Ep.42-4 瑠璃色な夜明け


       ◇    


 もう、隣に彼女はいない。

 長年の確執を残したまま、いや、本当は僕の預かり知らぬところで解いていたのかもしれないけれど、何故か満足して、逝ってしまった。


 彼女が消えた座席の段差の辺りに、奇妙な角度で傾いで、日本刀が置き去りにされていた。刀身は赤黒い血液で覆われ、放っておけばそのまま錆び付いて使い物にならなくなってしまいそうだ。彼女の残した最後の忘れ形見。ずっと携えていた武器だけが、かつての温もりをまだ残していた。 

 手に取って血を拭き取るか少し迷ったが、そのままにしておくことにした。


 それから真ん中から少しずれた近くの座席に座って、声を押し殺すように泣いた。

 とめどなく涙が伝った。次から次へと、身体の内から感情が溢れ出る。僕は静かに泣いていたと思う。泣いていたと認識する前から涙を流していた。こんなことは僕の希薄な人生経験の中でも初めてだった。

 思えば一度として、味方がいなくなって涙したことはなかった。状況が予断を許さなかったのもあるし、それだけの心理的余裕もなかった。

 けれど、今だけは、別れの言葉の代わりに、ここで涙を流しておくことが、何よりも必要なことであるような気がしていた。


「いやあ、とんだ番狂わせだよ。まさかこの三人が残るとは。下馬評でも取らせたら面白かったかもしれないね。ボクも全然、予想できなかった」

 舞台の方へ歩きながら、八代みかげは口にする。

「なーんてね、

 ふざけた口調に、怒りも憎しみも湧いては来ない。あてどない空漠が、僕の精神を埋めていった。

 みかげがここにいる以上、連城と紗希さんは彼女に敗れたのだろう。もう想像の中でさえも彼らが救出に駆けつけてくることを思い描けなかった。


 希望は枯れ果てた。可能性は潰え、あとはただ、結果を待つしかない。僕は気怠い身体を座席の背に預けながら、再び思考の渦に身を任せた。


 連城は死に、葉月は消えた。

 ウォーゲーム・ゾディアック。

 長く過酷なサバイバルゲーム。

 星座の名を冠された、初めは十二人だった参加者たちは、最早その殆どが命を散らし、舞台から降りることとなった。

 巨蟹宮キャンサー—―三神麻里亜。

 天蝎宮スコーピオ—―霧崎道流。

 白羊宮アリエス—―成瀬雅崇。

 双魚宮ピスケス—―加賀美アリス。

 天秤宮ライブラ—―法条暁。

 人馬宮サジタリアス—―御厨翼。

 双児宮ジェミニ—―片桐藍。

 処女宮ウィルゴ—―早乙女操。

 魔羯宮カプリコーン—―連城恭助。

 そして、獅子宮レオ—―如月葉月。

 これまでに、十人、死んだ。

 

 宝瓶宮アクアリウス—―朱鷺山しぐれ。

 金牛宮タウラス—―如月皐月。

 そして飛び入り参加の、虚無宮オフィウクス—―僕。

 

 これが犯人当て小説だったのなら、を当てずっぽうで指名すれば当たったも同然な問題だ。曰く、物語の最初の方から出ていて、かつ一番犯人らしくない人物を指名すれば当たる、とかなんとか。僕が黒幕ではないのは僕が一番知っているから、僕が故意に嘘をついていたり記憶を弄られていたりしない限りは、実質……二人の……。

 駄目だ……。何を考えているんだ僕は……。思考に全然まとまりがない……。

 ぼやけた視界に、じんと熱くなった下腹部が融け合い、自己が揺らいでいくような奇妙な感覚。全てを投げ出して、諦めてしまいかけているからか、ある種の心地良ささえ僕は感じ始めていた。現実と虚構が際限なく融け合うような、この世の果ての多幸感ユーフォリア

 僕の世界は実際には終わったも同然だった。何もしたいことがない。これからすべきことも、できることも、何もかもが混じり合い、底のない黒へ吸い込まれていくような……。

 それでも何かを考えていなければ、葉月を失った悲しみ、これから一人で戦いに挑む重圧、こころを空っぽに蝕んでいく乾いた絶望に耐えられそうにもなかった。空虚な、それでいて色を持った感情が次第にその領域を強めていくのを、僕は心の端で感じ取っていた……。


「どうして葉月を殺したんだ。君の、たった一人の家族だろう……」

 三つ隣の座席に力なく寄りかかっている皐月に、僕は尋ねた。

、です」

 返答は呆気なかった。まるで答えになっていない。

「簡単な問いです。①身内が殺人加害者になるのと、②身内が殺人被害者になるの、どちらが良いですか?」

「どっちも嫌だよ……」

 それが世の大半の人間の素直な答えだろう。

。そして後者を選びました。自分の手を汚してでも、大切なものを壊してでも……ボクはそう決めました……」

 皐月と僕の会話は混じり合って、境界を綻ばせていく。丁度あのアイオーンと戦った時のように、自己と他者の感覚が揺らぎ、崩れ去り、混じり合っていくかのような……。誰と誰が、話しているんだろう……。


 姉さんのそんな姿は見たくはなかったんです。人を殺すくらいなら殺されたほうがマシだ。加害か被害か白か黒か、世の多くの物事は二者択一ですよ。結局のところ。


 物事はそんな単純じゃないだろう。


 単純ですよ。好きか嫌いか、認められるか認められないか、生きるか死ぬか、幸福か不幸か。選択は、結果は実にシンプルです。それに複雑な意味を見出しているのは他でもない、ボクたち自身です。


 そんな考え、自分から進んで不幸になるだけだ。幸福にも不幸にも境界を敷かずに、勝手気ままにあるものを壊すなんて。恣意的、というか示威的だね。君のやっていることは。思い通りにいかないからと玩具を床へ叩きつける子供と大差がない。 

 

 御厨翼にも言われましたよ、似たようなことは。他人を騙して、味方も騙して、恐らくは自分さえも騙して。お前は一体その先に、何を望むんだ? ってね。


 彼は案外、詩的なことを言ったんだね。意外に気が合ったのかもしれない。本当に、その通りだと思うよ。ねえ、繰り返し聞くけど、君は何で葉月を殺したんだい? 


 気に食わなかったからです、現在の彼女が。彼女の在り方が。彼女を取り巻くすべてのものが。勿論、あなたのこともね。


 ……そんなの君の身勝手じゃないか。


 身勝手で何が悪いんですか。欲望なんて、自己に対せよ他者に対せよ基本的に自己本位な願望に過ぎないでしょう。「人のために」なんてのは悉くが綺麗ごとです。

 ボクは姉さんの命と姉さんによって今まで踏み躙られた命、これから踏み躙られるであろう命を天秤へ掛けました。そして何よりボクのために、彼女を抹殺することに決めました。


 どうして独りで、一方的にそんなことを決めたんだい。

 対話もせず黙っていれば、向こうが察して意図を酌んでくれるだなんて、そんなことを想えるほど君は殊勝じゃないよね。

 

 当たり前です。言っておきますが、姉さんやあなたと分かり合う気なんてそもそも最初からさらさらないですから。それに対話をして相手に飲まれてしまうのが何より怖かったんです。人を一人、それも肉親を殺しておいて平気平然と人並みの幸福を追い求められるその神経が理解しがたかったんですよ。ええ、本音を言います。あの日からボクはいつも姉さんを恐れていました。怖かったんですよあの人に飲まれてしまうのが。


 君たち姉弟はどうして上手くいかなかったのだろうね。僕には不思議でならないよ。立ち直れるチャンスはいつでもいくらでもあったはずなんだ。僕にはね、君が自分の方からその機会を放擲したようにしか思えないんだよ。ねえ、どうして葉月の気持ちをたった少しでも考えてあげなかったんだい。言葉がなくても、伝わることはあるだろう?

 

 はは、言葉がなくても、ね。非言語なコミュニケーションが苦手そうなあなたがそれを言いますか。大したロマンチストぶりですね。すれ違いに裏切り、第三者の介入に意思疎通の困難……今どき少女漫画の世界だってもう少し残酷ですよ。ボクとあの人の間に限ってそんな奇跡が起こるわけがないじゃないですか。いや、かえってペシミストなのかもしれない。そんな低い可能性にしか縋れないんだから。


 ほら、そうやって自分から放棄するだろう、解決の糸口を。それじゃどうしようもないじゃないか、話が前に進まない。君の悪い癖だよ。大方、学校でも自分に好意を示してくれる相手にほど意地悪く素っ気なく対応したんじゃないのかい。そんなだから学校でいじめられるんだよ。 


 彼ら彼女らは異端審問が大好きですからね。自分たちの知る「普通」の鋳型に他人を押し込めて、解釈できなければすぐに叩き直そうとする。僕はそういう凡人な方々に交じる位なら孤独を選びますよ。


 君の場合は孤立だろう。孤独を引き合いに出すのは失礼だと思うけどな、孤独な人達に。逃避と前進はまるっきり別の意味の言葉だからさ。

 

 なんだかさっきから本筋から外れた話ばかりしてますね。無駄話をしている間に、もう夜が明けるようですよ。


 ほんとうだ。僕たちももう、終りなのかもしれないね。だって世界は、もう……。


 窓の外、視界の端に映る濃い瑠璃色に、目を眇める。

 ……夜明けだ。越えられないと覚悟していた夜。

 それを越えたという自覚を得て、不意に、意識が、蘇った。 

 

「ボクは、正義の味方に、ずっと憧れていたんです……。

 かつて姉さんは僕のヒーローでした。誰よりも輝かしい存在でした。でも、もう、そうじゃない。悪に堕ちたヒーローなんて、いない方がいいんです。

 ……いない方が、良いんだ。それなら最初からいなかった方が良かったんだ」


 吐き捨てるように皐月は言った。暗く、澱みきった面立ち。涙に濡れた頬。先ほどまで僕は、彼の中に僕を見ていたのかもしれなかった。

 その後もぶつぶつと彼はなにかを呟き続けていた。

 これ以上話していても埒が明きそうにもなかった。 

 僕はなんとなく前方を見た。


 舞台の上では、神……八代みかげが、しぐれに何かを囁いている。しぐれは何か、恐ろしいものでも観たかのように力なく座り込み、茫然として手許にあるを覗き込んでいる。

 観客席からは、会話の内容まではうかがい知れない。


 けれど。 

 こちらを振り向いた八代みかげは、勝ち誇った顔で、この上なく無邪気な声で、「このサバイバルゲーム、今回も私たちの勝利だ」と、高らかに宣言した。


 人形のような朱鷺山しぐれの腕を上げて――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る