#16 誰が為の祈り

 老紳士の遺体を車に積み終えるとスヴェトナはドアを閉めた。しばらくぼうっと空を見上げていた。数羽の禿鷲が頭上を旋回している。晴れた空を横切る黒々とした猛禽の影。その軌跡を目で追っていた。彼女は視線を上げたまま呟いた。後ろにいるアリサに向けて。

 ……あいつらはいつもお前の傍にいるのか?

 ああ。

 こうして誰かを弔おうとしている時も?

 うん。

 おちおち死を悼んでいられないな。黙祷しているあいだについばんできそうだ。


 アリサは散弾槍に刻まれた傷を指先で撫でた。

 ……スカベンジャーの死体は土葬も火葬も許されないんだ。奴らに喰わせて自然に還すだけだよ。

 理解できないし納得もできない。

 普通はそうだ。私だって今でも慣れない。

 お前の父親も喰わせたのか。

 そうだよ。

 ……やっぱり理解できないな。


 アリサはスヴェトナの視線を追って禿鷲の舞を眺める。

 父さんの魂はあいつらの血肉になってる。一陣の風になってこれまでもそしてこれからも私をずっと見守ってくれている。そう教えられてきたし私もそう信じられるなら信じたい。――でも無理なんだな。冷めた頭で考えちゃうんだ。あいつらは私のことなんか何とも思っちゃいない。餌にありつきたいという欲求。ただそれだけの話だ。


 スヴェトナが車のエンジンを入れた。アリサは運転席のウィンドウに寄って別れを告げた。

 これからどうするんだ?

 ひとまず諸々の手続きを済ませる。といっても大したことじゃない。然るべき場所に埋葬するんだ。

 その後は?

 分からない。スヴェトナはハンドルを握る手に視線を落とす。……本当に分からない。

 アリサは後ろを振り返った。だが実際には何も見てはいなかった。言葉を探していた。


 長い呼気を吐きだしてからアリサは云った。

 ……しばらく一緒に来ないか?

 お前と?

 他に誰がいるんだよ。

 私はもうお金持ちの従者じゃないんだぞ。約束の報酬だって支払えない。

 そういう意味で誘ってるんじゃないよ。

 アリサは姿勢を落としてドア越しに顔を近づけた。

 ……分かってるだろ?

 スヴェトナは頷いた。うん。――分かるよ。


 アリサはそれからはっとしたように身を引いた。

 ――いや。やっぱりだめだ。……今のは気の迷いってことにして。

 なんだ急に。

 スカベンジャーを辞めることはできない。往く先は常に危険だらけなんだ。

 お前は私を深窓の御令嬢か何かだと思ってるのか。スヴェトナは笑った。死線なんて何度くぐり抜けたことか。

 好意的に迎えてくれる場所は皆無なんだぞ。

 それも今さらだな。ツェベック様に拾われる前に私が何処にいたか教えてやろうか。鼻つまみ者の寄り合い所帯だぞ。

 でも……。

 とりあえず考えさせてくれ。三日もあれば戻ってこられるだろう。返事はその時に。

 分かった。

 待っててくれ。

 ああ。


 アクセルを踏みかけてからスヴェトナは再度アリサを見た。目の下に浮かんだ隈が痛々しかった。それでも彼女は笑っていた。

 ……お前は私の命を二度も救ってくれた。最初は敵の銃火から。次は私自身の絶望から。

 自殺しようとするあんたを止めるのは本当に大変だったんだからな。

 分かってるよ。

 スヴェトナはハンドルから片手を放してアリサの手を握った。

 ――だから今のうちに云っとく。ありがとうな。


   ◇


 アリサはひたすら待ち続けた。時間はあまりにも緩慢に流れていった。空にぼつりと浮かんでいる雲が何時間経っても位置が変わっていないように見えた。暇なときにアリサがやることはひとつ。再生機で過去の情景の残滓を拾い集めることだ。ダイヤルを調節して出力を上げる。再生範囲が拡大されてモーテルの駐車場全体の記憶が墓から掘り出された。


 モーテルに出入りする人びとの影が早回しで映し出されていく。賑やかな声が。あるいはささやかな呟きが木霊となって一帯の空間にあふれていく。まるでさざ波のように。アリサのようにバイクで旅をするドリフター達。おんぼろの中古車で大陸を横断している父と娘ほど年齢の離れた男女。銃を隠し持った人相の悪い男たち。一夜の宿を求める避難民……。時代が下るにつれて訪れる人びとの表情はどんどん陰気になり服装はみずぼらしくなっていった。そして死体ばかりが増えていった。

 ある男が他の二人によって両腕を押さえつけられ三人目の男が構えたライフル銃で後頭部の真下を撃ち抜かれた。自ら命を絶った者もいれば衰弱死した者もいた。人肉を喰らってでも生き延びようとした者もいた。その一人ひとりが独自の死を迎えた。誰もが独自の生を歩んだからだ。何千万、何億人という統計では見えてくることのない個別の死。生まれたばかりで辺獄に旅立った赤ん坊にさえそこには数刻の灯火が宿るのだ。


 アリサは車止めに腰かけて頬杖をつきながらその光景を飽きるともなく眺めていた。奔流のように過ぎ去りゆく記憶の欠片。再生機で映されている人びとの中で今でも生き延びている者は恐らく一人もいない。そのままでは誰にも見届けられることもなく地球の歴史が終わるその日まで朽ち果てていたであろう白骨たち。父はアリサに云ったものだった。ほとんどの人は自分の死に場所を選ぶことができなかった。それどころかお墓すら建ててもらえなかったしまさか自分がこのように惨めな最期を迎えることになるとは夢にも思わなかっただろうね、と。


 アリサは両膝に腕を立てて呻き声を上げながら姿勢を起こした。二輪車から伸縮式のスコップを取り外すとモーテルの裏手に穴を掘り始めた。

 まあ、――ただの暇つぶしさ。

 と、独り言を漏らした。


   ◇


 作業を終えたころには夕刻だった。今日もまた血の色を湛えた夕陽が長い長い影を荒野に縫いつけている。

 遠くからエンジン音がした。聞いたことのある響きだった。アリサはタオルで汗を拭いてスコップを地面に突き立てた。兵士たちを載せた軍用トラックが三台。さらにもう一台荷台に誰も載せていない汚れたトラックが敷地内に入ってきた。降りてきたのは数日前にも会った下士官らしき口ひげを蓄えた男だ。

 また会ったな屍肉しにく漁り、――いやスカベンジャー。彼は云った。まだここに居たのか。

 ちょっと色々あってね。

 彼は目を細めた。とにかく改めて礼を云う。おかげで目的を達成できた。だが今日のうちに戻れそうにないからここで野営させてもらおう。

 追いつけたのか。

 ああ。見ての通りだ。


 彼は四台目のトラックを顎で指し示した。荷台から死体袋がひとつ降ろされるところだった。

 アリサは表情を変えずに頷いた。――それは好かった。

 下士官風の男は兵士達に幾つか指示を出してから続けた。

 ……奴はもともと我々が徴用していた作業員だった。だが妻子を連れて脱走した。逃がすわけにはいかなかった。奴の死体は他の作業員への好い見せしめになる。

 作業員? 危険人物でもないのにこの人数が必要だったのか?

 彼らを見たまえ。

 下士官は神妙な顔を繕って兵士達の方を振り返った。アリサもそれに倣った。彼らは慣れない手つきでトラックから炊事道具を降ろし始めたところだった。ヘルメットの下にある顔つきはまだ幼かった。二十にも届いていない若者達だった。アリサくらいの年齢の者もいる。全員が無言か言葉少なで表情の変化も乏しい。


 ――ひと目で分かるだろうが彼らは兵士になってからまだ日が浅い。ついこの前まで家の農業でも手伝っていたかのような連中ばかりだ。どいつも食い扶持を得るため軍に志願してきた。――つまり人を殴ったことは数あれど殺したことはない手合いばかりなのだ。

 それで演習を兼ねて?

 彼は頷いた。

 奴を杭に縛りつけてから全員に一発ずつ撃たせた。こうした経験を積んでおかないといざという時に役に立たんのだ。最初の一発を撃った者には報奨が出される。

 それはそれは。


 アリサは思い出して訊ねた。

 ――奥さんと娘はどうなった?

 奴がすでに逃がした後だった。こちらとしては幸いなことだ。女子供を撃たせるにはまだ早いからな。訓練にはきちんとした手順を経なければならん。

 部下思いなんだな。

 男はそこで初めて微笑んだ。いずれは必要とあれば赤ん坊にも対処してもらわなければならん時が来るかもしれんからな。……私が若いころ初めて経験した“実戦らしきもの”は敵国人の集落を皆殺しにすることだった。ゲリラが逃げこんだものだから他に手段がなくてな。――だが産まれたばかりの乳呑み児ちのみごがゲリラな訳がない。そんなことは新兵の私達はもちろん当時の上官だって知っていた。だが命令には従わなければならなかった。

 それでどうしたの?

 私の友人に上官はこう命令した。手段は問わないから対処しておけと。彼はしばらく迷っていた様子だった。私が代わってやろうかと提案したが彼は首を振った。それで貯水用の甕に沈めて殺したんだ。――その数日後に戦闘があったが彼は真っ先に突撃して砲弾の至近弾を受け戦死した。今から思うと死にたかったのかもしれんな。


 彼は首を振って話を結んだ。――あれから世の中は大いに荒廃してしまった。せめて私の兵士には多少なりともマシな段階を踏ませてやりたいものだな。

 最終的にやることは変わらなくても?

 彼は頷いた。


   ◇


 その夜は下士官風の男の誘いでアリサは彼らと食事をすることにした。軍支給品の缶詰や乾パンが支給された。アリサは黙々と食べた。兵士達とアリサはドラム缶の焚き火の周りで夕食をとったがそこは数日前に例の家族と席を囲んだ時と同じ場所だった。

 作戦中につき酒がないこともあって静かな食事だった。きっかけを作ったのはやはり下士官の男だった。

 ……そういえば数日前にここに来た時はもっと荒れていたはずだが。

 片付けたんだよ。

 あの大量の死体をか?

 ああ。

 まさに掃除屋だな。スカベンジャーにとっては遺体も貴重な資源なのか。

 兵士達が含み笑いを漏らした。

 アリサは云った。ちゃんと埋めて弔ったんだけどな。

 裏手にある墓はお前が掘ったのか。

 そうだよ。

 じゃあ部屋は使えるのか?

 幾つか手の施しのようがない部屋もあるけどおおむね大丈夫だと思う。


 彼は顎先を指の腹で撫でる仕草をした。

 ……奇妙なことをしたものだな。スカベンジャーはもう廃業して寂れたモーテルを営むつもりなのか?

 アリサは笑って答える。そうだな。一時いっとき本気でそう考えたこともあったよ。でも駄目だ。この仕事を、――くず鉄拾いを辞めることはできない。

 興味深い話だ。

 とにかく色々あったんだよ。


 男は兵士達に向かって声を上げた。――お前ら喜べっ。スカベンジャー様のおかげで今夜はちゃんとしたベッドで眠ることができそうだぞ!

 若者達は短い歓声を口々に上げた。彼らは食事を終えた順に立ち上がってモーテルの下見を始め誰がどの部屋を使うかで話し合いを始めた。にわかに座は活気づいた。彼らの多くは戦後生まれでベッドでの安眠を味わったことすらない者がほとんどだった。


 下士官風の男は口ひげを指で撫でつけながら満足げに云った。

 いやはや幸運だな。兵士達にとっては好い休息になるだろう。

 それは好かった。

 事情は詮索しないがお前は間違いなくきことをした。

 どうかな……。

 少なくとも我々は感謝している。大事なのはそこだろう。

 うん。アリサは何度か頷いた。――うん……。

 この場所はこれから道往く旅人達のちょっとした休息所になるかもしれんな。私も今後この方面に部下を連れてきた折には立ち寄ることもあるだろう。旅先で死体と添い寝することほど気分が沈む夜はない。

 アリサは焚き火の灯を見つめながら答えた。

 ――ああ。その通りだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る