Ep.44-2 願い・悪・災い
瞬き一つの合間に、目の前の世界は一変していた。
白く、どこまでも続く白亜の砂漠。
煮沸された流砂のようなものが、足元に隙間なく敷き詰められている。
しゃがみこんで掬うと、それは音もなく指の間を通り抜けていった。重さも、手に取った感触のようなものも殆どなかった。天上にはところどころ皹が走っていて、僅かな断裂から先ほどの砂のようなものが雪のように降り注ぎ、地面に堆積していく。
「……ここは?」私は呟いた。
「あなたの中の心象風景です。あなたには、あなたの中枢をつかさどる心の奥底には、世界がこう見えているのでしょう。漂白され、殺菌された、始まる前から終わってしまった世界」
私は小首を傾げた。彼女の言葉は、よく分からない。
「これからあなたの意識が、世界の意識と繋がります。
世界〈セカイ〉と云うのは、あなた〈わたし〉が、
認識している〈認識していない〉ものの総体……」
やっぱりよくわからない……。
「能力者たちの有する権能の中に、他者の意識を歪めるものや自らの想像を実体化するものが多いのは、認識の問題に関わるからなのです。私たちは皆、ひとりひとり違った〈世界〉を生きています。認識の歪みや意識の隔たり、彼我の能力の差から必然的に生まれる差異」
何を言っているんだろう……。
「……埋まらない溝や止まらない格差。ここわずか数百年の間に、世界は一気にその進歩の過程を早めました。社会の形態から工業様式、交通網からインフラ、処々の娯楽に至るまで。あなたはこれから、それら全てを担うのです。それら全ての指向するもの、至るべき方向を決定づけるのです。それが、「神」としての責務……。人の意識の上に立つことの意味……」
そんなことより、私は……。
「もう、後戻りはできませんよ」
私はずっと、逃げていただけで。
私は勝ち残ろうなんて、少しも考えてはなくて。
だからこれは私の望んだことじゃなくて……。
「……責任逃れは出来ませんよ。だって、」
世界なんて大それたことに私は関心がなくて、私はそれよりも、そんなことよりも、もう一度。
……もう、一度。
…………。
何が、したかったのだっけ……?
「だってあなたは、最後まで残ってしまったのですから」
それが、人間の私が聞いた最後の言葉だった。
目映い閃光のようなものが両目に突き刺さったかと思うと、私の矮小な脳では理解しがたいような風景が次々と雪崩れ込んできた。
たとえば歴史。民族国家政治宗教経済恋愛文化。
たとえば戦争。奴隷虐殺娼婦領土侵略交渉差別。
たとえば性愛。略奪不倫凌辱純愛結婚学生破局。
たとえば革命。市民皇族牢獄球場処刑誓言権威。
そんな単語に当てはまるであろう風景や人物が、次から次へと頭の中に立ち現れては消えていった。休みたくても休めない。目を閉じようとも、耳を塞ごうとも、それらの情報は鮮やかな匂いや色のある実体を伴って私の意識の根幹を侵食し、蝕み、これが世界なのだ、これがお前〈わたし〉なのだと訴えかけてくる。これまでの「世界」の重みが、私に丸ごとのしかかってくる。
この繰り返し。永遠に……この先永遠に……?
人が変わっても〈変わらなくても〉、国が変わっても〈変わらなくても〉、世界が変わっても〈変わらなくても〉、このまま延々と……こんな醜い、それでいて正常な世界を観続けていなければならない……。皐月や、家族や、昔の知り合いたちが誰一人いない世界で……
まるで拷問じゃないか。いやそれよりもっとひどい。これならたたかいのなかでしんだほうがいやころされたほうがましだったかもしれない
いや……もうやめて……
人柱? 無間地獄? それとも煉獄?
いたいいたいいたいからだがないのにいたい
いやわたしのからだが、せかい? せかいがわたし……?
せかいはわたしが認識しているもののすべて。
じゃあ、すべてがわたしを認識したら……?
ここは……どこだっけ。上も下も右も左もよくわからない。方向も方角も分からない。私は今、どこにいるんだろう……。本当に、実在しているのだろうか。世界の、中心……?
正体不明な……無色の苦痛。
思考の奔流の中で、昔習った皮肉めいた
歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は……
何だったっけ……。
喜びに綻ばせた顔。
初めて愛された時の顔。
嘲笑われたときのような顔。
怒りや悲しみややるせなさでいっぱいになった顔。
どれが、どの私が、本物の、本当の、わたし……………?
水中から陸上に引き上げられたかのように、鮮明な意識が取り戻された。
「無事……継承は終わりました。おめでとうございます。これでわたくしはもう、思い残すことなど何一つありません」
七瀬あけび。私の前の……神。
じゃあ、私の次は……?
あれ、今は私が、
神……? 「顔色が優れませんが……」
セカイを好きに出来る、
「何か不都合はありませんか?」
自分の自由に作り替えられる、
神様…………?
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
何が大丈夫なのかわからない。大体、大丈夫なのかと他人に心配されている時点でそれは大抵の場合においてもう大丈夫じゃない。神様になってまで
何を考えているんだろう私。
あれ……?
あれ…………?
ひょっとして私、
「私」って、
何も変わってない……?
悲観的で卑屈な性格も、それを良いことに内心では人を見下して特別感に浸っていることも、何も変わってない? 身長も体重も髪色も貧相な胸回りも足の長さも、何も変わってない? 大して仲の良くない相手に限って気を遣ってしまう癖も、常に自分が見下されているんじゃないか価値がないんじゃないかとか考えてしまうのも、変わってないの?
「世界〈セカイ〉と云うのは、あなた〈わたし〉が、
認識している〈認識していない〉ものの総体……」
私が〈私〉を認識している限り、私自身は決して変えられない?
変わらないの?
「ええ……残念ながら」彼女はこともなげに言った。
何も……変わらない。
肝心の私自身は……何一つ、変わっていない。
「わたくしは、
あなたが望むように……」
人であることを止めて、神様になってまで、変われなかった。
救えない。もう何処にも、私の救いはない。
私は何処まで行っても壊れたままで。
どこまでも正常で、私から見れば狂いきった汚い世界を、これからずっと見なければならない。見ていかなければならない。
感情の束がほどけるのが分かった。
私が許す。
私が殺す。
私が壊す。
私が救う。
今は私が神。私が世界そのもの。
ならば、
これは正しく神罰だ。
世界の滅亡。
人間の滅望。
それが、私の望むもの。
悪だと謗られても良い。
街も道路も駅も。
森林や湖沼や火山も。
文明も技術も歴史も。
人間も、神も、世界も。
何もかも壊してやる。無に帰してやる。これが最後まで壊れ切った私の、最後の復讐。
「待ちなさい……あなたは、あなたは何を!」
私は黙って地上を薙ぎ払った。抱くのは巨大な腕のイメージ。都市は根こそぎ覆され高層ビルは倒壊し飛散したガラス片が刃の雨となって街中へ三日三晩降り注いだ。多分10億人くらい死んだ。
「何をする気ですか!
正気ですか、あなたは!
自分が何をしているのか、わかっておられるのですか!」
私は黙って深い針を地殻に抉り、イメージのままにそのまま切り払った。断裂した大地の隙間からよく分からない色の液体が迸り火砕流のように地上を舐めた。多分20億人くらい死んだ。
「それは放擲です!
あなたのやっていることは自棄ですらない!
これまでのわたくしたちの築き上げてきたものに対する、侮辱です! 冒涜です!」
私は黙って無視した。そのころにはもうすっかり世界が等身大に馴染んで、大気を真空で満たしたり、樹林や野山を燃やし尽くす炎を自由に生み出したりとやりたい放題だった。全てがあるがままに馴染む。地水火風が、全ての原子が、原始が、万物の源が、手足のように思うがまま動かせる。もう、誰にも私を止められない。何より私自身が、止まることを良しとしない。
「ああ。あなたはもう、ダメです。
辛うじて残った人間としても根幹が、生き永らえた感謝にではなく、死に損なった怨嗟に向いてしまっている。とても……悲しいものです。あなたは」
鬱陶しい。あなたの役目はもう終わったのだから消えればいいのに。
そう軽く、攻撃的な思念を送った途端に、七瀬あけびの憂いを湛えた瞳は、私の傍で頭蓋ごと柘榴のように弾け飛んだ。
ビー玉のように眼球が転がり、体の中身が私たちのいる透明な砂漠を赤黒く汚した。
清楚で可憐な立ち振る舞いのなかにも、あんな血みどろで赤く、黒く、得体のしれない気持ちの悪いものがぎっしりと詰まっているのだと思うと……。
はたと気付いた。
これが人の本性なのだと。
どんなに外見が綺麗でも、どんなに高潔な雰囲気を纏っていても、胎の中にはこんな醜いものを抱えて何のけなしに生活している。
考えてみれば当然のことだ。
妖精のような外見の少女だっていつかは清らかな純潔を喪うし、誠実や正直さを掲げる団体や組織は裏では大半が営利目的だ。嘘のような出来事が現実で起こる一方で物語の中では徒に装飾を施した都合の良い虚構がいくらでも現実からの逃避として提供される。
この世は透明な欺瞞で満ちている。
砕け散った七瀬あけびの残骸に近付いて、思わずぎょっとした。
彼女の身体の中には、ほとんど中身が入っていなかった。
標本か、剥製のように、骨格と薄皮だけが残って、
主要な器官がごっそりと抜け落ちている。
生殖器もなかった。
それがあったはずの場所は、何か、針と糸のようなもので痛々しく縫い合わされている。
正しく、壊れかけの、継ぎ接ぎだらけの人形。
……自然にこうなるわけがない。
どう見ても人為的なものだった。
傀儡か、それとも愛玩か。
想像を絶する責め苦を味わったことだけは間違いない。
……どちらにしろ、人のすることではない。
枯れ木か、木乃伊のような身体を寄せ集め、彼女は身体を再生した。
裸身を晒しても何らの恥じらいも見せることはなく、
腹立たしいまでに堂々と、私の前に立ちふさがる。
見られることに慣れているのか、それともそもそもそんな認識の埒外にあるのか。
「……言ったでしょう。生前、わたくしに「人」としての自由などなかったと」
バラバラになった四肢を断面に繋ぎ合わせ、彼女は何処か気だるげに言った。
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