Ep.39-3 黎明の覇者

 

 どれほどの時間が経過したのか、わからない。

 傷ついた側から再生し、治った側から壊されていった。いつの間にか再生は止まった。正確には、使。その事実が意味するところを僕は意図的に無視した。考えなくても良いことは考えないに尽きる。

 何で僕は、生きていられるのだろう。

 こんな襤褸ぼろみたいな、死にかけの身体で。

 確固たる信念も、揺るぎのない願望も持たないまま。

 

 右眼はもう真面まともに見えない。潰れてしまったのか、想像するのさえ恐ろしいが網膜が剥離してしまったのか。その他の部位も同様だった。壊れに壊れて、まだ自分の身体と繋がっているのかさえも分からなくなってくる。外界と手足の境界が溶けてなくなってしまいそうなくらいだった。何処までが現実で、何処までが自分なのか。

 何処までも現実感のない、夢のような景色だった。

 僕と彼の周囲の景色だけが鮮やかさを損なわないでいた。

 アザレアの群生からゼラニウムの鉢植えまで、僕たちの背景にある花たちは不気味なくらいに鮮明だった。無関係を決め込んでいないで、何か言ったらどうなんだ。

 幾度も交差し、交錯し、その度にスプリンクラーのように撒き散らされた血液で、足元にある草花は夥しい流血の雨に濡れていた。もう元の色も分からない。

 いつか河原で見かけた、彼岸花の群生のようだ。不気味なまでに赤。黒く変色した箇所は、もう何時間も前に流されたものだと分かる。

 植物が言葉を話せるのなら、文句の一つでも言っただろうか。


 まるで彼岸と此岸を隔てる三途の川のようだ。ひょっとして僕はもう、既に死んでいるのかもしれない。あるいは死にかけの僕が、少し先の未来を幻想として見ているのかもしれない。

 誰だって、今際の際には、甘い幻想を見るものだろうから。


 幾重にも踏み荒らされた花壇からはバーミキュライトが氾濫し、舗装されたタイルの上にいくつもの模様を描いていた。 

 何度も相手を殴りつけた掌は開閉もままならないほどに砕けている。

 もう握りしめることも難しい。

 半分になった世界を、僕は。

 蹲る彼の方へと歩いて行った。

 正直このときばかりは、自分の能力の不完全性を呪った。

 不完全な模倣に、限定的な仕様。

 劣化したままの権能で、たったの一晩、戦い抜けるだけの精神が、よもや自分に備わっているだなんて考えもしなかった。

 彼との戦いについて、多くを語る必要はないだろう。

 何の小細工も、ましてや、策を弄する必要など何処にもなかった。


 何度も、これまで越した夜の光景が頭を過った。

 夜。街。血。死。走馬灯。 

 麻里亜。霧崎。アリス。法条。操さん。

 流れ去った時間が、死んでいった人間が次々と脳の中へ去来しては消えていった。


「あんた、本当に人間か」

 飽きれるように彼は呟いた。君は……誰だっけか。

「僕は人間だ」

 僕は誰でもない彼に言い切った。迷いはなかった。


 僕と君を隔てる境界はただ一つ。

 目の前の現実を認められるか、認められないか。 

 僕は認められない。彼は認めた。

 僕は立ち止まらなかった。彼は立ち止まった。

 それだけの違い。

  

「俺を殺さないのか?」彼は尋ねた。

「……。君はただ、可哀想なだけだ」僕は答えた。

 彼はあくまで、ありとあらゆる概念や人格の寄せ集めだ。

 彼の中には、争いを好まない善良な人格や、平和極まりない安穏な概念だって含まれているはずだ。

 自家撞着じかどうちゃくの塊みたいな歪んだ性格のままで、彼も戦ったのだ。

 そんなものを憎む気になんて到底なれない。

 事故や事件を起こすからという理由で、自動車や刃物を憎悪するようなものだ。

 悪用したり誤用したりする人間が悪いのであって、概念それ自体に罪はない。

 罪はない、はずだ。

「……賢明な判断だ」皮肉めいた口調で、彼は言った。

 深く溜息をついて、彼は続けた。

「知っていることと使えることは違う、か……。経験値の差だな。そういや、俺自身が直接戦うのはこれが初めてだったっけかな……」

 初めての実戦でこれか。本当に、彼は規格外だ。

 勝負に勝って試合に負けた、といったところだろうか。彼は僕に対して、態度を改めることもしていなければ、何らの反省もしていないだろう。

「なんにせよ、には、なったか……」

 彼はそう呟き、黙った。不思議と負け惜しみのようには思えなかった。


 いつの間にか空は白み始めていた。

 四時間か、五時間か。それだけの間、暴力の奔流に晒されて、正気を保てているのが不思議なくらいだった。もっとも、ここまでの戦いを見てきた僕自身から言わせれば、狂気に身を委ねてしまった方がいっそ楽だったのかもしれないけれど。 

 全てが終わってしまった後のような闇の中に、明かり窓から一条の光が差し込んでくる。淡く、脆く壊れてしまいそうな光。

 この戦いの終わりを告げる曙光だった。


 勝ち負けなんてものに、果たしてなんの意味があるだろう。

 僕は立っている。彼は倒れている。それだけの違い。

 ここで斃れてしまった方が、この後に控えている悲劇を見なくても済んだかもしれないじゃないか。

 誰が幸せで、何処までが不幸なのか。

 境界なんて、あってないようなものだった。

「……それで? 今度は何処に行こうって言うんだ、迷える子羊ストレイシープくん。

 自分でも解っているんだろ? あんた、もう永くないぜ。

 三神麻里亜の願いから生まれただか何だか知らないが、この戦いが終われば、全てはなかったことになるだろうな。

 あんたの居場所は何処にもなくなるんだぜ?

 破局catastropheはすぐそこさ。何もかもがご破算、正真正銘の大悲劇さ。あんたはその時、何を想うんだろうな……?」

「君の話は長い。いい加減、僕も疲れているんだ」

 唾棄するような口調で、僕はそう言っていた。自分にここまでの冷酷さがあるとは思ってもみなかったので、少し驚いた。

「勘違いするなよ、これは挑発じゃない、忠告だ。あんた、もう十分すぎるほど頑張ったろ。これ以上は、進まなくて良いんじゃないのか?

 まさかこんな歪んで歪みきったゲームに、大団円なんてご都合主義が罷り通るとでも思ってるか? 機械仕掛けの神deus ex machinaなんてありやしない。綺麗な解決なんて望むべくもない。

 とっくの昔に歯車は狂っちまってるのさ。

 脚本も、監督も、盤上にいる俺たち役者も。

 

 なあ、自分でもわかっているんだろ……?」


 高笑いを背中越しに聞きながら、僕は花のホールを後にした。

 重い足を引き摺る。靴底が力なく廊下を擦過する。

 深海の底を彷徨うような視界。

 天井は、ところどころが崩落し、落盤による瓦礫の山が築かれていた。

 

 一歩ずつ、何かを踏みしめるようにして歩いた。

 長い廊下の向こうに、白い扉が見えてくる。ほんの数時間前に彼女が向かった、扉の向こうを目指して、ただ足を動かし続ける。

 優しさの欠片もない、ただ冷たい早暁の空気が喉を通り抜け、肺に触れ、身体の隅々へと浸透していった。

 ……夜明けだ。

 雪のホールから微かに漏れ出ていた調べは、もう聞こえてこなかった。

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