#59 試し撃ち
我々の視線は戦友の顔と満天の星空、そして新しく支給された腕時計との間を絶えず動き回っていた。時計の指針や文字盤は新資源の鉱石から加工された夜光塗料が塗られておりうっすらと目立たない程度に光っていた。じめじめした暗い塹壕の底で蛍のように群れて飛びかう黄緑色の光の葬列のことは今でも夢に視ることがあるよ。
新しい支給品は時計だけじゃなかった。何人かが窮屈そうに散弾槍を持ち直した。通りすがりの戦死者の幽霊がもしいたとしたら遂に戦争を止めてハンティングにでも洒落込むのかと疑ったに違いない。それまで使っていた小銃や短機関銃が幼子の
夕食にはオーデル特産の赤玉チーズが特別に配給された。おまけに小隊につき一本のブランカ酒まで付いてきた。だがチーズの引き締まった濃厚な酸味もブランカ酒のかぐわしい芳醇な苦味もしっかりと咀嚼できた剛の者は少数だった。我々の塹壕の後方では物資を集積するごろごろという音が地響きとともに伝わってきており相手さんもそれに呼応して動きが慌ただしくなった。聴音のため前方に張り出した監視壕に交代で出ていると前からも後ろからも人間の肉体をすり潰すというただそれだけのために膨大なエネルギーが蓄積されていくさまがはっきりと聴き取れた。
やれやれ。私の横にいた
やれやれ。
それ以外に何が云える。
□
数週間前。訓練と称して我々のほか幾つかの中隊が後方に下げられた。集った顔ぶれをひと目見ただけですぐに察するものがあった。全員が古参兵だった。洗濯でも落とし切れない泥と煤で全身が汚れているなか眼だけが異様に光っていた。陣地にいかなる巧妙な擬装を施そうともこの眼のために視認される者は少なくないはずだ。誰もが樫の木のごとく引き締まった肉体で水気を感じられない。そして象のようにぶ厚い手のひらの皮膚は塹壕強襲兵の証だった。幾多の頭蓋骨をシャベルやツルハシで叩き割ってなお動じない手の皮の厚さ。
訓練前に生まれ故郷の話から戦中の作戦行動に至るまで尋問のごとく詳細な面談を受けた。そして机上のレクチャーもそこそこに実地試験が始まった。砲声とどろく戦場はもちろん手近な集落からも離れた森の中に秘密の演習場はあった。集まった我々はそこで初めて新兵器を目にした。
最初は軽野砲の類だと誰もが疑った。だがそれにしては小さかった。駐退機もなければ防盾もない。かといって個人用の火器とは思われないし思いたくもなかった。教官が手本として軽々とソレを担ぎ模擬標的へと一発カマすと我々のうちの一人は腰を抜かしそうになったもんだ。人型の標的は文字通り木端微塵になった。それも遮蔽として設置されていた土囊ごと吹き飛ばしていた。木片の一つひとつが実戦ではすなわち肉片であり骨片であり軍服の切れ端でありそして塹壕の壁にへばり付くことになるものだ。我々はその様をありありと思い浮かべることができた。伊達に榴散弾でズタズタにされた無数の戦友の遺骸を運んではいない。
教官は散弾槍を下ろしてから厳かに云った。講義でも話した通り新兵器はこれだけじゃない。むしろこちらの方が重要だ。
教官がおが屑の詰め込まれた木箱から取り出したのは弁当箱くらいの大きさの機械だった。翡翠の色をした鏡のように表面が磨かれた見たこともない鉱石が嵌め込まれていた。
これが再生機だ。市街に突入したらお前達の生命線となる。
教官は右手で軍帽を外し胸に押しつけた。
――お前達が衝撃部隊として戦線に風穴をこじ空ける。目標はセントラーダの奪還。その一番槍だ。これは大変な名誉だぞ。身命を惜しむなよ。
我々は敬礼した。
□
攻勢が始まったのは
壕外に飛び出すと月面のようなおよそ人間が潜んでいるとは思えない鈍色の荒野が広がっており我々はさながら宇宙空間に放り出された子猫のようだった。血は凍りつきながら沸騰し物を考える暇もなく脳みそは縮んでいた。ただ身体だけが動いていた。敵が最初の混乱から立ち直る前に戦果を決定的にしなければならなかった。もはや工兵の世話になる必要もなくなった。散弾槍は生き残った鉄条網を支柱ごと吹き飛ばした。逆茂木も真っ二つだ。機構を中口径散弾に切り換えると我々は敵の第一線に突入した。
スコップを用いた白兵戦も曲がり角を挟んだ手榴弾の投げ合いもない。そうなる前にカタはついていた。防毒マスクごしにも血の臭いは凄まじかった。塹壕内はもはや足の踏み場を探る隙間さえなく鋲打ちブーツはぐずぐずになった血肉の河を波立たせるばかりだった。
我々は突破口に留まって守りを固めることはせずすぐさま前進を再開した。浸透に浸透を続けて三線に渡る敵陣を文字通り縦断した。他の中隊も軒並み突破に成功し霧に覆われた戦場が晴れて晩秋の夕陽にさらされるころにはすでに敵は粉みじんに分断された烏合の衆と化していた。
□
丘を登った私と戦友達は遠い地平にへばりついた大聖堂の尖塔を目を細めて観察した。夕陽にさらされて逆光となり影のように黒く大地に縫いつけられたその街は領邦最大の都市であるセントラーダだった。その時はまだハルハの大河も干上がっておらず幾筋かの黒煙こそ上がっていたが数百年来の姿を未だ留めていた。
後になって戦友の一人は酒瓶を手に語った。あの時あの丘を登れたのは幸運だった。街と呼べるほどの実体を保った巨大な人工物をこの目で拝めたのはあれが最後だったからな。
明日には市街に突入だ。誰かが云った。今のうちに拝んどけよ。出るころには瓦礫の山になっとるかもしれん。
□
夜になり肌寒くなると砲弾孔から白い霧が立ち昇った。霧は黒土の大地を這って次の砲弾孔、また別の砲弾孔から上がった煙と合流しながら最後には諦めたように夜空に溶けていった。その様を我々はぼうっと見守った。引き潰された命が重力の糸から解き放たれて星へと還っていくように思われた。
我々はよく話し合ったものだった。
こんなどうしようもない境遇に身をやつすことで得られた貴重な習慣とは何か。
それは空を見上げる回数が増えたことだった。
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