#15 セカンド・チャンス

 ツェベック・フォーレンホルンは葉巻に火を点けた。たっぷり時間をかけて煙を吸いこみ勢いよく吐きだした。潮を噴き上げるクジラのように。訪問者にも一本勧めて火を点けてやった。それからピートの香るブランカ酒をグラスに自ら注いで男の目の前に置いた。

 まずは一杯飲みたまえ。ここまで好く来てくれた。

 ありがとうございます。


 男は拘束を解かれてツェベックの前に座っていた。モーテルの管理棟。かつての事務室。部屋にはツェベックと捕虜の男とスヴェトナの三人がいた。従者の努力により電灯が点いていないことを除けば部屋は戦前の姿を取り戻している。スヴェトナは窓辺に待機して男の横顔に視線を注いでいた。中折れ式のソードオフ・ショットガンにはすでにシェルが二発装填されている。ホルスターを留めているスナップ・ボタンも外してあった。何かあれば即座に銃を抜いて男の肉体を粉砕することができるように。


 ツェベックは天井に浮かべた煙の軌跡を目でしばらく追っていた。煙が文字をかたどって語られるべき最適な文句を教えてくれるのを期待しているかのように。やがて彼は葉巻の先を灰皿に押しつけて火を消した。半分どころかまだ吸い始めたばかりだった。舌で唇を濡らしてから彼は話し出した。

 ……スヴェトナから話は聞いておる。この度は本当に残念なことになった。最初から儂が直接お前たちと話をするべきだったな。

 戦争が終わってからもう何年でしょう。十五年ですか。二十年でしょうか。

 さぁて。――どうかな。半世紀も経ったような心持ちだよ。

 無駄に生き永らえてしまいましたね。私も。あなたも。

 ああ。その通りだな。まったく。


 元・鉱山労働者の男は喪った右手を逆の手でさする仕草をした。

 ……実際にお会いするのは初めてですね。あなたのことはラジオや新聞を通してしか知らなかった。“向こう”のあなたは大した愛国者でしたよ。何百万という国民が銃後で餓死しようが勝利を追い求めてやまなかった。私たちが掘り出した血のように紅い鉱石。その欠片の一つひとつが敵を撃ち滅ぼす弾丸になると。勝利は目前だとね。今年のうちに戦争は終わる。そう聞かされて何年が経ちましたか。

 おい。スヴェトナが一歩踏み出す。これ以上無礼な口をきくなら叩き出すぞ。

 よいスヴェトナ。下がりなさい。

 はい……。


 ツェベックがデスクの上で指を組み合わせた。窓から差しこんだ陽射しで指輪がきらめいた。

 ……儂は、愛国の意味を履き違えておった。どんな犠牲を払ってでも国家は護られなければならんと信じておった。それが愚かな間違いであったことに気づいたのは国家そのものが滅びた後だった。息子たちは全員戦死し妻も病でこの世を去った。その後の破滅の時代を地下に隠れてやり過ごしようやく陽の光を浴びたのが二年前。国家どころか世界そのもの、――民族も、思想も、宗教も、あらゆる社会秩序が地上から吹き払われていた。そこには如何なる福音も恩寵も意味を成すことはない。瓦礫と廃墟だけが儂らに遺された。

 ――それであなたは社会奉仕活動に身を捧げるようになったと?

 有り体に云えばな。

 私の耳には実に小ざっぱりした白々しい話のように聞こえます。


 スヴェトナが銃に手をかける。貴様――。

 ――そこのお嬢さんはあなたの善人としての一面しか見てこなかったようだ。

 否定はせんよ。ツェベックは組み合わせた指に視線を落としていた。……儂は狡猾でそして臆病だ。何せここまで生き残ったのだ。用心深さだけはそれこそ掃いて捨ててしまいたいくらいに身に付いた。いくら酒に酔ってもこの子に罪を洗いざらい吐き出すようなことはしたくなかった。……今回の旅ばかりはそんな自分にもちょうど辟易していたところだったがね。

 スヴェトナは主人のそばに寄り添う。――だから何だというのですか。ツェベック様はもう罰を受けたではないですか。ご家族を亡くされたのでしょう。他のたくさんの人達と同じように何もかもを喪った……。

 ああ。手元に残ったのは使い道のない財産だけだ。

 ツェベック様は今、その財産を正しいことに役立てようとなさっている。大勢の犠牲を強いて築きあげた血にまみれし家財。それを今度は苦しんでいる人びとへのあがないのために費やしている。――それの何がいけないのですか?

 スヴェトナや。――儂らの世代が過ちを冒さなければ今ごろお前も学校へ行って友達を作ることができていたのだぞ。

 少女の目の端で何かが光った。

 ……私にとっては今この時が総てなのです。それに、――ちゃんと友達もできましたから。


 フォーレンホルン家の最後の紳士はおもむろに席を立った。そして従者の少女の肩に手を置いた。

 ……ありがとう。スヴェトナ。好い子に育ってくれた。

 それから彼は労働者の男に向き直った。

 君はこれからどうするつもりかね。補償はできる限り要求に添おう。手にかけてしまった君の同僚たちの取り分も含めて。

 男も椅子を引いて立ち上がった。ツェベックに向けて目礼する。

 ……補償は私の未払い分の給料だけで結構です。ただ、――外に積まれている私の同胞たちの墓を建てて弔ってほしい。自分の生きた証が墓標に刻まれることが今となってはどれだけ幸いなことか。あなたもよくお分かりのはずです。

 分かった。ツェベックは重々しく頷いた。君の云う通りにしよう。

 男もまた頷いた。

 どうかよろしくお願いします。彼らも戦前は熱心な労働者だったのです。……国のために総てを捧げた。

 ああ……。


 鉱夫を見送るためにツェベックは机を回りこんだ。スヴェトナは両手をお腹のところで重ねて別れの光景を見守った。元・資本家と元・労働者、――二人が握手するところを従者の少女は和らいだ表情で見ていた。男は手を放して窓に視線を移した。

 今日は、――実に好い天気です。


 他の二人も外の景色を見やった。次に鉱夫が選びとった行動はあまりに自然で無駄がなかった。躊躇ちゅうちょもなければ葛藤かっとうもない。ドアを開けるとかエレベーターの呼び出しボタンを押すとかいった日常的な動作の延長のようだった。彼は窓辺に立っているスヴェトナの脚から左手でショットガンを引き抜くとセイフティをスライドさせて解除しツェベックに向けて撃った。一瞬の出来事だった。ツェベックは後ろに吹き飛んで机に激突し卓上へ仰向けに身体を投げ出した。


 スヴェトナは訳の分からない悲鳴を上げながら男の腕をつかもうとしたが彼は身をかわした。空ぶったスヴェトナはつまずいて床に倒れた。男は這いつくばった少女の背中を踏みつけて散弾銃を向けた。――動くな。そのまま。

 この、この――ッ!

 スヴェトナが猛犬のように吠えた。


 そのとき外で待機していたアリサがドアを蹴破って部屋へ突入した。拳銃を男の額にぴたりと照準して叫んだ。

 ――銃を置け!

 男は無表情のままアリサを見た。そして血をごぼごぼと吐き出すツェベックをかえりみた。

 あなたは思い違いをしている。彼は云った。――人が変わっても犯した罪は変わらない。


 それから彼は自身の顎に銃口をあてがって引き金を引いた。轟音とともに血と脳漿と頭蓋骨の欠片が壁や天井にぶちまけられた。頭の半分を失った男の身体が崩れ落ちるところをアリサは奇妙に引き延ばされた時間の渦に呑み込まれながら目撃した。最初のショックの波が去るとアリサは男の死骸を飛び越えてツェベックの身体に取りついた。

 彼はアリサを見ていた。アリサも彼を見ていた。紳士は目を見開いて唇を震わせていたが言葉はなかった。血の塊が吐きだされてアリサの服にかかった。アリサは銃創を確認した。複数の臓器が致命的な損傷を受けていた。再度顔を上げたときにはツェベックの瞳は上向いて呼吸が止まっていた。


 アリサはしばらくのあいだ立ち尽くしていた。スヴェトナが這い寄ってきてアリサの足にすがりつく。

 ――ツェベック様は? 傷の具合は? 助かるのか? ――答えろ!

 アリサは首を振った。スヴェトナは顔をうつむけて表情を隠した。しばらく間が空いた。それから彼女は両手でアリサの右手首をつかむと拳銃の先を自身の額に向けさせた。涙をこぼしながら無言で見上げてきた。二人は見つめ合った。


 アリサは呟いた。……スヴェトナ。

 …………。

 スヴェトナっ。

 ……殺してくれ。

 駄目だ。

 お願いだ。撃ってくれ。

 断る。

 撃て!

 落ち着け――。

 ――殺せッ!


 アリサは拳銃を振りあげてスヴェトナの側頭部を殴った。少女は昏倒した。後には恐ろしいほどに濃密な沈黙が残された。アリサは部屋を見回した。迷子になった子犬のように首を巡らせていた。拳銃を机に置こうとしたが接着剤のように手がグリップに貼りついて離れなかった。指を引きはがしてようやく得物を置くともう一度部屋の有り様を眺めた。ツェベックの遺体、男の死骸、そしてスヴェトナ……。

 アリサは叫び声を上げて机を蹴っ飛ばした。何度も何度も蹴った。つま先が痺れて感覚がなくなっても蹴り続けた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る