#60 崩れた回廊

 かつての大聖堂がクロエの目前にそびえ立っていた。街からほど近い丘から一望しただけでもひと際目立つ尖塔。月面のようになったというセントラーダの街でこの聖堂が原型を留めているのは奇跡と云えた。塔の先に留まっていた鴉を老スカベンジャーの禿鷲が追い出して後釜に収まり羽根の点検を始めた。

 懐かしいねぇ。老兵は尖塔を見上げながら云った。戦争中の話だがね。これに最初に砲弾を命中させられたら特別配給が出るってんで敵の砲兵隊の間で競争になっていたんだと。

 敵、ですか。何だか妙な響きの言葉です。

 そうさね。戦前はそうした言葉が手触りのある実体を持っていた。

 どうでもいいから早く入ろう。リシュカが口を挟んだ。何でもいい。どこでもいい。今日はもう寝たい。

 お荷物、きっと見つかりますよ。

 そんな慰めいらない。あんた初対面なのに馴れ馴れしいんだよ。

 ここで逢えたのも主のお導きです。交誼を結び力を合わせましょう。

 だからその云い方が――。


 少女はふらついてクロエの肩にもたれかかってきた。紅梅色の髪がクロエの鼻をくすぐった。しかしほのかな香水程度では暴力的な酒の臭いを打ち消せてはいなかった。目の下の隈は痛々しいほどだったがそれでもクロエは彼女のうつむいた横顔から視線を離せなかった。

 …………悪ぃ。気分がすぐれなくて。

 だ、大丈夫です。

 なに人の顔じっと見て。

 クロエは口ごもった。――や、あの。

 はっきり云え。

 ほ、ほんとうに綺麗な方だなって。すみません、お会いしたばかりなのにこんなこと。

 知ってる。よく云われる。

 お名前は何と仰るのですか。

 教える必要あるの。

 お願いします。

 ……リシュカ。リシュカ・ロイツェヴァ。

 素敵なお名前です。

 一応訊いとく。あんたは。

 クロエと申します。

 そう。

 どうしたらそんな染みひとつない肌を保てるのでしょう。

 …………。


 少女は力なく首を振った。そして聖堂の尖塔を見上げながら呟いた。

 見た目が小綺麗でも意味ないんだ。――意味ないんだよ。


   □


 セントラーダの大聖堂は戦争があったさらに数百年も前から改修を経つつも同じ場所に鎮座し続けてきた。戦争直前に建てられた近代的な建築物が薙ぎ倒され古ぼけたその建物だけが奇跡的に生き残っている様はまるで飢饉で壊滅した村に一人取り残された老女のような趣があった。


 西正面から堂々と入ろうとする老人とリシュカを制してクロエはまず宿坊を覗いてみた。一間ひとまだけの坊は思わず二の腕をさすりたくなるほど冷え切っており誰もいなかった。クロエは二人と顔を見合わせてから外に出た。そして宿坊と聖堂とを隔てるかつての広い芝地を横切った。芝地には砲撃ではなく経年劣化によって倒壊した一部の尖塔が落下した当時の姿のまま人の背丈の二倍の高さで力なく横たわっていた。

 軋んで悲鳴を上げるブロンズのドアを押し開けて三人は正面の身廊ネイヴに足を踏み入れた。クロエは立ち止まり両手を胸に引き寄せて聖堂の天井から床面までを舐めるように観察した。交互に。そして何度も。


 隣に立つリシュカは腰に手を当てて軽い溜め息をついた。

 ……しばらくぶりに来たけど相変わらず陰気だね。


 クロエは否定しなかった。アーチと円柱コラムからなる身廊の大路は赤茶けて元の色が分からなくなった敷物が骸をさらしており埃とかびの匂いが漂っていた。側廊に設けられた窓は分厚い壁に不器用にうがたれた狭いトンネルのようだった。身廊の四隅には苔が生えていた。天井の聖画は完膚なきまでに古ぼけており描かれた聖者と背景の色とが区別できなくなっていた。金箔が貼られていたであろう円柱も今ではところどころに剥げ落ちるのを免れた塗料が子猿のようにしがみ付いているにすぎない。


 老スカベンジャーは鼻を鳴らしてから容赦なく云った。

 ここはあれだ。刑務所だ。少なくとも聖堂じゃないな。

 リシュカも同調する。敬虔な気持ちになるどころかむしろ気が塞ぐ一方だね。

 いっそのこと完全に崩れちまってたほうがよほど麗しい想い出のままいられたんじゃないか。

 無駄に天井が高くって寒いたらありゃしない。

 ――お、お、お二人とも不道徳ですっ!

 クロエは足を踏み鳴らして喚いた。


   □


 アリサと別れてからクロエは来る日も来る日も父親の割れた頭蓋骨と形見のロザリオを枕傍のテーブルに置いて寝起きしていた。朝になるとロザリオを手に善き本の頁をめくり気に入っている箇所を声に出して読んだ。日常の雑事をこなすあいだふと立ち止まり目を閉じて考えこむ習慣がついた。

 窓辺に立っていると思い出される記憶がある。麦色のきれいな髪をしたくず鉄拾いの少女の姿。そして亡くなった父と過ごした朧げな思い出。


 空模様が塗り替えられる以外には何も変わり映えのない日々が続いた。地域の施しを受けながら奉仕の雑務をこなす。家々の床を掃き清め厩舎を掃除し家畜に餌をやる。乾季も半ばを過ぎると洗濯で使う水の冷たさが肌に染みた。洗濯が終わると手のひらを擦り合わせ息を吐きかけながら暖炉の絶えた教会の廃墟に戻るのだった。そして施された黒パンと塩漬け肉を時間をかけて食べた。

 集落では誰の手も汚れていた。汚れていない人はいなかった。クロエは何度も父親の頭蓋骨を手に取り声にならない問いを投げかけた。いくら部屋の掃除をしても片付いた気持ちにはならなかった。要らないものを捨てようとも思ったが要らないものが出るほど贅沢な暮らしでもない。ただロザリオを握りしめる回数が増えただけだった。


   □


 ある日、年配の女性と雑談しながら洗濯している際にこう質問された。

 今も善き本を読んでいるの?

 ええ。

 毎日?

 もちろんです。

 偉いわね。彼女は微笑んでから首を振った。死んだ夫が云ってたわ。人生で知っておくべきことはぜんぶ善き本に書いてあるって。でも戦争が終わった今になって思い知らされるの。もうそれだけじゃ足りない・・・・んだって。


   □


 寒い日の朝にクロエはほんの思いつきでスカベンジャーの組合がある通りへと足を運んだ。足取りはふらふらしていたが視線は小石ひとつ逃さず左右に振っていた。視界の隅に何かが映るのではないかと期待していたのだ。例えば猫の尻尾のようにひるがえる金髪の毛先。あるいは血のように紅い外套のすそ


 組合酒場にたどり着くとスイングドアの隙間を通して中を覗いてみた。およそアルコールの提供される場とは思えない静けさ。誰もが背中を丸めてテーブルを囲みちびちびとブランカ酒を舐めたりぱさぱさの食事を処理していた。

 もちろん彼女はいなかった。

 でも血の色をした紅い外套が墓のように並ぶさまを眺めているうちにクロエは背中を押されたかのように両手で勢いよくドアを開けていた。

 そして声を張り上げたのだ。

 助けを求めていますと。


   □


 元司教を名乗るその初老の男性はぼろぼろになった大聖堂をたった一人で管理しているという。それは管理しているというよりも死病にかかった患者を看取るさまに似ていた。

 クロエが宿坊の床に箒をかけ寝具の埃を払い落とし固く絞った雑巾で汚れを拭う姿を老いた彼は眩しげに目を細めて見ていた。リシュカは埃も気にせずに別室で寝転んでしまい老スカベンジャーは昔馴染みに会ってくると云い残して酒場に出かけてしまった。


 すまないね、シスター。助かる。

 元司教は見た目の老いたぼろきれ姿に反してしっかりとした口調で云った。語りかけるというよりも商談をもちかけるかのようだった。

 クロエは手を休めずに答えた。シスターだなんて。自称です。戦後生まれで洗礼も何も受けてないんです。

 あんなのは形式だけだ。信じる者はみなブラザーでありシスターだ。蜜蝋が足りなくとも別のもので火は灯せる。

 私のいた集落ではチップを使っていましたね。必要な時は。

 チップ?

 動物の糞です。乾燥させて。

 元司教は飲みかけていた茶のカップを膝に置き直した。……ははあ、脂肪でつくったものとどちらが臭いかな。

 どちらにしろ屋内で使うべきではないですね。たとえ煙突があっても。

 クロエは苦笑して手に持つ石けんに視線を落とした。それもまた香料の含まれない純然たる脂肪でできていた。


 老人は火の絶えた暖炉に目を向けた。

 私は戦中、街から離れずにいた。戦禍が迫ってきても。ここを離れることなど考えられないことだった。

 寄る辺ですからね。ここは。道を見失った人びとの。

 開戦から何年も経った。戦争はいつまでも続くように思えた。だが、やがてあれが起こった。

 あれ?

 元司教は首を振った。

 ……忘れられんよ。人間の脂肪が焼ける臭い。硝煙や黒煙に混じっても嗅ぎ分けることができた。信じられんかもしれんが今でも廃墟の壁に近づくとあの時の鼻を刺すような感覚が蘇る。焼け落ちた瓦礫に燃えた血肉が染みつくんだ。人の魂は臭いだよ。香りとなってこの世に留まるんだ。


 彼が再び口を閉ざしたころにはクロエは掃除の手を止めていた。男は寒さに肩を寄せるようにして椅子に座ったまま塵だらけの床に視線を落としていた。


   □


 クロエがくず鉄拾いの少女の消息を訊ねると司教はああ覚えていると話した。街に帰ってくる度に聖堂に顔を見せるという。やっぱり、とクロエは喜んだが彼が最後に彼女を見かけたのは数ヶ月も前。今はどの領邦にいるのかさえ分からないという。


 ――でも、収穫はありました!

 クロエは握り拳を作ってそう力説した。リシュカはベッドにうつ伏せになり枕に頬杖をついてその話を聞いていた。

 聖堂にお邪魔した日の夜。司教の好意で充てがわれた部屋に少女二人きりだった。護衛のはずの老スカベンジャーは昔なじみと酒でも飲み交わしているのか一向に戻ってこない。


 クロエは続けた。

 あの方は生きていて、今もお仕事を続けている!

 ……なんであんたみたいな世間知らずがオーデルから遥々登ってきたのか不思議だったけど。リシュカはしかめ面で云った。なんだ、人探しだったのか。

 どうしてもまたお会いしたいんです。

 よっぽど世話になったんだな。

 やり取りしたのはほんの二回くらいなんですけど。

 はあ?

 でも鮮烈でした。私と年が変わらない、ひょっとしたら年下かもしれないのに危険なお仕事を続けていて。

 くず鉄拾い……。

 そうです。スカベンジャーさん。


 リシュカは頬杖を崩して半身を起こした。ベッドの縁に腰かけ焦点の定まらない目で睨んできた。

 …………そいつの、名前は?

 アリサ、といいます。


 もしかして何かご存知――、そこまで問いかけたところでクロエの口は塞がった。視界が黒に塗り替えられた。リシュカが枕を思いきり投げつけてきたのだった。

 な、――何するんですかいきなり!

 どいつもこいつも、とリシュカは息を荒げながら云った。なんであんな……!

 彼女は拳を石の壁に打ちつけた。それは包帯を巻いた方の手だった。痛みのあまり丸くなる少女の傍にクロエは慌てて駆け寄った。血の滲んだ包帯を取り換えてやっている際にリシュカが口にした言葉はただひとつ。お酒がほしいというものだった。


 まだ飲むつもりなんですか? 出逢ったときからずっとお酒臭いですよ。

 あアもう。最後の一本が入ってたのに。盗んだ奴、絶対に殺してやる……!

 クロエはリシュカの肩を両手でつかんで瞳をじっと見返した。

 ――冗談でも、酩酊の中でも、殺してやるなんて云ってはいけません。赦しを乞いなさい。


 リシュカのどろんと溶けた矢車草のブルーの瞳が視界の中心で揺らめいた。

 だったら敬虔なシスターさん、あんたはどうなんだ。

 え?

 地方からセントラーダまで旅してきたんでしょ?

 え、ええ。

 道中で少なくとも一回は絶対に襲われてるはずだ。金にも食糧にも女にも飢えてるアウトローなんてごまんといる。――でもあんたは生きてる。ここであたしと話をしてる。じゃあそいつらはどうなった?

 それは……。

 奇蹟が起こって襲われなかったとでも?

 いえ。

 クロエはまごつきながらも事実を口にした。リシュカは腕を組んで口角を上げた。

 あの爺さんが殺したんだな。そして死体を畜生に喰わせた。

 でも埋葬はしましたし、その後お祈りも――。

 それで本気で罪は清められたとでも思ってるのか。あるいは死んでも仕方ない奴らだと?

 そんなことは。決して――。

 あんたが大人しく田舎に引きこもってりゃそいつらは少なくともあと数週間くらいは長生きできたんだぞ。

 …………。


 クロエは唇を噛んで顔をうつむけた。だがすぐに口はこじ開けられ頭は上向くことになった。首に巻いているチョーカーを手で強引につかみ上げられたからだった。喉がきゅっと締まり舌先が空気を求めて宙をさまよった。かひゅっという音が唇から零れた。


 リシュカはクロエの首を絞めながら鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけて云った。

 同じ穴のむじなって自覚があるんなら、――いいか、もう黙っててくれ。あたしに偉そうに説教するのは金輪際やめろ。

 クロエは返事することもうなずくこともできなかった。唇の端からこぼれ出た唾液がリシュカの手に巻かれた包帯に染みを作っていった。リシュカは焦ることなくたっぷり時間をかけた。ようやく解放されてベッドに突っ伏し必死に咳き込んでいるクロエの背中に棘付き鉄球のごとく言葉が投げ落とされた。


 ――これに懲りたら教えを説く相手を少しは選ぶこったね。


 足音が遠ざかっていった。クロエは追いかけようとして聖衣の裾が膝に引っかかり床に倒れ伏した。顔だけを何とか上げて声を張ろうとした。


 ――嫌です、私、負けませんから。

 喉から絞り出せたのは掠れた呻きだけだった。

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