四十四節 「災禍」

Ep.44-1 毒薬・賭・告白


「覚悟は決まりましたか」

 は言った。

「お二人のどちらかに、わたくしの跡を継いでいただきます」


 私たちは二人とも、無言だった。

 遂にその時が来たのだ、という恐怖もなければ。

 これで全てが終われる、という昂揚もなかった。

 ただ、ただ、何もかもが止まってしまったかのような果てのない静寂の中で、佇んでいた。

 神様はそんな私たちの脇を颯爽と通り過ぎ、手狭なコテージを物珍しそうに歩いて回った。


「……羨ましいです。ここにはまだ、生活があります」

 

 生活の皺が刻まれたベッドシーツ、読みかけの本が積まれた本棚、洗い物を中に取り込んだまま止まってしまった洗濯機、食べかけの食パンにマーマレードのジャムの瓶、鈍い音を立てて辛うじて動作している机上のコーヒーメーカー。なにが物珍しいのか、そんなものを丁寧に見て回っている。机に差し掛かったあたりで少し眉を顰めた以外は、終始落ち着いた物腰だった。


「その口ぶりだと、街は酷い有様なようですね」彼が言った。


「……ええ。嘆かわしいことです。「街」は暴力と狂気で満ちています。最期のときくらい、穏やかな気持ちで迎えて欲しかった、のですが」

 心底嘆かわしい様子だった。彼女とて、もうすぐ来る滅びの運命からは逃れられないというのに。


「そんなに珍しいですか、ここが」私は訊いた。

「生前、わたくしに人としての自由などありませんでしたから」

 彼女は言った。まるで神様になったら死んでしまうみたいだ。


「人類の英知の結晶ですね。わたくしも「昔」はよく、手に取ったものです」

 書棚の前で、彼女は長く足を止めているようだった。興味深げに、ひとつひとつ手に取って矯めつ眇めつしている。

『純粋理性批判』『論理哲学論考』『存在と時間』『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』……。

 よく分からない思想書、いや歴史書なのだろうか。そんなものが積まれている。私も昔、教養として親に読まされたことはあったけれど、まるで意味が解らなかったものだ。

 彼に読書の習慣はなかったはずだが、人は死ぬかもしれない間際には大いなる思索に耽りたがるものなのかもしれない。

 

 そんな光景をまるで他人事のように眺めていた。


 それにしても、神様の綺麗で整った挙措。典雅で、どこか人を寄せ付けないような気高さ。全身からオーラが迸っているようだ。間近で観るのはこれが初めてだが、神になる前は何らかの聖職者……巫女か、修道女だったのかもしれない。修道女が神になるというのも皮肉な話だが。

 いや、ひょっとするとお姫様だったのかもしれない。あるいは神になってしまえばそのような立ち振る舞いに自然となってしまうのかもしれないが、私は暫し、彼女に魅了されていた。

 

 神様は、人間としての暮らし、営みが刻まれたコテージを、愛おしそうに眺めた。

 たとえそれが死にゆく私たちの終の棲家と成り果てるのだとしても。


 窃盗やレイプ、殺人が日常的に横行し、地上の地獄となった街を捨てて、山奥に避難してきたのが一週間と少し前だ。だというのに、もう何年もここに留まっているかのようだった。住み慣れた家を引き払うかのような、そんな捉えどころのない虚しさが私の心を満たしていた。


 もうすぐ、あと少しで、全てが終わる。何日か前に壊れた時計の針はこんな時にも律儀に正午少し前を指していた。


 部屋を一巡すると、彼女は私たちに向き直った。


「……まずは儀礼ですから、簡易な状況確認を行います。

あなたは、宝瓶宮、朱鷺山しぐれ。そしてあなたは、金牛宮、如月皐月。間違いはないですね?」


 二人同時に頷く。今更、確認するまでもない。


「あなたたちお二人は、先月末から執り行われた、

 朱鷺山しぐれ。

 蓬莱ほうらいかなえ。

 澤渡優矢さわたりゆうや

 如月皐月。

 山科孝行やましなたかゆき

 六条ろくじょう睦美むつみ

 皆木瀬みなぎせ由衣ゆい。   

 飛鳥井隆二あすかいりゅうじ

 天使あまつか琉花るか。 

 久隅くずみ梨々香りりか

 高月颯たかつきそう

 神津かみづ代美子よみこ

 ……以上、十二名による神を決める戦い、通称第七次熾天使戦争セラフィム・ウォーにおいて、最後まで生き残りました……」


 神様の言葉を聞きながら(まさしく宣託だ)、私は先ほどから、ちらちらと戸棚にしまわれた毒薬の小瓶を眺めていた。 

 毒物を自由自在に精製できる能力者から、もういないかつての味方が、奪い取ったものだ。こんな使い方をするとは思いもよらなかった。「どうしても、本当にどうしてもの時だけ、使いなさいよ。あんたたち、まるで度胸がないんだから」きっとあの小うるさいアイドル候補生も天の上で愚痴っているはずだ。まさか、こんな使い方をするとは。


「……あらゆるものには終わりがあります。時間と共に綻び、解れ、崩れ行きます。万物が、そう、世界とて例外ではありません。「神」とは、世界を支えるための礎。誰かがやらければならないのです。辛い犠牲を強いてしまうのは分かっています」


 毒は無色無味無臭、揮発性。経口摂取から約十分で眠るように安らかに死に至る。話が終わったら、終わってしまったら、私か彼のどちらかがあれを飲むことになる。

 ……固く握りしめた手のひらの内側で粘り気のある汗が滲み、身体全体に悪寒が走った。感覚が、次第に麻痺してくる。私は、ちゃんと立って、彼女の話を聞けているのだろうか……。


「古来から、犠牲……生贄というのは、残酷さこそ伴うものの尊いこととされてきました。人柱などの人身御供は好例です。こどもを子「供」と表現するのも、そういう使途で幼子が使われてきた陰惨な歴史を表しています。歴史を紐解けば、人の身では叶わないことを、理不尽によって届かぬ場所に居る何者かに届かせる風習は、思いのほか多いことがお分かりになられるでしょう。自分ならぬ他者へ願う。それはどんな時代であれ、責められる謂れはありません……」


 残酷さに一抹の優しさを被せて表現するのが、彼女なりの優しさらしかった。皮肉でも、露悪でもなく、神様の口から聴いていると、普遍的で不変的な真理のように思えてくるから不思議だ……。


 どれだけの、時間が経ったのだろうか。彼女が口を閉じ終わった。私たちの決断を待っている。迫っているようにも見えたけれど、きっと違うだろう。でなければ、あと一日の猶予を残してここへ来たりはしない。決断を先延ばしにすることが、精神の安寧を著しく乱すことを彼女は分かっているのだろう。だからこそ今……。


 

 どちらか一方が……。駄目だ、考えるな。考えちゃいけないんだ。考えても仕方のない事なんだ。どうしようもない、ことなんだ。


 彼は迷いもなく一つの瓶を手に取った。

 私も震える手で残った方を手に取った。


 神経が研ぎ澄まされているのか、瓶の細かな輪郭が直に肌へと伝わってきた。皐月と目配せし、一口に呷った。横も前も見なかった。ただ自分の分の小瓶だけを見た。透明な液体がのどの奥に滑り込むように浸透していくのが分かった食道を通って胃の中に沁み込んで腸を通ってそれから暫くしてぐらり、と世界が歪んだかと思うと、


 立ち眩みがした床に倒れ込んだ動けない視界が暗い私は死ぬ


 こわいしにたくない私まだ生きたいでもどうしもようもない 


 横で誰かが何かを言ってでも聞き取れず向こうの世界が遠い


 毒……は……、珈琲


 なにかきこえるすぐよこできこえる


 両方の……びんに、……って


 めがみえないからなにもわからない 


 不意に、唐突に意識が明瞭になった。声もはっきりと聞こえる。


「……おかしいとは、思いませんでしたか?

 電気は止まっているのに、コーヒーメーカーが作動したことに」


 そう、いえば。

  

「ボクが、

 昨日の夜、

 予備電源を入れておいたんですよ」

 

 解毒剤のカプセルをコーヒーメーカーの中に入れておけば、この二択は無意味なものになる。気付いていましたよ、あわよくば心中するつもりだったんでしょう。ここ最近のしぐれさんは様子がおかしかったですからね流石にボクでも感づけましたよ。


 音が、滑らかな波になって私の耳朶に飛び込んでくる。それ自体が意志を持った音の奔流。私が最後に聞くことになる声。


「なんで、私のためにそんなことしたの」自分の言葉とは思えない、尖った口調。


 いいえ。 

 ボクのためだったんですよ…… 

 あなたを殺すことより、あなたに殺されるのが嫌だった

 自分の手で死にたかった 

 それにボクが助かる道はありましたよ、あなたが毎朝コーヒーを飲むとは限りませんでしたからね……可能性の問題ですよ……少しだけ分の良い賭……結果としてこうなってしまっただけ…… 


 罪の告白。そんなものに、何の意味があるのだろう。


 いや!

 こんな世界もう嫌!

 サツキが死ぬくらいなら、わたしもういきたくない

 おいていかないで……おねがいわたしをひとりにしないで


「さよ……なら」


 音にもならない声は、意識の奥底にまで届いた。鋭い剣のように、肺腑の底まで貫いた音を、私は遠い意識で聞いた。


 目の前には一人の少女。とおいむかし、私たちの前の世界で、神様になった少女。


「なるほど……あなたですね、わたくしのは」


 どこか口惜しそうに、彼女は言葉を紡ぐ。

 彼女は事切れた少年の躯を両腕で抱いている。

 彼が死んでいる。私は生きている。


「改めて名乗りましょう。わたくしは七瀬ななせあけび。わたくしこそが神。「世界」の意識を司るもの。そして今は……あなたに「力」を、託すものです」


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