#07 帰還
下水道から外に出て最初に眼についたのは待ち構えていたかのように橋の欄干に留まっている禿鷲だった。アリサはしばらくその猛禽と見つめあっていた。そして父親の生首に視線を落とし禿鷲のくちばしとを交互に見比べた。少女が唇を引き結んで禿鷲に近づいていくと兄は唾を吐き捨ててその場を離れた。老人が黙ってひと振りの
集まってきた禿鷲たちが父親の頭の中身を貪っているあいだアリサは橋の欄干にもたれるようにうずくまっていた。
煙草を吹かしながら老人が何かを云いかける。だがすぐに首を振って言葉を煙に溶かし灰色の空に放り出した。代わりに呟いていたのはアリサだった。
……私はやっぱり父さんのようにはなれないよ。
ああ。なりたくてなれるような生き方じゃない。
私だって死ぬのは怖いし理想ばかりじゃやってけないってことも分かってる。これを供養だなんて呼べるほど達観もできない。自分でやってみてようやく分かったよ。父さんのことは尊敬してるけど心のどこかでは怖いと思ってた。母さんが恵んでくれた優しさと父さんが示してくれた優しさの種類があまりに違いすぎて。そして遠すぎた。
老人が煙草のパッケージを懐にしまった。残りは私がやろうか。
……いや。自分でやるよ。最期まで。
喰いつくされて剥き出しになった頭蓋骨。ナイフで表皮を削ぎ落とし紅い鉱石の火を熾して満遍なく焼く。そして乾いた土で念入りに汚してから布に包みリュックにしまった。兄が戻ってきて欄干にこびりついた脳漿や散らばった頭皮にくっついている髪の毛の束を見て眉をひそめた。
……手伝ってくれた礼として今回のことは組合には黙っておく。これで貸し借りなしだ。いいか。
ああ。
父親譲りのご供養はどうだった。少しは気持ちも通じ合えたのか。
分からない。
分からなくて好いんだよ。異端というのはそういうことだ。
◇
日没間際になってスカベンジャーの最後のグループが地下鉄に戻ってきた。行きのときよりもトロッコは広々としており誰もが疲れ切っていて口数は少なかった。鍵持ちのくず鉄拾いが一同を見回してからリーダーの名前を口にして消息を訊ねた。ひとりが答えた。
――あいつなら連中の晩飯になったよ。奴らの寝床で残骸を見つけた。
にわかには信じられんが。そいつらはどうした。
皆殺しにした。決まってんだろ。
遺品は。
回収した。疑うってんなら再生機で証拠を見せようか。
いや。それには及ばない。
あいつはいけ好かない奴だったが俺たちは同胞殺しじゃない。それだけはちゃんと上に伝えといてくれよ。
鍵持ちは視線を落とした。そして術式を唱えて入り口を封鎖してから云った。
……二十五人中八人が未帰還か。さすがに堪えるな。
帰りのトロッコにがたがたと揺られながらアリサは最前席に座ってライトに照らされた枕木の葬列をぼんやりと見ていた。老人は戦利品の酒を他のくず鉄拾いと回し飲みしながら情報を交換していた。兄は弟の散弾槍の手入れをひたむきに続けている。
アリサは瞳を閉じて彼女の脇を通り過ぎていった季節のことを想った。昨日よりも今日。今日よりも明日。日に日に血の臭いは消せなくなっていきやがては二度と人びとの輪に入ることは叶わなくなる。そして最期には都市に染みつく朝露のひと雫に。あるいは荒野を吹きすさぶ塵のひと粒になる日が来るまで彼女たちは進み続ける。薄暗いトンネルのなかを。いつ脱線して放り出されるとも知れないトロッコに乗って。出口の
◇
組合で手続きを終えたときには陽が沈んで夜になっていた。まずは兄と別れた。独りになって荷物ばかりが増えた彼は往来の端っこで途方に暮れているようにも何も変わっていないようにも見えた。少なくとも表情に大きな変化はなかった。あの街に感情を置き忘れてきたかのように。
老人が訊ねる。……あんた、これからどうするんだい。
分からねえ。しばらくは人殺しも物拾いもごめんだ。幸い手当もついたしな。
辞めるのか。
兄は笑った。――辞めるだと。今さらなに云ってんだ。俺たちはどこにも行けない。だからくず鉄拾いになったんだろ。
ああそうだな。それさえ分かっているならお前さんはまだ大丈夫だ。
最後まで食えない爺さんだな。
青年はアリサに眼を向けた。それから視線をそらしてブーツのかかとで地面を蹴った。
……お前の親父さんについていろいろ云ったのは謝る。だが俺の意見そのものは何も変えるつもりはない。
ああ。分かってる。
死んじまったらお終いなんだ。主義も理想も一発の銃弾で消し飛ぶ。俺はそんな儚くて眼に見えないものに縋ることはできない。
アリサはうなずいた。
じゃあ。――元気でな。
あんたこそ。
後で会おう、と老人は呼びかけてきた。そっちの用事が済んだら酒場で一杯やろうや。
別に好いけど胸糞悪い話は止めてよね。街の外でも聞かされたらたまらないよ。
努力しよう。
廃教会にたどり着いたアリサは少女の姿を探した。彼女は崩れかけた部屋に独りきりで善き本を読んでいた。すり減って表紙の文字が判別できないほど読み返された一冊。陽に焼けた紙から立ち昇る古本の匂い。アリサの姿を認めると少女は長い髪を振り乱して立ち上がった。
ご無事だったんですね。本当に好かった。
彼女はこちらの姿を認めたときすでに涙ぐんでいた。アリサは彼女の顔を直視できずに視線をそむけた。そして丸机の上に父親の割れた頭蓋骨を包んだ布とロザリオを置いた。少女はロザリオを手に取り胸に押しあてた。
間違いありません。父のものです。ああ……。
彼女は首を振った。頭蓋骨には手を触れなかった。アリサに向き直り頭を下げた。
ありがとうございました。どれだけ感謝してもしたりません。こちらは僅かばかりですが。
報酬を差し出そうとしてきた少女の手をアリサは押し返した。
これは受け取れない。
どうしてです。
どうしてもだ。
彼女はアリサをじっと見た。――何か、あったんですね。
いつもと同じだよ。殺して、奪って。悪臭を我慢して。なんとか無事に帰ってくる。それの繰り返しだよ。
部屋の窓から差した月明かりが開かれたままの善き本の頁を照らしていた。それは書かれた文字を中空に浮かび上がらせようとしているかのように見えた。少女が歩み寄ってきてアリサの右手を包みこむように両手で握り胸の高さまで持ち上げた。
神様があなたをお赦しにならなくても私はあなたを赦します。私にその資格があるのなら。
私を赦すって。人殺しで強盗だよ。それは変わらない。どれだけかっこつけたって弱い人間だ。結局のところ私は連中と同じなんだ。あの街をむちゃくちゃにした軍隊と同じ。あの街で我が物顔にのさばっている略奪者と同じ。殺して奪うことでしか自分を保てないんだ。
少女が手を放してその腕をアリサの背中に回した。彼女のまとった血肉の臭いも気にすることはせず。何のためらいもなく抱きしめてきた。廃教会の少女はそれ以上は何も云わなかった。アリサはされるがままにしていた。ただ月に淡く照らされた善き本の一節に眼を落としていた。
◇
翌朝になってアリサが集落を去るとき老スカベンジャーが見送りにきてくれた。アリサは二輪車にまたがりながら彼の飄々とした笑顔にぎこちない笑みを返した。彼はもうしばらくここに滞在するようだった。
老人は云う。ここはまだ組合の影響が強いせいかくず鉄拾いへの風当たりもそう悪くないからな。何より酒が美味い。
そっか。私はひと処に留まるのが苦手だから。これでお別れだね。
またどこかで会えると好いな。
そうだね。
おや。えらく素直じゃないか。
そうかな。
ああ。
……ねえ。
なんだい。
私たちは本当に奪うことしかできないのかな。
さあな。老いぼれの考えが手がかりになれば好いんだが。――私の云いたいのは本当に分け隔てなく与えることができるのはそれこそ神様だけってことだよ。私たちがある集団から奪っているのは確かだがそれを通して他の者たちに与えてやっているのもまた確かなことだ。結局のところ人間なんだからね。無から有を生み出すことはできない。それはスカベンジャーだけの話じゃないしこの星にへばりついているすべての人間が結局は何かを奪っているんだ。そしてそれは人間に限らず他の生き物だってそうだ。大なり小なりみんなスカベンジャーだよ。だが街に棲んでいるああした連中を殺して物資を奪いもっと真っ当な人間、――たとえばこの集落で暮らしている人びとに与えることが果たして正しいことなのかと訊かれると私にも分からん。お前さんの父親ならなんて答えていただろうね。
分からない。まだ決めつけたくないんだ。
そうだな。
さよなら。
ああ。さよなら。
二輪車を低速で走らせ続け集落の出口に差しかかったとき廃車に乗りこんで遊んでいる子供たちを見つけた。先日も観た光景だった。アリサは二輪車を止めて大地に片足をつけた。そして上空を旋回している禿鷲に視線を向けた。青空をさえぎる猛禽の黒い影。その不吉ながらも雄大で自由な姿。太陽の光を遮りながら翼を広げたその生き物もまた世界の成り立ちに古くから関わっていてそこには善も悪も存在せずただ命だけがはるか上空を何千年という月日に渡って流れ去っていくのだった。
アリサは二輪車から降りて子供たちに声をかけた。そして街から回収してきた缶詰をひとつリュックから取り出すと前に進み出てきた子供のひとりに手渡した。温めて食べると好い。みんなちゃんと仲好く分けて食べるんだよ。
子供たちはうなずいた。
ありがとう。お姉ちゃん。
どういたしまして。
アリサはそう応えて二輪車に再びまたがった。そしてひと吹きの砂塵を残しながら集落を後にした。
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