第七章 「朱鷺山しぐれ、その存在理由」
四十七節 「遡行」
Ep.47-1 絶望からのスタート
一筋の光でさえも通さないような黒い緞帳が降りていき、舞台を徐々に観客席から覆い隠した。左右の硝子窓から差し込む長い夜明けの光も既に厚い闇に遮られ、行き場を失くしたように舞台袖で揺らめいている。心に浮かび上がるのは、人として過ごした今日までの日々。残酷な、それでいてどこか奇跡のような恩寵で続いた、何故か今日という日まで続いてしまった、もう過去という言葉で括られてしまった日々。
失ったものは数えきれない。
もう数えるのでさえも億劫だ。
僕は最初から、わかっていたのかもしれない。ちゃんと理解していて、最後の最後まで、つまりは今日という日まで、気付かないようにしてきたのかもしれない。
最後に生き残るのは一人。
ただ、一人だけ。
その事実。あまりにも自明で、だからこそずっと避けようとしてきた、終わり。
如月葉月。
もういない彼女。
今から思えば、そんなことを今更考えてもどうにもならないけれど、彼女だって、本当はわかっていたはずだ。舞台上で今まさにみかげに何かをされている少女だって、僕のすぐ近くに座っている葉月を殺した少年だって、分かっていたに違いない。
僕たちは誰かの紡ぐ劇場の中にいる。その中で藻掻いている。
用意された解も、絶対的な審理も与えられはしない、透明な檻の中で。
皆、最後にはいなくなる。誰もかれもが終わる。消えてなくなる。
たとえば葉月。
皐月が「いない」とは言ったけど、「死んだ」とは一言も言わなかった。無意識のものなのかもしれないけれど、彼女は、本当は分かっていたのかもしれない。
分かっていて、黙っていたのかもしれない。
これまで僕が逃避してきたのとは違って、ずっと前からその事実に気付いて、それで黙っていたのかもしれない。最後まで胸に秘めて、皐月に殺されることで、止められることで、確かめたかったのかもしれない。彼女の中にずっと蟠っていた、決して治癒できない、勿論僕では到底受け止められないような、黒い部分を。
横で徐に、皐月が立ち上がった。
「なにか……様子が、変です」
怪訝そうに前方を眺める。独り言にしては、警戒の色が強く含まれていた。僕も、視線を前にやった。
緞帳が再び上がっていく。舞台の上には二人の少女。何も変わっていない、ように……いや。
その違いは決定的だった。あまりにも異なっていて明白だったから、ほんの数瞬の間、僕は気付けなかった。何が起きているのかを、何が起こってしまったのかを。
「ふう……。今回も無事、依り代としての役目を果たしてくれたね、朱鷺山しぐれ」
そう呟くのは赤毛の少女。何処か臆病そうな、気弱な少女。
彼女の隣で呆然と自らの身体を眺めているのは、黒衣に白髪の、枯れ木のようにやせ細った少女。僕たちが「八代みかげ」と呼んでいた、神……。
二人の立ち位置がまるっきり逆になってしまっている。
「このまま何も知らずに終わるのは可哀想だからね。観客の君たちにも、少し真実を教えてやろう。ああ勘違いするなよ。これはさっきみたいな勝ち名乗りじゃない」
みかげは言葉を切り、大きく手を広げ、舞台の上を歩いた。
「ボクは、かつて朱鷺山しぐれという名前の少女だった。そこで惨めに蹲っている、負け犬根性丸出しで劣等感が服を着て歩いているような女。環境や性格に多少の違いはあれど……ボクは援助交際とかしてないしね……まあその事実に変わりはない」
僕たちは黙って聞いていた。
「たとえば人間は、何かと優劣をつけるのが好きだよね。テストの点数。友人の質。恋人の有無。年収や学歴、出身地、経験人数、エトセトラ、エトセトラ。他者と比較し、自分を位置づけることで、自我を形成しているのは間違いがないよね。資本主義社会に生きている以上、他者との競争こそが、根本原理で存在意義の一部だよね」
異論はあるかい? というように、観客席の方をみやる彼女。
……似たようなことは、僕もかつて悪魔だった頃、麻里亜に言ったことがある。反論の余地は、極めて少なかった。事実、それはある種の真理の一部ではあるのだから。この神を決める戦いを問わず、実生活でも、実社会でも。
「さて、ここに丁度いいことに「もう一人の自分」、別の世界で暮らす自分がいる。それを都合よく、たとえば自分の延命のために、よりよい自分を創るために役立てるというのは、間違っているだろうか?」
狡猾な目つきで、此方を眺める少女の声音には、かつてのような怯えや竦みはない。ただ、澱みきった瞳で、何かを憂えるような表情で、滔々と言葉を紡ぎ続ける。
「そうですか……。あなたは、神を選びたかったんじゃない。神を選ぶ戦いの過程で、自分自身を、朱鷺山しぐれを勝ち残らせたかったのですね。他ならぬあなたがその身体を奪い、よりよい
「理解が早くて助かるよ。流石は「この」朱鷺山しぐれの元恋人だね。恋人ってか、セフレ? まあ、呼び方は何でも良いか。実際には利用していただけなのだろ?」
「まあ、否定はできませんね」
皐月の冷淡な言葉に、舞台上のしぐれ……いや、みかげは身体を震わせる。彼女にしてみれば、凡そ救いのない結末だろう。自らの身体を奪われ、襤褸雑巾のような肉体を押し付けられ、仲間に利用され……。彼女には一体、何が残っているのだろう。
僕はこんなにも、冷淡な思考の持ち主だったっけか……。目の前の現実をどこまでも冷徹に、透徹に見つめる視線はまるで、僕を救ってくれた彼女のような……。
「ここからが本題だ。まあ、もう君たち二人なら、分かっていることだろうけどね」
朱鷺山しぐれの身体を乗っ取った八代みかげは言葉を切り、
「ボクはもう、この世界でも目的を果たした。だから、」
その先は聞かされなくても分かっていた。
「お前たちはもう、この世界はもう、終わりだ」
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