終極にいたる四つの風景、もしくは再編世界の後日談
Epilogue-Ⅰ High and low act in Harmony.
「全く……何故私がこんな安月給の零細事務所などで働かねばならんのだ……」
男の口調には、小心者特有の怯えとわずかな虚勢、不釣り合いなプライドがのぞいて見えた。
「口を動かす前に手を動かせ、成瀬。税務署は待ってはくれないぞ」
男の前に堆く積まれたのは確定申告に関する書類の束の山である。それを次から次へと捌いていく。冴えない風体ながらその動作は機敏で、どこか獲物をしとめる直前の肉食獣のそれに似ていた。
「でも凄いですよ。成瀬のおっさんが来てから、マルチタスクな事務仕事が激減しましたし。案外、秘書とか向いているんじゃないですか?」
買ったばかりの眼鏡のフレーム位置をときおり直しながら、黒髪の青年は言った。背が高く、色白で、ともすればまだ学生と見間違えられてもおかしくはない新鮮さを湛えている。そんな外見でいて、在学中に司法試験に合格し、既に司法修習を終えてこの春から弁護士・法条暁が営むこの事務所へと就職した若手のホープなのである。
「ああ。成瀬は環境さえ整えてやれば意外に有能なんだ」
事務所の主、法条暁はおかしそうに言った。けして色恋沙汰的な意味ではないが、成瀬とは学生時代からの腐れ縁である。
「……本当意外でした。過度な期待はするなと法条さんに言われていたので、失礼ですけど、俺、てっきりもっと鈍い人間が来るものとばかり……」
「失礼な口を利くな、若造!」
成瀬は、眼鏡を目深にかけた黒髪の青年に吠えたてる。
「その口ぶりだと自分を若くないと認めた感が漂いますよ」
「クソ……。この、自分が学生結婚したからと言って、余裕を漂わせおって。聞いて驚け、私の学生時代はな……」
「ああ、こいつ意外に女にはもてたんだ」
機先を制するように、暁は成瀬が口にするはずの続きを言ってしまった。油揚げをさらう鳶でさえもう少し成瀬に優しいかもしれない。
「へえ、意外です」
事務所のドアが内側に開かれ、栗鼠のように小柄な女性……まだ中学生と言っても信じる人は信じるだろう……が入ってくる。腕にはランチボックスを抱えて、それを先月式を挙げたばかりの夫へと……青年へと渡す。
「毎度悪いね」
「良いよ別に。もう慣れたから~~」
「あ、今のなんか倦怠期っぽい」
「え、もう~~?」
端から見れば微笑ましい会話。だが小心者な成瀬には、幼い容姿の妻がときおり此方に視線を向け、やけに可愛らしく微笑む様子が、恐ろしく思えた。ひょっとして扉の向こうで、やり取りを聞かれていたのかもしれない。
「なあ、法条。前々から思っていたが、見た目の割に、いや見た目も相まって、少々圧が強すぎないか、君の妹……? 私は今、ある種の殺意を感じているのだが……」
「私の妹だからな」
何を自慢に思っているのか、法条暁は自分の妹を誇るように言った。遠い異国の王族らしき風格に、小心者な成瀬はまたか、というように溜息をつく。
「ああ……その一言でもう納得したよ」
成瀬は項垂れ、再び仕事に向かい始めた。
職場での人間関係や微細なトラブルからいくつかの職場を転々としたが、成瀬雅崇の今の職業は法条暁の営む弁護士事務所の税理士だ。納得はしていないしこれが天職であるとも思っていない。それでも、彼はこの職場で働き続けている。
「この分だとあれだな、もう少し分量を増やしても大丈夫そうだな」
成瀬の仕事ぶりを評価したのか、暁はこれまた可笑しそうに笑った。
「無茶を言うな! 私のプライベートはどうなる!」
「そんなもの、喫煙所にでも捨てておけ」
成瀬は法条を見る。良く笑うようになったな、と思った。昔から、どこか孤高で、近寄りがたい雰囲気を湛えていた、女。成瀬は決して法条に惹かれていたのではなかった。寧ろ反目していたし、目の上のたん瘤だとさえ思っていた。だがそんな彼でも、ここ数年、かつては修羅のようだった暁の表情が柔らかになってきたのには、どことない安心感を覚えていたのだった。
事務所のソファーに陣取って、微笑ましいトークを続ける若いカップルを見、成瀬は心が急速に冷えていくのを感じつつも、どこか得意になって、
「ふん、変化のない新婚の痴話には既に辟易しているのでな。私の話をしてやろう。聞いて驚け、今の私にはな……」
「ええ……そんな人いたんですか?」
困惑の表情を露にする小柄の女性にまた怯えを感じつつも、成瀬は続ける。
「……大切な女性がいる。今はバーの女給らしいが、とびきりの女性だ。何というのだろうな、醸し出してる雰囲気が違うのだよ。私の豊富な性遍歴でも感じ取れない、底知れない魅惑を感じたね……。最近はハヤカワとかいう大学生に言い寄られているようでな、濡れた瞳でこっそりと相談してきた。あれは絶対に私に気があるな」
「それ絶対
と、小柄な女性。
「個人の問題だしな。消費者金融とか行く前にこの事務所に相談してくださいよ」
と、商魂たくましい若手弁護士。
「……参考までに聞くが、その女、名前は何という?」
暁は怪訝そうに、成瀬へと尋ねる。
「
瞬間、空気が張り詰めた。成瀬以外の全員が全員、黙りこくり言葉の続きを探しているようだった。
「成瀬……悪い事は言わない。その女だけはやめておけ。お前の手には余る。これは以前みたいな助言じゃない。私からお前への、最初で最後の、心からの忠言だ」
法条暁は、真剣な表情で、どこまでも透徹とした怜悧な瞳で、旧来の友人へ言葉を贈った。
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