#61 きれいごと
聖堂を飛び出した勢いのままリシュカは夜のセントラーダの街を歩いた。街灯がないので通りはわずかに地面が見える程度。夜空にまたたく星々のほうがよほど明るく街は月面の様相をいよいよ濃くしていた。人の姿もまばらだった。瓦礫とぼろ切れを組み合わせて巣穴のように通り沿いに不規則に立ち並ぶ家々。幾つかの住居からは微かな光が漏れていたが談笑はない。破壊を辛うじて免れた戦前のアパートからは蓄音機の音楽と歌声が漏れ聞こえておりささやかなパーティをしているようだった。恵まれているように見えるが火災で傷んだ建物はいつ倒壊するか分からない。つい数ヶ月前リシュカは八人の子供を含む三つの家族がまとめて瓦礫の下に生き埋めになった現場を目撃したばかりだった。
包帯の巻かれた右手を見下ろした。指を開閉して顔をしかめた。締めた首の感触が手に残っていた。金もなく酒もなくあるのは手の痛みばかりだった。
昼間に旅行用バッグを失くした店の前まできた。もちろん今は閉まっている。当然バッグはない。
リシュカは壁に寄りかかるような格好でずるずると冷たい地面に腰を下ろした。白く濁った吐息が煙草の煙のように空に溶けていった。手に触れた瓦礫の破片を思いきり投げ飛ばした。反響も残さないままぼとりと通りに落下する。
□
足音がして顔を上げるとやって来たのは三人の若い男だった。昼間に店で代金を立て替えてやると提案してきた連中。手には真新しい酒瓶。その中の一人、背の低い赤髪の男が声をかけてきた。
お早い再会になったな。
見たところ銃器は所持していない。リシュカは得物の特大バールを握りしめて青年を睨み返した。彼は後ずさることも目つきを険しくすることもせず手に持った酒瓶を差し出してきた。ブランカ酒。西部ウェルセス特産のラベルが月明かりに洗われて眩しく見えた。
リシュカは男の顔と酒瓶とを交互に見た。……なに、何のつもり?
詫びだよ。彼は静かに答えた。昼間は悪かった。気が立ってたんだ。最近物騒だからな。
リシュカは鼻で笑った。――で、イライラしたら見境なく女の子に声をかけて回ってるってわけ? お酒を見返りに物陰に連れ込んで。着ている服から尊厳に至るまでぜんぶ剥いじゃおうってか?
後ろの一人が肩をすくめもう一人は腕を組んだ。
赤髪の青年は酒瓶を引っ込めた。あんたは俺達を誤解してるぜ、と云った。
誤解もなにも見たままを云ってるだけだよ。
あんたが今まで俺達以外の男からどんな目に遭わされてきたかは訊かないよ。――でも現実を見たほうがいい。寝るとこもなければ食事のあてもないんだろ? 冬も近いし昨夜にゃ凍死者が出た。同じ死ぬにしたってこんな路上でくたばるよりはマシだろう。
死んだらそれで終わりってだけじゃない。別の男が云った。誰だって墓穴の代わりにスープ鍋に放り込まれたくはないはずだ。
お前は黙ってろ話がややこしくなる。
リシュカはバールを地面に突き立てた。それから青年の手にある真新しい酒瓶に視線を移した。喉仏が上下した。生命の液体がなみなみと満たされておりキャップはこれ以上ないほどしっかりと閉まっていた。未開封という言葉がこれほど価値を持つ時代は恐らく二度とない。
……今夜、だけだから。
よかった。
酒を飲んでお話するだけ。
ああ。
手を出してきたらコレで顎を外してやるから。
おっかない。
青年達は笑みを浮かべた。少なくともリシュカが昔の生活で散々目にしてきた下卑た笑いではなかった。
□
リシュカは木製のコップを叩きつけるようにしてテーブルに置き酒のおかわりを要求した。酔いが回って背筋は海藻のように頼りなく揺らめき隣に座った青年の肩にしなだれかかった。彼は笑って受け止めたがその口元は引きつっていた。酒瓶のネックを持って振り子のように左右に揺する。中身はすでに残り三分の一。
彼は声を低めて仲間に云った。……とんだ野良猫だよ。
別の年上の若者がうなずく。酒がちょいと入っただけでこれだ。
威勢だけは好かったな。
それ一本で幾らしたと思ってるんだ。
ほとんど一人で飲んじまったぞ。
醒めたら代金請求しろよ。
荷物なくしちまったんだろ?
きれいな身なりして酒癖の悪さは天災級だ。
さっさと放り出せよ気分悪ィ。
凍死しちまうからダメだ。
リシュカはとろんとした目を周囲に向けた。傾斜した低い天井が視界に映った。彼らの
お前の分はもうねぇよ。
まだ残ってんじゃない。
だからお前のじゃねぇって。
お詫びの品なんでしょ?
ひと瓶まるまる一瞬で飲もうとするなんて想像できるかよ。しかも濃いブランカ酒をストレートで。お前の喉は鋼鉄で出来てんのか?
リシュカはコップを青年の頬に押しつけて悪態をついた。それから反対側に寝転び元の色を失ったマットレスに顔を押しつけ声を上げて泣き始めた。
その時リシュカは自分が何を叫んでいたのか正確には記憶していない。自分を見捨てていった友人に対するほとんど怨嗟に近い恨み言か。あるいは彼女を奪っていったスカベンジャー少女への呪詛か。
若者達は顔を見合わせた。そしてこれ以上ないほどドン引きした声音で各々に呻きを漏らした。
えぇ……。
なんだこいつ。
子猫どころか化け猫だ。
赤毛の青年はこの荒廃した星に残された貴重な大気を丸ごと吸いこんで吐き出したかのような深いふかい溜め息をついた。手を伸ばしてリシュカの背中に置こうとした。だがリシュカは酔いをものともしない反応で腕を払いのけた。
――ごめん、触らないで。
青年は肩をすくめた。それだけ気丈なら大丈夫だな。
他の二人も黙りこくった。部屋は濃密な沈黙で満たされた。リシュカは深呼吸して改めて部屋を見渡した。本棚の上には写真立てがあった。赤毛の青年の、――恐らく少年時代の彼と母親らしき女性が映っていた。壁には市場で購入したものと思しき戦前のスポーツ選手のポスターが何枚か飾られていた。選手どころか競技の存在自体が消え去った世界でそれでもボールを追いかけるその姿は不思議なほど色あせていなかった。保存状態が好かったのかもしれない。壁も天井も傷んではいたが隅々まで掃除されており埃臭さはなかった。リシュカが身を投げ出していたマットレスにしても汗の臭いは染みついていない。床にはちり紙ひとつ転がっていなかった。
リシュカは半身を起こした。だが青年達の顔をまともに見返すことはできなかった。
あまり大したアドバイスはできないけどさ。赤毛の青年は再び口を開いた。酒が入る前のお前は少なくとも見た目は気立てが好くて育ちにも恵まれた、こう云っちゃ変だけどどっかの金持ちのお嬢さまみたいに見えた。もしも今みたいに泣いたり怒ったりすんのが本性で普段は猫を被ってんだとしたら、――しかもそんな八方美人ぶりを大切なダチの前でも続けていたんなら、――そいつに見限られたのも無理はないと思うぞ。
リシュカは黙って聞いていた。首を動かすこともせず。
彼は続けた。
きれいごとで人間関係は長続きしない。ましてや明日の食いもんのことで頭がいっぱいの生活なら余計にな。
…………分かってる。
そう。分かってんだろ。だから大したアドバイスじゃないんだ。
彼の言葉に他の友人二人はうなずいた。
リシュカは涙を拭って顔を上げようとしていた。だが首は動かなかった。
□
リシュカがようやく気力をかき集めて青年達に何か伝えようとしたときだった。
屋根裏部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
――フリーズ、動かないで!
自称シスターの少女が首からさげたロザリオをまるで拳銃のように構えながら部屋の入り口に仁王立ちになっていた。そのすぐ後ろに何がおかしいのか笑みを浮かべた老人のスカベンジャーが散弾槍の銃口をこちらに向けている。青年達はもちろんリシュカも思わず両手を挙げた。
誰も動かないのを確認してからクロエはリシュカに早足で歩み寄り手を握った。
遅くなってすみません。助けに来ましたよ、リシュカさん。
……なんで。
ああ、案内して頂いたんです。本当に便利ですね。くず鉄拾いさんの道具は。
云っとくが
リシュカはクロエの手を弱々しく押し返した。
なんで来たんだ……。もう構わないでよ。
話は後でいくらでも聞きます。まずはこの不道徳の巣窟から抜け出しましょう。
クロエは呆然としている青年達を睨みつけた。
お酒を飲ませてリシュカさんに何をしようとしたのですか。恥を知りなさい。
――いや俺達はむしろそいつの被害者なんだが。
嘘おっしゃい!
話にならねェ。
青年達はそれきり黙りこくって残り少ない酒瓶の回し飲みを始めた。リシュカは口を開こうとしたがその前にクロエの手で立たされた。有無を云わせない、華奢な身体からは想像もできない強い力だった。よく肥えた家畜さえ持ち上げられそうだった。背中を押されて部屋から連れ出されながらもリシュカは首だけを振り向かせて青年達に云った。
――ありがと、ごちそうさま。
お前はもう二度と酒を飲むな。
赤髪の青年は目をそらしたまま応えた。
□
大聖堂に向かって夜道を歩きながらシスター志望の少女はリシュカの前で喋り続けた。間一髪だったとか。老スカベンジャーさんが早めに戻ってきてくれてよかったとか。これも善なる存在の思し召しだとか。彼女の歩調は軽やかだった。黙っていたら道中いつまでもきゃんきゃん鳴いていそうだったのでリシュカは口を挟んだ。
困ってる人を助けたつもり?
――え?
これで憧れのアリサ様に一歩近づけたとか思ってるわけだ。
クロエは歩を止めて振り向いた。
えっと、……もしかして怒っていらっしゃるのですか?
あんたがやってるのは只の
クロエは首を激しく振った。乱れた金髪が中空を鞭打った。
……リシュカさん、どうしてそのようなことを仰るのですか。私はあなたのことを心配して――。
それが余計だって云ってんだ。
そんなに、――そんなにアリサさんのことが憎いんですか。大切なご友人を盗られたなんて誤解から逆恨みして?
リシュカは口を開けた姿勢のまま固まった。挙げられた手がぱたんと腰に落ち着いた。酔いが一気に醒めて夜気の寒さに脳の芯まで浸されたかのようだった。
シスター・クロエは手で自分の口を押さえていた。自分の云ったことに自分で驚いたかのように。そして二人の後ろをついて来た老スカベンジャーは堪えきれない含み笑いを漏らしていた。
リシュカは呆然として呟いた。
…………聞いてたの、さっきの?
はい。
どこから?
リシュカさんが、その、泣き始めていろいろ話し出してから。
つまり全部?
……ええ。
なんで止めてくれなかったの?
ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなくて。ただ、あまりに哀しそうに話されていたので思わず――。
逆恨み?
え?
逆恨みって云った?
い、云いました。どう見ても、どう聞いてもアリサさんは悪くありません。だから、つまりは、――逆恨みです。
リシュカは夜の暗がりでも瞭然とするほど自分の頬が紅く染まり熱を持つのが分かった。次の瞬間には訳の分からない叫びを上げてクロエの首に両手を伸ばしていた。しかし敬虔な少女も一日に二度も首絞めを許すほど寛容ではなかった。さっと身をかわされてリシュカは地面にまともに倒れ伏した。
……だ、大丈夫ですかリシュカさん?
殺してくれ。
はい?
あたしを殺せ。
何を云ってるんですか。
死にたいんだよ。分かるだろ。
分かりませんよ。いえ羞恥で死にそうなのは分かりますけどお気になさらないでください。
この野郎。
それに嬉しいんです。
は?
リシュカはうつ伏せの格好から首だけを振り向かせた。クロエは膝を折ってこちらを覗き込むような姿勢で微笑んでいた。シスター志望の少女は云った。
――あなたにもこんなにたくさんの欠点があるんだなって分かって。それで気持ちがほぐれたんです。あの男の人達には感謝しないといけませんね。
……まずあんたからぶっ飛ばしてやる。
そこで挟まれた哄笑に会話は断ち切られた。老スカベンジャーが腰を折り曲げて笑い転げそうになっていた。彼はぜいぜい息を吐きながら云った。お前さん達、年寄りをあんまり笑わせるもんじゃないよ。
路上の乱痴気に叩き起こされたのか周囲の月面から人びとがまろび出てきて何事かと見物していた。彼らの目に映ったのは地面に倒れ伏した喪服のように黒い執事衣装の少女とボロボロの聖衣をまとって突っ立っている少女、そして笑い転げる胡散臭いスカベンジャーの老人だった。
今さらのように寒さに身震いしてリシュカはくしゃみした。そしてクロエと顔を見合わせた。少女は周りの目を気にしながら手を伸ばしてきた。
とにかく立ってください。聖堂に戻りましょう。暖炉の火を灯したままなんです。暖かいですよ、リシュカさん。
リシュカは反射的に手を取ろうとして逡巡した。目の前に差し出された手のひらが促すように上下した。
……分かったわよ、と溜め息まじりに声を漏らしてリシュカはその手を握り返した。助け起こしてくれた少女の力はやはり思っていたよりも強く。そしてその手は温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます