三十七節 「孤独」
Ep.37-1 八月二十二日・美桜市民ホール(前編)
八月二十二日、午後十一時。
閉館時間をとうに過ぎ、闇と静寂に包まれた市民ホール。そこへ続く一本道を、一台の車が駆けていた。川面を滑るアメンボのように、夜の道を走っていた。
「いよいよ……大詰めですね」
助手席の天城真琴は、運転席の探偵を見る。これまで師と仰いできた、親子ほども年の離れた男を。
「ああ、そのようだね」
「紗希さんたちは、もう到着したでしょうか」
「彼女は時間に厳しいからね。とっくに着いて、今頃は如月さんたちに説教を垂れているかも」
「紗希さんなら十分に考えられますね……」
「あの説教癖だけは止めて欲しいものだよ」
益体もない会話を交わしているうちに、今宵の決戦の舞台が見えてくる。
湖畔近くに車を停め、天城と連城は外へ出た。
湖に浮かぶ小島を占拠するように聳えるは、博物館か古城のような外観の、壮麗な市民ホール。市街地から離れた辺鄙な林の中にこんな施設を建てるとは、税金の使いどころを誤っているようにしか思えないが、市民の不満の声は特にない。ハレの祭りやイベントは、こういった非日常じみた空間で催すからこそ、人の記憶に残るのだ。彼らは一通り目指す場所を眺め終えると、再び車へ乗り込み、小島へと続く跳ね橋を渡り始めた。罠が仕掛けられている様子はなかったが、彼らが渡り終えてから間髪を入れずに、橋は金属音を立てて上がり、外部との連絡通路は早々に途絶えた。
「仕事の早いことで」
連城は苦笑し、この瞬間も自分たちの姿を何処からか捉えているであろう敵へと皮肉めいた賛辞を送った。
そのまま安全運転で地下二階に相当する駐車場へ入り、片隅に駐車する。二人はほっと溜息をついてからシートベルトを外すと、車から外へ出た。熱気と埃臭さが漂った地下駐車場を横切り、地上階を目指す。市民ホールは地下二階、地上四階の六階建て構造だが、地下と地上の境界は半地下構造になっており、フードコートやミニシアター、ゲームセンターなどの遊興施設がところせましと並んでいた。当然、今は無人だ。半地下エリアを抜け、二人は一番奥の中庭広場へと足を踏み入れる。人工芝なのか、靴底に奇妙な弾力があった。中庭はショッピングモールのように吹き抜けになっており、ここから地上にある四階部分の全容が見渡せた。いくつかの部屋から明かりが漏れていたが、人影は見えない。
人目を惹く奇妙なモニュメントを目印に、天城が権能『密室の行人』を用い、唯一の脱出口となる出口を設置する。首尾は上々と言って差し支えなかった。
「うまく行きましたね」
そう言って天城が人気のないエントランスへと足取りを向けたそのとき、
「天城君。君はここで引き返せ」
連城はいつになく、有無を言わさぬ口調でそう言い切った。
「……どうしてですか」
「君にはもうこれ以上、危険な橋を渡らせたくはない」
今しがた橋を渡ったばかりの二人には、妙な説得力のある表現だった。
「それは……。危険なのは、先生だって紗希さんだって一緒ですよ。ここまで付き合ったんです。どうせなら、最後までお供させてください」
「いいや。駄目だ。君とは残念ながら、ひとまずここでお別れだね」
「先生……」
連城は空を仰ぎ、煙草を取り出した。自分の前では一度も喫煙はしなかったので、天城は少し面食らった。
「君も吸うかい」
「いえ、僕はいいです。目の前で吸われる分には気にしないので、どうぞ」
連城は慣れた手つきで火を点け、紫煙をくゆらせた。
「もう待ち合わせまで時間もないのだがね。五分……この煙草を吸い終わるまでだ。少しだけ、我が助手に昔話をしようか」
連城は滔々と語り始めた。
「昔あるところにね、頭脳も明晰で人当たりも良い、人気者な少年がいた」
天城は黙って聞いていた。
「彼は自分の醸す魅力に自惚れるでもなく、謙遜するでもなく、ただ自分の能力の成果を享受していた。あるがままにね。きっと毎日が楽しく、新鮮で、輝いて見えていたんだろう」
生暖かい夜風が中庭を吹き抜けた。
「だけど彼はある日、不幸なことに気が付いてしまうんだ。大概のものは思うように手に入ったし、願って叶えられないものは殆どなかった。けれどね、それだけなんだよ。その先がないんだ。そこからの彼の人生は茶番でしかなくなった。全てが予定調和で、思うようにしか行かなくなった。思うようにいかないよりかは良いのかもしれないけれど、彼の人生はとうに詰んでいたんだよ。当たり前のことを当たり前にこなせない、当たり前の感情を当たり前に感じられない、ただそれだけの、それゆえに決定的な欠落なんだ」
煙草の先がわずかに揺れ、燃え殻がいくつか地に落ちた。
「彼は空っぽだったのさ。そして救えないことに、空っぽなまま成長して、空っぽな大人になってしまった。もう……やり直せない」
天城は何も答えなかった。
「とうの昔に終わっていたのさ。僕という人間は。だから、もう一度生まれ変わりたい。人に非ざる神という立場に身を置いてね」
いつの間にか「彼」は「僕」へと変わっていたが、そこにはきっと意味なんてものはなかった。
「皆、そうなんじゃないですか。僕にだって、そういう時期はありましたよ。変に達観してカッコつけてみたり、敢えて周囲とは相容れない選択をしてみたり。でも、皆そんなものなんだと思います」
天城は続ける。
「茶番みたいな世界の中でも、もし、一時でも、ほんの一瞬でも。楽しかったり嬉しかったりすれば、それで十分に満足できるものだと思うんです。その一瞬一瞬の積み重ねが、人生を豊かにしてくれると……」
天城の言葉は、不意な告白によって遮られた。
「麻里亜くんを殺したのは僕だ」
天城が小さく息をのむのが、連城にもはっきりと分かった。
「分かっていて見殺した。霧崎道流に倒されたのは、避けようのない彼女の命運だったのさ。だから僕は他の目的のため……自身の勝利のために三神麻里亜を切り捨てた。悪く思わないでくれ。このゲームはそういう闘争で、僕は所詮そういう人間だ」
連城は天城の肩に手を置き、
「失望したかい」
と問うた。
「……少なくとも僕は、今ここで、こうして先生と話せたことを、貴方の本音を少しでも聞けたことを、嬉しく思いますよ」
天城は目を伏し、その先を続けた。
「出来ればもっと早く、もっと沢山のことを話したかったです」
「……時間は終わりだ。今まで楽しかったよ、我が助手。世界の終末まで、心穏やかに過ごしたまえ」
連城は軽く手を振ると、エントランスへ続く通路へ溶暗していった。
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