているような――。

 ……そんな地位の人間になっていたはずだ。


 リシュカは涙で掠れた声で呟いた。

 …………ぁたし、あたし、――なんで生まれてきたんだろ。


 リシュカの視界の隅でカウンターの上に置かれたマスターの手が握りこぶしを形作るのが分かった。指が開いたり閉じたりした。彼女は洗いたての布巾を出して手渡してきた。リシュカはそれで涙を拭いた。午後の開店に備えて立ち働いている戦前生まれの老いた女性の姿をぼんやりと見ていた。


 夫が弾いていたんだ、あのピアノ。マスターは手を止めずに語りかけてきた。別に大した腕前じゃなかったがね。それでもずっと聴いていたくなる優しい演奏だった。あの人が開店の準備をしていて私が地下室にいるとき砲撃が始まった。そのうちの一発が店をめちゃくちゃにしたんだ。破片があの人の首から上をきれいに持っていった。一瞬の出来事だったよ。寝床で先立つ人を静かに見送る。そんな風に死ねる夫婦なんて世の中そう多くはないことに気づくには少しばかり遅すぎた。知っていたならその日の朝に、――あるいは毎日の生活であの人にもっと違う言葉をかけてやれていたかもしれない。感謝とか。謝罪とか。あとは結婚式のとき以来使っていない言葉とかね。


 リシュカは訊ねた。街から事前に避難することはできなかったの?

 考えはしたさ。でもどこに行く? ――あの時期すでに領邦中は戦火に見舞われていた。道すがらに飢え死にするか襲われて死ぬか。それにあんな状況だったからこそ酒と憩いの場を求めてる人も大勢いた。すべてを捨てて逃げるってのはそう簡単にできることじゃないんだよ。特に背負ってるものが今よりずっと多かったあの時代はね。


 マスターはそこまで語ってから手を止めた。古ぼけたピアノを見つめながらカウンターの木目を愛おしげに撫でていた。……私も夫も教会にはあまり行かなかったけども。彼女は云う。今ならあの長たらしい祭事に参加する意義が少しは理解できる気がするよ。

 それって何?

 備えるため。

 備え?

 自分達の立っている地面がどれだけ脆くて壊れやすいものなのかをあらかじめ知っておくためさ。


 リシュカはマスターの言葉を口の中で繰り返した。

 脆くて壊れやすい地面。

 それからひと息ついてグラスをそっと手に取った。今度は味わって飲んだ。

 少なくとも苦味は消えていた。


   □


 ――やっぱりここにいた!

 リシュカが二杯目を飲んでいるときクロエがスイングドアを開け放してずかずかと入ってきた。ブーツが金槌のごとく甲高い音を立てた。彼女はリシュカの両肩をつかむと激しく揺さぶってきた。本人は力を入れていないつもりなのかもしれないが酒を危うくこぼしそうになった。


 どうして途中で出て行っちゃったんですか? 気づいてましたよ!

 仕方ないでしょ飲みたくなったんだから。

 本当にほんとうに呆れた不道徳ぶりですね。とっても哀しかったんですよ。

 何を大げさな。

 せっかくあなたのために弾いてたのに!


 リシュカは首をこっくりと傾げた。

 ……あたしのため?

 そうですよ誰よりあなたに聴かせたかったんです。やればできるんだって見せてやりたかったのに。

 神様のために弾きなさいよバカ。


 クロエはマスターにピアノを借りてもいいかと訊ねた。許可をもらうと楽譜を手に突進した。

 ――リシュカさん、今度こそ最後まで聴いていただきますからね。

 勘弁してよ……。頭痛がしてきてリシュカは額を手で押さえた。分かったよ私の負け。認める。この短い期間で見違えるように上手くなってた。

 本当ですか?

 ほんとう。

 クロエの顔に花が咲きリシュカは目をそむけた。あんたはいちいち眩しすぎる、という言葉を喉の奥に飲み込んだ。


 後から老スカベンジャーとピアノ弾きもやってきた。あんた今まで何やってたのと訊ねると野暮用だという返事。老人二人はブランカ酒を注文してリシュカの隣に腰を落ち着けた。ピアノ弾きは演奏を始めたクロエの横顔を目を細めて見ていた。


 守ってやった甲斐があったな、あのピアノ。

 よく云うよ、とマスター。うちを便利な隠れ家に使ってたくせに。

 おかげで生き延びられただろう。

 さぁね、どちらかと云うと死に損ねたのかもしれないね。

 違いない。老スカベンジャーはショットグラスを手に笑った。みんな死にぞこないだ。みんな……。


 リシュカは三人の顔を見比べた。今にも想い出話を始めそうな雰囲気だったが彼らは何も語らず演奏に耳を傾けていた。それなりの年月をセントラーダで過ごしてきたつもりだがこの街のことをあたしは何も知らないと思ったのはその時が初めてだった。そっとグラスを持ち上げてシエスコ酒を飲んだ。クロエの細い指が鍵盤の上で舞い踊るのを眺めていた。それは目を閉じて耳を傾けていたくなるほどの演奏ではない。しかし先日までの耳を塞ぎたくなるような有様でもない。ほろ酔い加減がちょうどいい。そんな旋律だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る