Ep.42-3 露と落ち、花と散る

 

 彼女は僕の目を真っ直ぐ見て、さみしそうに微笑む。失態を詫びているようにも、安心しているようにも思えた。


「痛いよ、苦しいよ……」

 身体を引き摺って、呻く。

 彼女は、懐に手を伸ばし、何かを取り出した。 


 

 悪魔ベリアルがはっと息をのんだ。これから契約者が何をするか、手に取るように分かったからだろう。

 やめてくれ、と懇願する間もなく、葉月は皐月へと手を伸ばす。

「もう耐えられない……お願い。これを燃やして」

 皐月は無言で頷いて、姉の手から魔導書を受け取った――――


       ▲  

 

 そのとき座席の合間から人影が躍り出て、皐月を強く殴打した。魔導書は床に取り落とされ、葉月の足元へ戻る。


 現れたのは紗希さんだった。

 彼女は舞台の上のしぐれを観止めると、目にも止まらぬ速さで銃を抜き発砲した。呆気にとられる間もなくしぐれの頭部が顎を残して吹き飛んで、舞台を汚した。 


 困惑の叫びをあげる皐月を組み伏せ、

「危ないところでしたね」

 と言ったのは天城真琴。

 相変わらず、登場の仕方が憎い。


「何をしている。身内とて容赦するな」

 紗希さんの窘めも、不意の救援の高揚には効果を得ない。驚きと感謝の気持ちで、僕は彼らを見つめた。


 あまりもの展開に言葉が出てこない。


「……まったく。また僕らが美味しいところを持って行ってしまったようだね」


 連城恭助。食えない奴だとは内心思っていたけれど、味方にするのなら法条やしぐれではなく最初から彼らのような人種が良かったのかもしれない。


 ありがとう、ありがとう、と僕は繰り返していた――――



       ▼


 ……ああ。今のは身勝手な僕の妄想だ。

 自己本位な僕の願望だ。

 そんなことはない。

 


 実際、皐月は葉月の魔導書を手に取るとすぐに裏ポケットから取り出したライターで火を点け床へと放った。その動作に躊躇はなく、救援が来る見込みなどなかった。


 彼女は僕の方を振り向き、 

 それからほんの一瞬だけ、

 儚げな笑みを滲ませて、 

「アマネくん……ありがとね。最後まで、あたしの側にいてくれて……、ありがと、ね……」


 薄れていく、彼女の姿。

 決して涙は見せなかった。

 だからこれは、きっと彼女の最後の強がり。


 さ……、よ……、な……、ら。


 口の動きだけで、彼女は言った。


 不意に、涙があふれた。頬を伝って、拭う間もなくそのまま落ちる。

 深夜の路地裏で僕を最初に見つけて揺り起こしてくれたとき。

 桜杜自然公園で同盟を組んだあと一緒に帰った帰り道のとき。

 畔上ビルで絶対の窮地に陥った彼女を救って切り抜けたとき。

 宇宙センターで久しぶりに会って互いの絆を深め合えたとき。 

 月の見える丘で明け方二人きりで気持ちを確かめ合ったとき。

 市民ホールの別れ道でつい数時間前に健闘を祈り合ったとき。

 走馬灯のように、これまで葉月と駆け抜けてきた日々がよみがえる。


 いつも優しくて、強くて、怒りっぽくて不器用で、ときおり弱さを見せてくれて。

 それで、ずっと側にいてくれた、彼女。

 最初は依存だったのかもしれない。お互いに、親のいないヒナドリが初めに見た相手を親と認識するように。寄り添える誰かを求めていただけだったのかもしれない。次は気休めかもしれないし、勘違いだったのかもしれない。端から観たら歪な、偏った関係だったのかもしれない。お互い好意を持っていても、偽物で偽りの存在同士、惹かれ合っただけなのかもしれない。


 かもしれない、ばかりだ。確証を持てることなんて殆どない。

 ……それでも。

 


 ……いやだ。

 いかないでくれ。

 ……僕を。

 独りにしないでくれ。

 ……葉月!


 …………気持ちは、声にならない。 


 縋りつきたい。側に行って抱きしめてやりたい。君は本当に頑張ったんだ、後悔することなんて何もない、君は間違ってはいないんだって、言ってやりたい。

 麻里亜を喪って、記憶も何もかも失くして、何もかも分からなくなった僕が今日まで辿り着けたのは君のおかげなんだ。

 


(……葉月。僕は君を守るために戦うよ)

 

 自分がかつて口にした誓いの言葉。

 ……違う。

 僕が君を守ったんじゃない。

 君が僕を、ずっと守ってくれていたんだ。

 

 誰が何を言おうと、誰に詰られようと。

 自己本位な願望でも、身勝手な気持ちでも。

 僕にとって君は、紛れもなく正義の味方なんだ。



 

 葉月は最後に皐月の方を見て、柔らかに微笑んで。

 それから、眠るように目を閉じた。


 すべてをやり遂げたあとのような、清々しい、穏やかな表情。


 一陣の風が吹いた。

 ほの暗さと温かさを含んだ、八月はづきの風。

 どこか懐かしい、想い出を呼び起こされるような優しい風。

 彼女を長年苦しめてきた何かから、洗い清めてくれるような風だった。


 それがホールに満ちていた曇った大気をわずかに揺らし終え、僕たちの間を吹き抜けたとき、もう…………。


 もう、彼女は、この世界の何処にもいなかった。


 主を失った刀だけが、花蘭カラン、と音を立てその場に反響した。


 ……如月葉月。

 彼女は最期の最後まで、凄絶なまでに美しかった。


 だからこそ、悔しかった。

 彼女の……葉月の瞳に最後まで映っていたのは、僕ではなく、皐月だった。

 

「さよなら」

 あとにはただ、彼女が遺した言葉をそのまま反復するだけの、空っぽな僕一人だけが残った。 


 ふと、心の奥底を、言葉が掠めた。


(ね、今日、?)


 遊園地でデートして、二人で観覧車に乗って、曖昧に別れて。

 あの日は有耶無耶なまま、ついぞ彼女に伝えられないままだった想い。

 喉につかえたままの正直な気持ちを、もういない彼女の面影に向けて、言う。


「……楽しかったよ、葉月」


 あの日、だけじゃない。

 ああ、本当に楽しかったんだ。君と過ごした今日までの日々は。


 さよなら。僕に名前をくれたヒト。僕の、大切な人。サヨナラ……

 

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