Ep.38-2 闇の中の彷徨


       ◆

 

 学校生活を送るにあたって一番憂鬱な時間は、なんといってもやはり授業と授業の合間の休み時間。10分というのはいかにも中途半端だ。何かをするには短すぎ、何もしないのには長すぎる。昼休みと違って図書室や食堂、購買部に逃げ込んでやり過ごそうにも、エアポケットのようにぽっかりと空いたその時間は、キャンバスの片隅にある、どうしても塗りつぶせない塗り残しのように、私の神経を着々と蝕む。そのうちにじりじりと焦がすような時間が経って、また授業が始まる。その繰り返しで一日は終わる。喧騒に包まれた教室の前方から、ちらちらと視線を感じる。根暗、ぼっち、陰キャ。そんな悪意が私の中に雪崩れ込んでくる。無意識な目線が私を射抜く。……どうして放っておいてくれないのだろう。

 机の上に突っ伏した。狸寝入りのつもりだった。端から見たら泣いているように見えるかもしれないが、この際知ったことではない。

 ひんやりとした木製の机の感触が、額と頬に沁みた。

 私の斜め前辺りで、男子二人が話している。聞きたくないのに、言葉の羅列が勝手に耳に飛び込んでくる。「お前、彼女ともうやった?」「いや、まだだけど」きっと話題が、性的なことだからだ。私はここのところずっと、男の人、それも性欲に関することを調べていた。「マジ? なんか理由でもあんの? メンヘラちゃんとか?」「いや、全然普通の子。でもなんか、まだ大切にしておきたくてさ」「拗らせすぎだろ」「確かに、漫画の読みすぎかも」 

 そんな「普通の青春」とやらを謳歌している方々の言葉を聞いているうちに、

 何故だか途端に、自信がなくなってきた。

 気の抜けた炭酸のように、旬を過ぎた果物のように、自分の中に蓄えられていた価値が一気に目減りしていっているように感じた。うだるような初夏の蒸し暑さとは別のところで、身体の芯の芯が、溶けるように熱い。

 がたり、とわざとらしく音を立てて椅子を引いて、立った。そのまま、視線を上げる。 

 先ほどの男二人が何事かと振り向いた。たいして格好良くもない見た目の、文科系の男子たちで、意外だった。私は足早に教室から出て、背骨を軋ませ、トイレの個室へ滑り込んだ。


 放課後の私をイメージする。

 すみれ。ヴァイオレット。もう一人の、私。

 私を縛るものなんて何もない。どこまでも大胆で、自由で、日常のわずらわしい桎梏しっこくから解き放たれた、青と赤の濃淡が混じり合う曖昧な世界で、いつまでも堕落していられる至福。

 時間は、どれくらい過ぎただろうか。懐中時計を取り出し、針の動きを見る。……あと三分。もう少しで、予鈴が鳴る。それまでの辛抱だ。もうすぐ終わる。

 ふと、なんのけなしに金時計をひっくり返して、裏を眺めた。

 裏面には古めかしい訓令式で、呪わしき名前が彫られている。


   TOKIYAMA SIGURE 


 その中に、あった。

 もう一人の、私の名前が。


  TOKIYAMA SIGURE⑤⑥

    ↓ 

  SUMIRE①②③④⑤⑥


「ふふっ」

 思わず笑いが漏れた。本当に自分が滑稽に見えた。

 街中で私が笑いものにされているような気がした。

 結局、私がしていることは延々と自分の縮小コピーを続けているようなもので、以前していたリスカみたいに、心と体を切り刻んでいる自分に悦に浸っているだけで。     

 こんなことを続けていっても、ただ擦り減っていくだけで。

 

 どうして、周りの皆が普通に出来ていることが私にだけ出来ないのだろう。周りの皆が当たり前に出来て、教えられなくても自然と身に着けるはずのふるまいが、私には耐えがたい負担になるのだろう。 

 たとえば愛想笑い。他愛のない世間話。気の利いた受け返し。本音と建前。社交辞令と本気の誘いの効果的な見分け方。話すときは相手の目を見てゆっくり喋ること。

 こんな単純な不文律が守れない。この程度のゲームもまともにこなせない。

 いくつかの、ほんの細やかなハードルを乗り越えて、周りの皆はこんなにも日々を謳歌しているのに。いつだって今が楽しくて、ただ生きているだけで嬉しそうに、かけがえのない青春とやらを噛み締めているというのに。

 それに比べて、私は。

 ……何もしていない。壊滅的なまでに何もしていない。衝動的な欲望で援助交際をして、束の間の変身願望に縋って、「本当の私」とやらを見つけた気になっている。

 近頃はそれさえも限界が近いことをひしひしと感じていた。セックスを出汁になけなしの承認欲求を満たすのにもいい加減に飽き飽きしていた。

 こんなにも、私は、脆い。

 ただお金を貰って機械的に股を開いてする程度の、価値の再確認。

 ……それだけ。

 十七歳になってしまった。こんなにも何もできないまま。もう取り返しはつかないどうしようもなくやり直せない。だって時間は戻ってくれない。どうやっても戻ってくれない。


 。 


 教室に戻って、自分の席に戻ろうとして。

 ふと、周りの風景が、蜃気楼めいているのに気が付いた。靄でもかかったかのようにうっすらと視界がぼやけて、像が巧く結べない。

 不意に、大粒の半透明な宝石のようなものが二、三、リノリウムの床へぶつかって、はじけた。そのまま無造作に辺りに散らばった。

 しゃがみこんで、拾おうとして。 

「え、あれ……?」

 それが自分の両の目から零れ落ちたものなのだと気付くことが出来なかった。

「え」「なになに」「どしたの?」「……泣いてる?」「大丈夫?」

 周りに人が寄ってくる。

「ちょっと、具合が悪くて」

 駆け寄ってきた数人の男子の瞳の中に淡い期待と好奇の視線が含まれていたのを、私はしかと感じ取った。それと同時に数人の女子が怪訝そうな視線でこちらを見ていたことも、私は見逃さなかった。


 保健室とはいえ制服でベッドに寝ているというのは、妙な居心地だった。

 涙の理由は、飼っていた金糸雀かなりやが昨日急に死んじゃった、ということにした。

 〝朱鷺山しぐれカナリヤ哀悼事件〟はその日のうちにあっという間に広まった。

 偽ペットの死を悼む似非お嬢様の涙は、それほど注目の的に値する出来事なのだろうか。 

 いつだって事件に飢えている。自らの日常を劇的に彩ってくれるちょっとした出来事を追い求めている。笑ってしまうことに、私を保健室へと送り届けた男子と私は恋仲であり、一度破局して最近になって復縁したことまで尾鰭が付いていた。

 ひょっとしたらいつかこんな噂も出来てしまうかもしれない。


【美桜南高校2年A組の朱鷺山しぐれ、パパ活に手を染めているとの噂】


 噂。あくまで噂。真実の一端を捉えていることに違いはないが、だいじょうぶ。

 こんなクラスの片隅でいつも目立たない普段なら歯牙にもかけない地味子が一躍注目の的になったのを妬んでいるだけなのだ。そう、きっとあの男子たちの内の誰かに気になる相手でもいたのだろう、よくある可愛らしい焼きもちだ。 

 ほんの一瞬でも男子たちの気を引いたことに対する……嫉妬だ。


 今日だけで一か月分くらいクラスメイトと話した。

 心臓が早鐘を打っている。こんなことは初めてだ。

「ねー朱鷺山さんてぇ、今、彼氏いるの?」

 気怠そうな雰囲気の女子に声をかけられた。

 髪を染め、両耳には大きなピアス。首にはチョーカー。この学校には多いタイプだ。全てを投げ出して、投げ出した振りをして、奇妙な安心感と万能感に浸る人間。

「……いないよ」私は平静を装い、応える。「家がそういうの、厳しいから」

「へぇー。大変そう。お金持ち? だもんね」

 全然「大変そう」な感じじゃなかった。

「今までいたことは?」

「ないよ」

「あ、じゃあまだ全然経験ないんだ」

 ……う。

「う、ん」

 言葉が詰まる。笑顔が引き攣る。

 ……お願い。

 出てきて、すみれちゃん。

 夜な夜な繁華街で男たちを魅了するように、

 別人になってこの子たちを黙らせて。

「じゃあ、この後、合コンすんだけどさ、来ない?」 

 たかが四十人ちょっとの空間で椅子取りゲームをして喜んでいる軽佻浮薄けいちょうふはくなこいつらを。一刻も早く蹴散らかして。

「よ、用事あるから」

 上ずった声で、私は答える。すみれちゃんはまだ出てこない。逃げるように教室を出た。


 空っぽの体内に、次々と音が鳴り響く。 

 は?なにアイツ。折角誘ってあげたのに。にぎやかし要員だってコト分かんないのカナ?無理に誘っちゃ可哀想だよぉほらあの子は放課後のお小遣い稼ぎで忙しいから。誰にも股開くなんてサイテー大人しそうな顔してありえない。ビョーキとか怖くないのカナ?お嬢様はそんなの気にしないんじゃない?お金が沢山あるから……

 ……空耳。これは空耳だ。そんなことは誰も言ってない。言っているわけがない。


「ねえ朱鷺山さん」

 咄嗟に振り向く。

 教室を出た私を追いかけるように、一人の女の子が立っていた。

 さっきとは別の子だった。

 まっすぐに、私を見つめて、

「また誘うから、今度は来てね」

 と、彼女は言った。 

 笑顔だった。

 ほのかな安堵に包まれた私を見て、

 彼女は、

 くすりと笑った。 

 心底、

 可笑しそうに。


       ◇◆◇


 ああ、そうだ。思い出した。

 だから気に食わない。気に入らない。

 この女の視線は、いつだって私を上から観ている。

 憐れみと優しさを同時に湛えた視線で、あの日の私を思い起こさせる。

 人の優しさに怯えて逃げ回るしかなかった、

 無力な子ウサギでしかなかった、

 を。










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