三十九節 「境界」

Ep.39-1 完全な悪魔

       ❀❀❀


 視界の隅で、花が散っていた。一枚に見えた花弁は、空中ではらりと二つに分裂し、それぞれ別の方向へ旋回しながら消えていった。

 奇妙な……いやに示唆的な光景だった。あるいはこんな考えも、死に瀕した僕の恣意によるものなのかもしれないけれど……。 

 朦朧とした意識の中で、ふと、「あること」を思い出した。夜空を縦に割く雷のように、その考えは僕の思考を刹那、駆け抜けた。

 夜中の路地裏。白兎に導かれ不思議の国へ無邪気に駆けるように……権能『奇怪な童話イマジナリー・フレンズ』により「もう一人の自分」を召喚した、加賀美アリス。

 自己幻視ドッペルゲンガー

 同時存在バイロケーション

 。 

 俗に、【世の中には自分と似ている人間が三人はいる】という。その言説が謬説として一蹴されかねないものだとしても、僕は何か、確信めいたものを持って、真実がその先にあるような気がしていた。

 僕は既に、核心とも言える真相にすでに手を触れていたのかもしれない。

 真実が眠る扉の前を、何度も何度も素通りしてきたのかもしれない……。

 

 先ほどまで三神麻里亜の姿で、口調で僕に話しかけていた男は、更に容貌を変異させていた。僕を冷徹に見下す姿は、宇宙センターで業火に飲まれた筈の、法条暁。

「そうか……。君は。誰でもあるけれど、

 勿論、法条は既にいない。死んでいる。

 つまり、目の前にいるのは法条ではない。

 言葉遊びにすらなっていない論理だ。

「ああ……。君は、

 ここに来てようやく、僕は目の前の男の本性、その片鱗に触れたのだ。


「しぐれを唆したのは君だね」僕は言った。

「人聞きが悪いですね。あれはあくまで、彼女の意志ですよ」彼は言った。

「でも煽ったのは君だろう」僕は訊いた。

「まあ、そうかもしれませんわね」誰でもない彼女は臆面もなく答えた。「だが……実行に移したのはあくまで、あの女の意志だ。揺るぎのない殺意だ。人はなるようにしかならない……が、」彼は答えた。

 誰が誰と話しているのか、話している僕ですら把握できなくなってきた。

 そうか。でも、操さんの仇でもあるわけだ、君は。


 果たして、この権能を自分が使っても良いものなのだろうか、との懸念が脳の片隅を掠めたが、迷っている暇はなかい。僕は再び、地獄の戦闘へと戻るかしかないのだ。少なくとも、今のところは。まだ確かめたいものが、いくつかある。


 僕は静かに、ずっと前に一度使っただけの、その権能を起動させた。


『時計仕掛けの少女』はちゃんと発動した。どうやら、葉月と相対しているであろうしぐれはまだ存命中らしかった。さぞかし奮戦しているのだろう。


 僕の目の前に立つ男の姿は、法条の事務所でいつか観た不思議な夢のように、舞い落ちる木の葉のように、床屋の看板のようにぐるぐると移り変わり……

 最後に一人の、

 今となっては懐かしささえ覚えるような、

 物憂げな表情を湛えた少年の姿になったとき……僕は大体の事情を察知した。以前見せた歪んだ笑顔と、過去二度の接触。そして今、僕が彼とこうして向かい合っていることの本当の意味。仕掛けられた罠の意味を、漸く……。


 今度こそ、完全に、察知した。 


 そうだとすれば……。もし、××が、この件に噛んでいるのだとすれば。

 何もかもが、取り返しのつかないことになる。

 僕は黙って立ち上がる。幾ばくかの犠牲と引き換えに回復した身体に、彼は何も投げかけなかった。そんなことが分からないほどに、また彼も無粋ではなかった。


「……納得したよ。僕は君とよく似ている。正確には、が僕と似ている、だけれどね」

 彼は肩をすくめ、口を開く。心なしか悲しげで、それ以上に嬉しそうだった。

「俺もあんたも同じだよ。確固たる自分がないんだろう? 信念とか、リソウとか、

命を懸けるに値する崇高な目標とやらがさ。

 下らねえよな、そんなもん。俺もそう思うよ。

 だから何にもなれるんだ。仮面をかぶるみたいに、ゲームのカセットを入れ替えるみたいに、カードの手札を切るみたいに。探すべき自分なんて何処にもいない。自分探しなんて言って高々数百キロ向こうの国へ行ったくらいじゃ人間は何も変わらない。人はいつでもどこでも、どんな瞬間にも、本来的自己へ回帰できる。譬えるならあの赤毛の嬢ちゃんのように」


 虚無。いや、絶無か。

 彼は僕よりも、数段上だ。較べるのも烏滸がましい。何もかもが劣化品だ。

 正直、彼のことが怖い。いくつもの仮面を持って、それでいて正気を保てる彼が恐ろしい。一体、どんな苦しみなのだろうか。全てを自分一人で抱えて、それでいてなお笑っていられる超然さとは。

 きっと殺される。僕は思った。

 だからこそ、僕は再度立ち上がり、彼に問うた。


「君の口から教えて欲しいね、君の悪魔としての本性」

 それじゃあさんざん引っ張ったことだし、

 ここらで正体ばれと……行っとくか。

「旧くから伝わる神話には、いくつか繰り返し用いられる、というものが存在する。悪く言えばステレオタイプ。良く言えばモチーフ。

 漫画とかでもよくあるだろ?

 ああ、またこれか……みたいなキャラクター造形。

 奇妙な安心感と既視感が同居した、「みんな納得の」雛型。

 黒髪ロングなら清楚系、とか。

 幼馴染は敗けヒロイン、とか。

 三つ編み眼鏡な委員長、とか」

 譬えが三周ほど古臭い気がしたが、それはまあ目を瞑っておこう。話が観念的に過ぎるよりは、幾分ましだろうから。

「とあるオカルト趣味の心理学者は、そんな「型」をこう言ってたっけな……。

 元型archetype、と。

 shadow

 アニマanima

 アニムスanimus

 太母great mother

 老賢者old wise man

 そして、トリックスターtrickster……」 

 男は流暢な発音で、淀みなく言葉を繋ぎ続ける。

 ああそうか。納得した。だから彼は、なんて偽名を名乗っていたのか。北欧神話におけるロキは正に、自由気ままな悪戯者トリックスターの好例だ。

 好きなだけ物語に介入し、掻き乱し、破壊し、革新し続ける傍迷惑な存在。秩序の破壊者。八代みかげも、恐らくはここだろう。 

 

「……それで、君は何を象った《元型》だって言うんだ?」



 彼は短く、そう答えた。

 それはつまり、

〈誰でもあるがゆえに〉誰の能力でも自在に引き出せるということ。

 ゆえに完全。

 ゆえに完璧。

 誰の要素でも併せ持っているが故の

 

 だから俺は誰から観ても嫌われる。

 誰だって自分の姿を、鏡の向こう側の瓜二つの自分を、直視したくはないだろうからな。それが誰かに取り込まれた姿なら猶更だ。あまり気持ちの良いものじゃない。

 

。ある一つの時代。。神的存在。。……人間の本来的自己の覚醒を促す、啓示者にして救済者」


 至高者にして求道者、おまけに救済者と来てる。流石に、属性を盛りすぎではないだろうか。そんなことも、彼にとっては些細とも言えない問題なのだろうけれど。

 

 彼は信託でも下すように、遂に自らの悪魔名を告げた。


「aeon. ……神的火花、アイオーンだよ」




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