三十八節 「場所」

Ep.38-1 放課後の妖精


      ◇◆◇


 は些細なことだった。

 その日の私は、酷く憂鬱な気分だったと思う。あるいは視界に絶え間なく斜めに降り注ぐ風雨が私をそうさせていたのかもしれないが、私は四、五時間もの間、身じろぎもせずに駅の改札口の片隅にあるベンチに腰掛け、時間を潰していた。英語では時間を潰すことをkill timeと表現するらしいが、それはあくまで本屋や喫茶店で時間を潰す、とか空き時間の退屈を紛らわす、みたいにあくまで前向きな意味を持つのであって、何をしても退屈で仕方なく何処にいても居場所がない私のような人種には、そういった気の利いた表現でさえ烏滸がましいのかもしれなかった。雨は一向に降り止む気配はなく、次の電車は当分の間来ない。 


 ふと、誰かが言い争っているような声が聞こえたので視線を上げると、駅前のロータリーへ降りる階段の前で大学生くらいの男女が何かを話していた。女の方は品種改良された、やたらと甲高い声で鳴く小型犬のように男に向かって怒鳴り散らしていた。会話の内容まではここからじゃ聞き取れないが、今この瞬間、世界で自分が一番可愛そうで不幸なのだと思い込んでいる節のある振舞い方だった。自分に酔っていて、周りを醒めさせるタイプの人間。普段だったら見て観ぬふりをするのに、何故だか酷く目障りだった。痴話げんかならわざわざこんな寂れた場所でしないで何処か別の場所でやればいいのに。いつだって世の中の中心は自分だと感じていて、それでいてなお自分が世界で一番不幸なのだと思い込んでいる厚かましさ。周りが見えていない人間というのはこれだから質が悪い。

 言いたいことを言い終わったのか、あるいは言いたいことだけ一方的に言い終えたのか、チワワのような女は男にさっと背を向け、階段を降りていった。履きにくそうなハイヒールでコンクリートをわざとらしく打ち付けながら、さながら凱歌を揚げて国へと還る英雄のように。一人取り残された男は、少しの間項垂れてその場で立ち尽くしていたが、暫くして改札の方へと踵を返した。ふらふらと覚束ない足取りで、私が座るベンチへ近づき、私の隣へ腰かけた。そして魂が抜け出てしまうんじゃないかというくらい大きなため息をついた。私はそれを他人事のように見ていた。自分のことですら半ば投げ出しかけているのに、他人のことまで背負いこむ余裕なんてあるわけなかった。

 男が顔を上げ、私に気付いた。気付いてないフリではなく、本当に今の今まで気が付いていなかったらしかった。自分の存在が否定されたようで、少しだけ、悲しかった。

「……ごめんね」

 何故か謝られた。

「あんなところで騒いで。見苦しかったっしょ」

 男は丁寧にそう言った。

「いえ、別に気にしていませんから」

 私はそう言って、再び口を噤んだ。男も押し黙った。

「さっきの人、彼女ですか?」

 黙っているのも気まずかったので、男に訊ねてみた。 

「……そう。いや、そうだった。今さっきまで」

 何というか、ご愁傷様だった。

「……楽しそうでいいですね」

 皮肉めいた口調で私はそう言い、ベンチを立とうとした。

「こんなところで何してるの」

 。身体の中心を射抜かれるような質問だった。ベンチに縫い付けられてしまったかのように、私はその場から動けないでいた。

「別に、何も」咄嗟にそう答えた。

「何も、ってことはないでしょ。こんな夜遅くまで女の子一人で」

 男は真剣だった。事実、本気で心配してくれているのだろう。構わないでいて欲しかった。

「傘もないし、雨宿りしてるんです」

 もう終電もないし、辺りは人通りも殆どなく無人だった。男は呆れたように私を見て、

「親御さんに連絡は?」

「家はダメ」言葉が口を付いて出た。「家はダメなんです」

 男は少しの間、真剣そうに悩んでから、「うちに来る?」と言った。

 他に当てという当てもなかったので、流されるままに私は男の家へと向かった。


 男は何も要らないと言ったが、私は宿泊代に私を提供した。それが私の初めてだった。

 男の心からの親切心が私には痛かった。何というか、眩しすぎた。見返りなしに人に親切をされる価値が自分にあるとは到底思えなかったし、何らかの「理由のようなもの」が欲しかったのだと思う。後から見返しても自分で納得できる、価値のあるものが。処女を捨てる相手に特に拘りがあったわけでもないが、幸いにして男は私好みの風貌であったし、そういったことにもある程度手馴れているようだったから、私にとっては都合が良かった。

 男とは連絡先は交換しなかったし、次に会う約束もしなかった。本当にそれだけの関係だったが、私にはが丁度よく、心地よかった。 

「名前は?」

 帰り際、男が訊いてきた。

です」

 私は答えた。 

 偽名だった。


「友達の家に泊まる」と家には適当な連絡をし、私は次の日になってから私は帰宅した。

 家族は何も言わなかった。言ってくれなかった。

 学校へ行ってもそうだった。雰囲気が変わるわけでも、垢ぬけるわけでもなさそうだった。

 こんなものなのか、と思った。世界は絶望的なまでに、何も変わらなかった。

 勉強も運動もできない。秀でた分野があるわけでもない。特に興味のない話題で好きでもない人たちと盛り上がれる才能もない。振り撒く愛想もない。私は私に残された唯一の武器らしきものは、どうやら若さと人並みの容姿くらいのものだという結論に至った。 

 放課後になると、私はあの男と会った駅の改札口に行く。多目的トイレに入って、学生服を脱いでカバンにしまう。それと入れ替わりに「すみれちゃん」に着替える。

 アイシャドウを濃い目に引き、

 人目を惹く派手な色のウィッグを付け、

 上下を露出の多い服に着替えて、

 繁華街へ繰り出し声をかけられるの待つ。

 多い時では一晩で五、六人以上も関係を持つこともあった。お金を貰わず趣味ですることも、同年代の子たちに買われることもあった。どのケースでも、決して深入りはしなかった。

 別段お金に困っているわけでもない。愛情に飢えているわけでもないと思う。

 私にとってこれは、価値の確認行為なのだ。辛うじて自分に残された、この世界に居ても良いと思えるだけの命綱、私という存在を繋ぎ止めるためのわずかな楔。

 お金だけが手元に残された。虚しい? そんなことは決してない。人並み以上にお金を持っていても、お金の大事さは嫌というほど言い聞かされてきた。それに何よりも、人は人を裏切るが、お金は人を裏切らない。そのお金で私はまた新しい服や、化粧品や、香水や、アクセを買うことができるのだ。その分だけ、「すみれちゃん」に投資をできるのだ。 


 女性の色情狂をニンフォマニアと呼ぶらしい。ニンフ。妖精。男を誘惑し拐かす魔性。それに自分を並べるのは傲慢だろうか。けれど私は、男の人に抱かれているわずかな間だけは、自分が「ここにいていいのだ」と確かな安心を持てるのだった。


       ◆


 私には、学校で友達と呼べる人が一人もいない。残念だけれど、仕方ない。自分のことすら好きになれない人間が、他人を好きになれる筈が無いのだから。でも、ひとりぼっちでいるのは堪らなく寂しい。他人から必要とされないなんて耐えられない。この広い世界の中で誰とも繋がらずにいるのは心の底から虚しい。だから、私は。


 妖精になって、今日も夜の街へ出る。



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