四十九節 「辻褄」

Ep.49-1 七月二十四日・美桜市民ホール(再)

       ★ 


 初めに聞こえたものは――喧騒。


 懐かしくて、恥ずかしいような、そんな人波の胎動。


 人いきれが酷くて、思わず小さくせき込んだ。


 場所自体は、すぐにわかった。先ほどまでいたのと寸分たがわぬはずの、美桜市民ホール。雪のホールの観客席だ。人でごった返し、満員御礼のようだった。


 舞台の脇に設えられた時計の針は、午後四時三十三分を指し示している。

 時計の針は一瞬、ずっと止まっているかのように見えたが、漸く動き始めた。

 三つ隣の席に、戸惑うような、呆けた表情で佇む皐月が座っていた。

 ……頬をつねってみる。  

 どうやら、死後の世界ではなさそうだった。

 

 舞台の上ではマジックショーが行われていた。胸元を大きく露出させた若い女性がシルクハットの中から鳩を出すお馴染みの奇術で観客を沸かせている。『黎明魔術団』という名の奇術団が、巡回公演をしているようだった。僕はもう一度、深く息を吸い込んで、隣の席に座っていた女性に声をかける。


「すいません……今日って、でしたっけ?」

 ナンパかと勘違いしたのか、女性は怪訝そうにしていたが、

、ですけど……」


 遡行は成功したようだった。


 どんな仕組みなのかは解らない。しぐれが観ている、観ていたはずの認識の一部に僕たちが混じり合っているのかもしれない。不安定で、不完全なことだけが確かだ。

「……ありがとうございます」僕は女性に短く礼を言い、皐月に目で合図を送って、雪のホールから人知れず静かに退出した。喝采は暫く鳴りやまず、僕たち二人の存在など意に介さないようだった。


 外の様子は、何も変わらなかった。僕たちのいた世界とは別の世界のようには、思えなかった。湖面や空や野山の鮮やかな色もある。噎せ香るような夏の木々の匂いも、跳ね橋を通過していく色とりどりの車も、夕陽を鋭く反射するアスファルトも、ある。けれどその全てが眩しく、まるで初めて目にしたかのように新鮮なもののように感じられた。


 僕たちは……んだ……まだゲームが開催される前の世界、一か月前、に……。


 未だ実感が伴わない。ふらふらと覚束ない足取りで、僕と皐月は橋を渡り終え、湖畔から市民ホールを眺めた。


「もう長いこと、夢を見ているような気がするよ」

 僕は独り言のように呟いた。

「奇遇ですね。本当に、これが夢であってくれたらどんなにいいか……。もう、悪魔たちもいない。何もかもがまっさらな世界に投げ出された方が、よっぽどいい……」


 俯いて、呟く皐月の顔に浮かぶ憔悴の色は濃い。

 朱鷺山しぐれは死んだ。僕たちを、過去へと送り込むために寿命を全て使い切るまで権能を利用し、死んだ。皐月がしぐれと密かに同盟を結び、僕たちを裏切らせ……その信頼の獲得に要した労力、彼女へと寄せていた想いの多寡、そんなものは僕の想像の及ばぬところだけれど、言葉少なに夕暮れの湖畔に佇む彼の姿を見ただけで、今しがた大切なモノを失くしたばかりの人間なのだ、ということは伝わってきた。


「……つまらないいさかいをしている暇はなさそうだ」


 僕は後方の山並みを指差す。僕たちが以前、かつてない混戦を繰り広げた宇宙センターが、逆光の中に浮かび上がり、シルエットを際立たせている。奇妙な、蜃気楼めいた、現実感の伴わない光景だった。

 いくらか眺めて、皐月も気付いたようだった。


「何も物音が……しませんね。装置の稼働音も、あの一帯だけ、まるで時間が止まっているみたいに……」


「そうだろうね。きっとまだ、新しい世界にんだ。僕たちと同じように」


「いやに詩的なことを言うんですね」


「……誰かしらの影響かな」


 僕は改めて、皐月の方を見た。



 皐月は確かめるように頷き、僕の方を真っ直ぐに見た。


「だけど今は、それどころじゃない。もう、一刻の猶予だって、ないんだ」

 僕は言う。

 僕たちが、やるんだと。

 救われる側から、救う側に。

 選ばれる側から、選ぶ側に。

 もう、誰かの運命とやらに翻弄されるのはうんざりだ。

「僕らの世界では、八月二十五日の午後六時に世界は終わるはずだった。みかげはそれを前倒しした。だから、、きっとまだ、時間は残っているんだ」


「根拠はない、ですよね?」


「ないよ、そんなものは。そんなものに今まで、意味があったかい?」 


「……愚問でしたね、今のは。忘れてください。……全く同意見です。もう傍観者でいるのは、懲り懲りですよ」


「幸いなことに、タイムリミットが設定されているからね。

 今回ばかりは、傍観者ではいられない。紛れもない僕たちこそが、当事者だ」


 皐月には言わなかったけれど、いや、今の今までずっと誰にも言わなかったけれど、僕には、切り札がある。最後の最後にしか使えない、とっておきの手段が。


 僕たちが最後に前の世界にいたのが、八月二十三日の明朝。二十五日の世界の終りまでの猶予は、多く見積もっても二日半だ。遡行の時間のずれを考えれば、もっと短くなるかもしれない。二日か、それよりちょっと多いくらいか。


 どちらにしろ、遺された時間は少ない。きっと、あとほんのわずか。


 だからこそ――――


 逃げるのは、もう、お終いだ。


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