Epilogue-Ⅱ lovely sweet home.
「いってらっしゃーい」
妻の葉月は明るくて可愛くてお淑やかで活動的でちょっと天然で明るくて可愛い。
ちょっと愛妻家が過ぎるかな。
でも、僕にとっては理想の女性だ。
下世話な話で恐縮だけれども、夜の相性もいい。
満ち足りた毎日。
これで勤め先の上司の愚痴や出たくもない飲みに付き合わされなければ言うことなしなのだけれど、望み過ぎは不幸の許だ。……それだけは忘れてはならない。
「浮気とかしちゃダメだからねっ」
微笑ましい会話。短いキスの応酬。当たり前のように、続いていく毎日。
葉月の笑顔と振っている手が路地の角に飲まれて消える。
明日からは遠くへ出張だ。知り合いもいなければ行ったこともない街なので、少し緊張している。
少しだけ憂鬱な心持で、電信柱の林の中を新幹線の駅へと歩き始めた。
十歳くらいの利発そうな赤毛の少女が、大人しそうな少年の手を引いて、勢いよく駆けていく。
これが制服を着た中高生とかだと、否応なしに過去の遺恨を突き付けられているようで腹立たしくもなるのだけれど、この二人の場合、可愛らしい、微笑ましいお似合いのカップルだった。
昔から、何でも程よくこなす方だった。ずば抜けて出来るわけでもないが、けして劣っているわけではない。人間関係も無難にこなし、それ相応の位置を確保する。
でも、ただ、それだけ。器用貧乏の典型だ。ずば抜けた何かは、僕にはない。昔はそれが手酷いコンプレックスで、わざとおどけてみたりもしたのだけれど、今では抗う気力もない。
僕が物語の登場人物だったのなら、せいぜい可もなく不可もなくな脇役キャラがお似合いだろう。とてもじゃないが主人公に不可欠な高邁な自己犠牲の精神も、敵役に相応しい独特な美学も持ち合わせてはいないだろうから。
思春期の頃は、もっと言うと大学生のころまではこういった意識に縛られていて、変わらない自分を強引にでも変えたくて突然の進路変更や転部などもしたことがあったのだけれど、今は、まあ良いか。というような気さえしている。
まあ、こうやって少しずつでも、肯定していくしかないのだろうな……。
脇役には脇役なりの幸せがある。
新幹線に乗り込み、分厚い小説を広げた。昔に、年上の友人からもらったものだ。あまり好きな内容ではないのだけれど、何でも良いから読書がしたいとき、僕はいつもこれを読む……。ルース・レンデル『死がふたりを別つまで』。平たく言うなら、未来の幸せを掴むために、過去の不幸に決着をつける話だ。けして取っつきやすい本ではないけれど、哲学的な文体と、細やかなサプライズは何度読んでも趣がある。
もし迷惑でなければ、少しだけ昔話をしよう。所詮は脇役の過去だから、大した物語にはならないだろうけれど、少しでも耳を傾けてくれたのなら嬉しい。
高校二年生の夏。
最後の夏休み。
僕は、一月だけ恋をした。
「
ホテルですることをした後、僕らは喫茶店のカウンター席で並んで喋っていた。
「そんなことはないよ。普通に接してるだけだよ」
くすり、と彼女は小さく笑ってから、
「でもね、その優しさが私を苦しめるの」
最期にそう言い残してカウンター席から立ち上がり、喫茶店を出ていった。
締まっていくドアがスローモーションのように見えたのをよく覚えている。
彼女は奔放で、頼まれれば「仕方ないなあ」とでも言うように誰とでも寝た。別に恋多き少女というわけでもなさそうだったが、彼女が常に不特定多数の異性と交際しているのは周知の事実だった。
どうしてそんなことをするのかと訊ねてみたことがある。
彼女は少しの羞恥も見せず、
「私はね、出来るだけ多くの人の記憶に残りたいの」
と、言った。
すりガラスの向こうで、蜃気楼のように揺らめいては消える少女の幻影。それが、僕が彼女を見た最後だった。
二学期の始まり、九月一日。
彼女は駅のホームから飛んだ。
「もうこんな世界耐えられない」。
そんな言葉の欠片だけを遺して。
喧騒、人いきれ、人身事故を告げる駅のアナウンス、ひびの入った電車の無人運転席、赤黒い乾いた血液で化粧されたプラットホーム、携帯電話のカメラを翳して事故現場の撮影やSNSに勤しむ女子学生たち、下がるように指示する駅員の怒号、現場を覆い隠すように張り巡らされた不気味なまでに青い皺くちゃのビニールシート……。
「死んだのウチの学校の生徒ってマジ? どんな奴?」「すげぇヤリマンだったって。相手とっかえひっかえ」「勿体ねーなー。俺にやらせてくれりゃよかったのに」「酷い会話だな。人の死すらエンターテイメントかよ」「そう言ってるお前が一番楽しそうじゃん。不謹慎が」「あそこに散らばってるの、星野の脳味噌だって……」「あは。やっばー。グロすぎでしょ。写メ撮っとこう」「人身事故とかチョー迷惑。自宅で首でも吊ってろよ」「死ぬまで周りに迷惑掛けんなよなあ。本当最悪だわ」
動悸が荒くなる。彼ら彼女らの紡ギ呟ク言葉の意味が解らない。いや他人の考えていることが分カラナイ。どうしてこんなことになってしまったのか。あれから何が起こったのか。食べたばかりの朝食の中身が逆流しそうになる。これは今朝見た悪夢の続きだろうか。小説のような悪い夢の現実化だろうか。
乗り合わせていた友人と一緒にいつの間にか学校についていて、先生が感情を隠した声で彼女の自殺を告げていた。教室には好奇の目線と、形だけの悲しみが横溢していた……。ともすれば悲しむことでその場の雰囲気に合わせているような……。
「お前さぁ、ホシノと仲良かったよな?」
と、不意に思考を遮られた。大して仲も良くない野球部の補欠の男が僕の机の前にいた。正直鬱陶しかったが、僕は対応した。男は下卑た笑みを浮かべて、
「死んだ奴とやったのってどんな気分?」
気付くと僕は思いっきりそいつをぶん殴っていた。
人の噂も七十五日というが、それはあくまで昔の諺だ。情報化社会なんて陳腐なワードで表しきれないほど、僕たちを取り巻く世界は加速している。新しく発売されるゲームソフトに目前に差し迫った修学旅行の自由行動の行き先、誰と誰が付き合った付き合ってないやったやってないだの下世話なウワサ、大学受験の志望校、そういったものに呆気なく掻き消されてしまう。それすらもきっと長くは続かない。
結局、彼女のこの世界に対する最期の細やかな犯行もとい反抗は、わずか三日と持たず僕たちの教室の話題から消えた。僕の起こした騒動も、クラスメイトが自殺した情緒不安定からくる些細な場のトラブルとして処理された。
僕の心は凍てついてしまっていた。
彼女は結局、誰とでも寝る股の緩い女として記憶の奔流に流れて行ってしまった。そんなものだ。暴力的な切り抜きと曲解によって、きっと世界は成り立っているのだ。そうでなければやっていられない。
もう誰も彼女の話をしない。少なからず当事者である僕の記憶の中でさえも、ぼやけてきてしまっている。
同窓会では、今務めている会社や自分の年収、大学時代の思い出話、交際相手との今後の展望などが語られ、誰も、ずっと昔に同じ教室で机を並べていた股の緩い女の子の話はしない。それが悲劇なのか喜劇なのかは分からないが、これだけは言える。
過去は過去でしかない、と。起こってしまった事実も、事件も、誰にも変えることは出来ないと。
結局、過去は過去でしかないのだった。
とうの昔にやり過ごした感情でしかないのだった。
やはり僕は悲劇の主人公にも積年の因業に囚われた敵役にもなれそうにない。
生涯引き摺ることとなると思っていた障害も、克服……したかはどうかわからないが無事に恋愛をして結婚でき、幸せな生活を送っている。送ってしまっている。もう二度と恋愛などしないと決めていたのにこの様だ。罪深い男だ、ある種の意味では。
僕のような脇役は、平凡で、平静で、ほんの少しだけ起伏のある平然とした日々、それこそ何より尊いのだと思う。だって毎日が刺激に満ち溢れていたら疲れてしまうじゃないか。
鈍い音を立てながら、新幹線がホームへと着いた。仕事。お金。家庭。ローン。現実とやらが、覆い被さってくる。様々な鎖が、柵が、僕を強固に縛っている。だがそれすらも、今は心地良い。
「さて、今日も頑張りますか――」
内心でそう呟き、鞄を手繰り寄せ、車外へと出る。
僕は駅を足早に過ぎ去る。眩しい光に照らされたプラットホームには、夜の幻想が紛れ込む隙など何処にもなく、過ぎ去った彼女の幻影は、既に欠片もなかった。
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