Ep.50-2 変わりゆく未来 

       ◇◆◇


 朝、目を覚ますたび、変化のない日常に安心する。


 窓の向こうから窺える新緑の街路樹の群れ。

 音の波となり心地良く鼓膜を打つ小鳥の囀り。

 分厚い推理小説が真っ先に飛び込んでくる本棚。 


 。 


 時刻は六時三十三分。珍しく随分と早起きなようだった……。未だに冷めきってはいない朦朧とした頭を揺らし、緩慢な動作で身を起こす。目覚まし時計の予約を切ってベッドから這い出た。


 ……土曜日の朝。

 休みというには中途半端で、勉強するにはだらけ過ぎた、狭間の時間。

 今日は午前だけ授業で、午後からは休み。科目はⅡB、古文、体育、物理。

 三限目に憂鬱を感じながらも、一週間の授業の終りが物理というのは嬉しい。

 

 一か月前、私はある学問と運命的な出逢いをした。

 その名は量子力学りょうしりきがく

 箱の中の猫とかラプラスの悪魔とかの、思考実験で有名なアレだ。

 物理は元々好きだったが、それまでの私はどちらかというと点取り虫的に「テストで良い点が取れるから好き」という程度の「好き」で、夢中になれるかどうかと言われるとそうでもなかった。


 量子力学。世界を学問。私たちが生きる「この世界」とは別の世界があって、それは波動関数が時間発展するたびに、あるいは巨視的な観測が行われるたびにその様相を変えてゆく……。

 勿論それは大袈裟な言い分で、コペンハーゲン解釈とか多世界理論とか隠れた変数理論とかGRW理論とかによって捉え方は細かに相違があるのだけれど(私もまだよく理解できていない)、その謎めいた魅力と奥深い観念に、私はすっかり取り憑かれてしまったわけなのだった……。


 アインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルク、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ノイマン、エヴェレット……。

 量子力学を巡る言説は絶え間なく変化し、流転し、その度に新たな矛盾を産み、また更に高度化され、世界の謎へと肉薄していく……。

 よほどのSFやミステリより面白い。

 なんて、なんだかワクワクしないだろうか……。


 目玉焼きを作りながら、様々な世界の可能性に思いを馳せてみる。   

 もしも今日、早起きできずにいつも通りに目を覚ましていたら?

 もしも昨日、課題を放置してメールも無視して寝落ちしてしまったら?

 もしも……五年前、家族がドライブへ行くとき、私も熱で寝込まずに一緒に……。


 勿論、私は「有り得ない」ことなら決して想像したりはしない。論拠のない妄想に時間を費やせるほど暇ではないのだから。けれどある種の理論においては、こう考えることも出来る。即ち、違う世界。という事実……。違う観測、違う意思決定がなされた世界では、「そうある」私も確かにいたのだと……。たとえお互いに意思疎通が出来ないのだとしても……どちらからも観測できないのだとしても……。慰めになるかどうかは自分でも解らないが、そう考えると少しだけ気持ちが和らいだ。


 カバンの中身をチェックし、放課後に備えていくつか多めに飲み物を持参し、刺繍の解れたハンカチを取り換えた。登校までの間はリビングで積んでいる長編推理小説を読んだ。死んだはずの女の子が実は解決編で生きていた……。時間を確認するために付けていた朝のニュース速報では、行方不明事件を大枠で扱っていた……。ココアは分量を少し失敗してカップの底にだまになってしまい、目玉焼きは端の方を少し焦がしてしまった……。こんなことは滅多にないのに、どうしたのだろう……。トーストだけはいつもと変わらぬキツネ色で、私に朝の訪れを元気よく告げていた。


 。崩壊の軋みなんて微塵も感じさせない、穏やかな日々の一ページ。今後何かが起こるのだとしても、少なくとも……この時点で、私はまだ、そのように思っている。


 玄関のドアに向かった。真鍮製のノブに手をかけ、少し悩む。

 たとえば私が悪いコで、今日の半日授業を丸ごとサボるとするとしよう。

 その場合、ドアノブに掛けた手がになっているというわけだ。


 たとえば私が、今夜の生徒会の茶話会に……。


 くすりと少しだけ笑って、ドアノブに力を籠め、外へと踏み出した。


 不意に。

 側頭部が。

 ずきりと。

 痛んだ。

 

 一日が始まる。


       ◆◇◆



 授業が終わり生徒会の職務が片付いた後、そのまま霧崎先輩の自宅へお邪魔する予定になっていたので、二年組三人で先輩の家へ向かおうとしたのだけれど、


「ウチ、部活の先輩から呼び出し食らってん。あんたら、悪ぃけど先行っといて」


 会計の沢渡さわたり鶫未つぐみさんはいつも通りに言いたいことだけ言って、生徒会室を出て行ってしまった。会室の机上には買い出しのペットボトルが何本かと個包装のお菓子が残された。私は取り残された飲み物とお菓子をかばんに詰め、庶務の雪城ゆきしろ可菜かなさんと連れ立って、霧崎道流先輩の家へと赴く運びとなった。


 学院では、とにかく規律が厳しい。拘束なのか校則なのか分からないほど、生徒の行動の自由は制限されている。生徒同士は基本的には苗字+名前+さんで呼ぶこと。従って綽名あだなの類いは全面的に却下。制服の裾を折ったりスカートを短くしては駄目。髪を巻いては駄目。異性との交際禁止。敷地内での携帯電話の使用禁止。その他諸々、禁則事項の羅列。これに加えて寮生は夜間の外出も、帰省でさえも長期休暇のときを除き禁止というのだから、おかしくなる生徒が……失踪する人がいても無理はないなと思う。

 まあ大体の人は隠れて破っているのだけれど、発覚すると大目玉だ。何人かそれで居づらくなって中退した子もいるとかなんとか。


 由緒ある進学校の矜持なのかは知らないが、最近は受ける大学でさえもある程度指定されるというのだから驚きだ。自由意志とは「異なる選択肢を選ぶことが出来た可能性」らしいけれど、そうだとするのならば私たちに自由意志なんてない。


「昨日ね、市民ホールでマジックを見てきたの。凄かったよ」

 並んで歩いていて、唐突に、横の雪城さんが口を開いた。

 ああそうか、雪城さんは奇術部だったっけな……。

 大人しそうな雰囲気で、人を驚かせるのが好きなのかも。

「ああ、やってたね、そういうの。誰かと行ったの?」

「カレシと」何ら悪びれることもなく彼女は言った。

「え、そうなの」

 ……声が上ずった。

「そんなに驚く事?」

 雪城さんは不審げに言って見せたあと、

「三神さんてさ……

 

 あんまり喋らないよね。中学の時からそうだった」

「あ、うん。そうかもしれない」

 雪城さんがこちらを見る。眼が猫のように光って見える。

「自分の世界に閉じ籠っていれば満足?」

「え?」

「自分だけが特別だって思ってる?」

 雪城さんが私の顔を覗き込む。

「質問の意味が、よくわからないよ……」

 まただ。蟀谷の辺りに、疼痛が走る……。

「あなたは特別じゃない。特別でも何でもないの」

「わかってるよ、そんなことはわかってる……」

「ううん、分かってない。だからいつもそうやって……」

「私は何もしてない! 何もしてない!」

「…………」

「何もしてないから、あなたは――――」

 頭痛が消えた。

 

「三神さんてさ……? 処女?」

「え……そうだけど」

 慌てて返答する。また声が一段と上ずった。挙動不審に思われたかもしれない。 

 それに、気のせいかもしれないけど、今、会話が少し飛んでいた、ような……。

 それに、気のせいかもしれないけど、こんな話、前にも誰かとしたような……。


 ……い 麻 亜ちゃん、お  の と付き合 たこと いし、わた  気持ち んてわ らな でしょ ?


「……早く捨てちゃいなよ。大学入ってから馬鹿にされるよ。てか今どき高二で処女とかダサいって」

 もう今の時点で思いきり馬鹿にされてますけど他ならぬ貴女に。

「……そうかもね」

 なるほど、こういう子か……。

 自分がイケてないと理解しつつも自分より下と見做した相手にはマウントを取り憂さ晴らし気弱そうに見えて実は内弁慶で仲間内には強い言葉を使うそれでいて一定の弱さを保つことも忘れない。

 人は見かけによらないな……。

 そんなことを漠然と考えていた。

「最近、この街で失踪している子、よくいるじゃない。ああいう子たちってね、援助交際とかで、生計立ててるんだって。妊娠したりして揉めたりしてヤバくなっちゃったのかもね。みんな噂してる……」

 みんなって誰……。

 みんな恋愛してるの?

 みんな……私の知らないところで……。

 世界は、私の知らないところで、人知れず動いている……。

 そう思い掛けて、駅のロータリーで固く手を繋いで佇むカップルを見つけ、思考を挫かれた。

 あれは確か、隣のクラスの法条ほうじょう結花ゆかさん……。これまで何度か話したことはあるけれど、恋人いたんだ……。あれ、他校の男子生徒かな……。


 何か、が……。それに、も……。なんだろう、今日は何故か、意識が覚束ないような……何か得られぬことが、私の知らないところで進められているような、奇妙な感触……。


 夕暮れの街を並んで歩きだした法条さんの背中が、遠くに消えていった。


 私の知らないところで、世界みんなは着々と進んでいるんだなぁ……。

 そんなことを想った。

 思っただけ、だった。

 結局、有効な話題は振れず、延々と雪城さんの惚気話を聴かされ続ける羽目になった……。


       ◆

 

 霧崎先輩の家の通りに、着いた。もう数十メートルで目的地だ。

 内心少なからず苛立っていたので、少し意地悪く、私は予てからの疑問を口にしてみた。

「そういえば、この前さ、沢渡さんと会長の話題で盛り上がってたけど、雪城さんも霧崎先輩のコト好きなの?」

 雪城さんは暫し呆気にとられた顔をしていたが、

「やだぁ。あんなの真に受けるの? 同性とかないから。本気で女の人好きになるわけないじゃん」

 雪城さんは私の言葉に、あくまで乾いた笑いを寄越した。その笑いは反響し、門扉の向こうまで届いた気がした。何故だかそれが、途轍もなく不穏なことのように感じてならなかった……。


 雪城さんがインターホンを押している。

「…………」

 ふと何のけなしに振り返ると、舗装されたタイルが夕陽を強く反射して、私の眼下を刺し貫いた。頭痛と眩暈が、より酷くなったような気がした……。

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