Ep.48-2 時の狭間で眠って
◆
覚悟なんてものはなかった。大体、しぐれの言うとおりに上手くいく保障なんてものは何処にもない。全ては彼女任せだ。けれど、僕は頷いた。皐月も頷いた。恐怖と絶望に竦み何もせず、ただその時を待つよりも、何かしらの行動を起こした方が効果的との、打算的な目論見も、少なからずあった。ただそれだけの、だが、それだけに価値のある選択だった。
「行くのか、君たちは」
溜め息交じりに、窘めるような声が背後から響いた。
「話は聞いていたが、どうなるのか分かったものではないぞ」
ホールの入り口辺りに、人影が二人。
紗希さんと、天城真琴。
「この世界に残っていた方が、まだ見なくてもいいものを見ず、安穏とした最期を迎えられるかもしれない。地獄の窯を自分で開くのか、君たちは?」
こちらを見据える紗希さんに、以前のような説教臭さはない。純然と、僕たち三人のことを慮ってくれているのが伝わる。それゆえに、反論の糸口を掴みにくかった。
射竦められるような視線に沈黙を保っていた二人の代わりに、僕は答えた。
「この世界は……崩壊寸前の箱庭です。確かに安定はしているかもしれないけれど、もうすぐ終わってしまう、なくなってしまう、仮初の世界なんです」
残酷な言い方かもしれない。それでも、僕には、僕のような人間には、このような答えこそが合っている気がする。
「それでも、」
天城真琴は、僕と奇妙な運命で結びついた青年は言った。
「僕たちはここに残りますよ。僕たちはこの世界で生まれました。陳腐な言い方だけれど、僕はこの世界に愛着を持ってます。僕にとっての本物の世界は後にも先にもこの世界だけです。それに……たとえ滅びゆく世界でも、最後まで何か出来ることがあるはずです」
これから死にゆこうとしている者の言葉とは思えない、使命感に満ちた、生きる力に溢れた、そんな言葉だった。
彼の言葉に、慰めや同情なんて感傷は不要だ。僕は口を噤もうとして…………あることに気付いた。
気休めにしかならないかもしれない。それでも、一つの可能性として、彼に言っておかねばならなかった。
「もし、向こうの世界で麻里亜に会うことがあったら、何か伝えておいた方が良いことはあるかい?」
天城真琴は暫し呆気に取られていたが、少しだけ俯いて、それから悲しそうに微笑んで、
「……何も伝えないでください。何も」
意外だった。
彼のことだから、何か気の利いた言伝を残すかと思ったのに。
「こう見えて僕は、自分の気持ちには自分で責任を持ちたい方でしてね。この世界に彼女は、もういないんです。どんなによく似ていても、「三神麻里亜」という女の子への思いは、悲しいけれど、終わってしまったことなんです。だから何も言わないでください。向こうの世界に僕がいても何も伝えないで下さい。僕はそのままでいい。
それに、ライバルに水をあけられて、敵に塩を送られて素直に喜べるほど、僕は、まだ大人じゃないんですよ」
天城は言った。くすりともしなかった。
「そっか……わかった」
それは。その言葉は。
いつまでも過去に囚われている僕にとっては、見習いたいくらい潔い言葉だった。
紗希さんは天城を引き連れ、「では」と小さく別れを告げて、去っていった。
◆
静寂の薄暗闇に包まれた雪のホールには、僕たち三人だけが残された。こうしている間にも、世界は終わりゆこうとしている。灯りが消えた。舞台の上の装飾ライトも、外の朝日も、舞台の幕を揺らしていた微風も、次第に消えていった。
「あのさ、俺たちのこと忘れてねえか? 一応、さっきからずっといたんだけど」
「しょうがないですよ。所詮は脇役ですからね。最後の方はあまり口を開く機会にも恵まれませんでしたし」
不意に、二つ、声がした。
二体の悪魔。特別で、それゆえに因果とは何処か切り離された、超越的な存在。
アイオーン。マリヤ。
如月皐月と、他ならぬ僕の悪魔。
「そんじゃ、まあ、俺たちともお別れだな。
知ってたか?
悪魔は契約者を攻撃できないが、実は人間が権能が及ぼす効果範囲に悪魔を含むことは出来る。悪魔に反目された時にでも用いるための、人間に対する一応の救済措置だな。けどな、能力の共有化まで行くとそれは看過し得ない。
俺たちは、
向こうの世界にまではいけない。
残念ながら、舞台からはここでオサラバだな」
饒舌な彼とは対照的に、彼女は終始無言だった。
マリヤ。三神麻里亜の影。僕の悪魔。
「君とはあまり、話せなかったね」
僕は言った。
「それでいいのだと、思いますよ」
彼女は言った。
「どうして?」
僕は訊いた。
「その分、他の人とたくさん、話したじゃないですか」
彼女は答えた。
「そうだね。……その通りだ」
僕は目を伏せ、それから見たくはなかったけれど、一晩殴り合った彼の方を見た。
「君にも、お礼を言っておくよ。君と殴り合ったおかげで、少し目が覚めた。人の本来的自己の覚醒、なんて大仰な文句は伊達じゃないね。少しだけ、自分のことが分かった気がしたよ」
「……そっか。そりゃあ良かった」
別れはいつも、あっさりとして、再会の予感なんて残さないくらいの方が、良いのかもしれない。なんとなく、そう思った。
◆
「……じゃあ、始めるよ」
そうして彼女の最期の反撃は始まった。
僕たちの反抗は始まった。
この過酷なゲームを最終局面まで生き延びた三人の、この世界最期の悪あがきが。
視界の切れ端を、次から次へと景色が過ぎ去っていった。フィルムを逆回しするように、過去の光景が未来へと遠ざかっていく。もうけして追うことは出来ない。
次第に、目に見える形で、変化は起き始めた。
「時計仕掛けの少女」。強すぎる力の代償。テロメアの消滅。寿命の摩耗。
「私たち三人でって、言ったじゃないですか……? 嘘をついたんですか、あなたは。能力の代償が寿命だなんて、今初めて聞きましたよ」
朱鷺山しぐれの身体は、
「言ってなかったっけ? 私、嘘つきなんだ」
もう、
「時と場合があるでしょう。どうして先に言わないんですか……」
—―――人としての原型を留めていなかった。組織が溶け始め、関節や筋繊維が肌の間から醜く露出し、どろどろと濁った液体を身体から噴き出して――死にゆこうとしていた。今度こそ、完膚なきまでに――――朽ち果てようとしていた。
僕に涙を流せるだけの余裕はない。葉月を殺した彼女に対し抱いているのは怒りや憎しみであるべきで、憐憫ではない。でも、彼は違うはずだ。
「ねえ……皐月。私、役に立った? この戦いで、ほんの少しでも、あなたの……役に立てた?」
彼は答えなかった。ただ体を震わせて、全身で気持ちを押し殺すように泣いていた。爛れて、溶けて、ぐにゃぐにゃに折れ曲がった身体を抱いて、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「なんで。どうして……ここまでする必要なんて、どこにも。どこにも……」
掠れた声で、
「私を必要として、くれたから」
そう……言っているように聞こえた。
「頑張ってね」
終わりゆく世界で最後に聞いた言葉は、最後まで残った嘗ての仲間からの、心からの励ましだった。
❖
ああ……そうだったんだね。
他者へ何かを受け渡すということ。
未来へ何かを託すということ。
こんな気持ち、だったんだね。
私だけじゃない。
皆、弱かったんだ……
自分の無力さを受け入れて、いや請けいられられなくても、
生きていて、良かったんだ。
自分の中の一番深いところ、芯が温まるような、
そんな照れくさいような、嬉しいような、
初めてお母さんに褒められた時のような、
そんな、くすぐったい気持ちでした。
朱鷺山しぐれは眠りに就いた。夢はもう、観る必要がなかった。
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