四十二節 「落葉」
Ep.42-1 雪の朝の記憶
雪が舞っていた。
……錯覚に違いはない。彼らがいる場所は紛れもなく屋内で、季節は夏だ。けれど葉月は抱きしめた弟を真っ直ぐに見つめて、懐かしむように、ある冬の日の想い出を口にした。
「ねぇ、さっちゃん。クロエのこと、覚えてる? 昔うちで飼っていた、さっちゃんが好きだった猫だよ。もう十年くらいも前かなあ。冬の日の朝に、死んじゃったの」
❆❆❆
忘れられない。忘れられるはずがない。
あの日は確か、早晩から雪が舞っていた。深々と降り積もっていく雪はこれまであった世界を丸ごと塗り替えてしまうようで、まだ幼い彼は酷く不安に駆られたのだ。
寝ぼけ眼を擦り階段を降りると、リビングで猫が死んでいた。
動きを止めて、横ばいで小さく丸まったまま、傍目から観れば、昨夜からずっと続けて、気持ちよく眠っているかのように死んでいた。蹲った黒い毛玉は、しかしもう二度と生前のように動きはしない。
それだけのことが、当時の彼には理解できなかった。
「埋めてきなさい」
父と母の言葉。素っ気なく、それでいて優しい言葉。母はクロエと呼ばれていた猫を小さな毛布に包み、姉へと手渡した。
葉月は唇の下をぎゅっと噛んで、何も言わなかった。まだ起きたばかりの弟を振り返って、
「いくよ、さっちゃん」とだけ言った。
皐月はまだ、不思議そうに猫の目を見つめていた。ヒスイかメノウのような宝石みたいな円らな瞳。ぴったりと固く閉じられた瞳は、もう二度と開く気配を見せない。
もう二度と観られないのだ。クロエは自分たちの顔も、家のリビングも。好きなキャットフードも、もう二度と食べられない。葉月は自分のことのように、胸の中が苦しくなった。自分の中の大事な欠片が永久に失われてしまったような錯覚に陥った。自然と、毛布を抱く腕がこわばった。
無言のままの皐月を伴って、葉月は一面の銀世界へと一歩を踏み出した。
積雪を踏みしめながら、姉弟は――十二歳の姉と七歳の弟は冬の路を辿り始めた。二人は分厚い長靴を履いてきたのだけれど、朝日に溶けた雪が靴底へと侵入し始めて、ぬかるんだ地面を歩いているような、奇妙な感触が靴底に伝わってくる。
それでも文句のひとつも漏らさずに、二人は進み続ける。見なくてはいけないものを見るために。知らなくてはいけないことを知るために。二人は雪の被った丘を進み続ける。やがて天辺に辿り着き、葉月は猫の死骸を皐月へと手渡して、しゃがんでスコップで深い穴を掘り始めた。懸命に、懸命に。雪を押しのけ、大地を穿つように掘り続けた。暗い、暗い土の底を覗き込んで、二人は恐怖を覚えた。
だって二人は、まだ、生きているのだから。
……皐月はクロエを抱えたまま、逃げるようにその場から駆け出した。
…………。
始まりは、雪が深々と降り積もる、ある冬の日の朝。
「ねえ、どうして動かないの」
「クロエはね、ここから遠い所へ旅立ったんだよ」
「もう、戻ってこられないの? クロエには会えないの?」
「ああ。さあ、お放し。クロエを埋めに行こう」
「嫌だ、嫌だよ。埋めたらもう会えなくなっちゃう……」
「仕方ないよ。どんな生き物もいつかは死ぬ運命なのだから」
死。それは七歳の皐月が体験する初めての死だった。皐月にはあまりにも深淵で、残酷な言葉だった。
死は生物にとって最大の恐怖であり、避けられぬ宿命であり、克服し得ぬ現実。皐月がそう理解するには、
「いつか……お姉ちゃんも死ぬの? お母さんも?」
「うん、残念ながらね。死はこの世に生を受けたもの全てに平等に課される、宿題みたいなものなんだよ。仕方ないんだ」
「そんなのいやだ。いやだよ。死にたくない。誰にも死んでほしくない。お姉ちゃんも死なないでよ」
姉は悲しそうに微笑んで、皐月の頭に積もった雪を優しく振り払った。
「さあ、風邪を引くといけないからもう家へ帰ろう」
雪は二人を包み込むように、まるで二人を世界から切り離すように降り続いていた。
それはもう思い出せない筈の記憶。如月皐月の原初の記憶。そして皐月は、また遠い夢を見る。
夢を、見続けている。
幸せだったころの家庭。父も母も姉もクロエも誰一人欠けることなく、安穏だけど少し退屈で、そんな時間が当たり前のようにずっと続いていくと皐月は思っていた。
……けれど。そうはならなかった。
なってくれなかった。
幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭は皆それぞれ違って不幸だ。
あの冬の日から、雪だけのせいでなく冷たくなってしまったクロエを抱いたあの朝から、皐月はもう、ずっと夢を見ているのだ。
母の大病。入院。お見舞い。否応にもちらつく死という単語。もう二度と会えなくなってしまう別れ。父の横暴。夜な夜な繰り返される暴力。博打。酒。女との浮気。
坂道を転げ落ちるように、日に日に状況は悪くなっていった。どこにも手の打ちようがなかった。櫛の歯が欠けるように、崩壊の一途を辿っていった。まだ少年になりかけたばかりの皐月には、何が悪いのかさえも分からなかった。日に日におかしくなっていく家庭。見た目だけは明るく振舞っていても、自室では毎夜泣いていた姉。力になってあげたかった。家族を守るのは自分の役目だと思っていた。
……けれど。そうはならなかった。
なれなかった。
姉を守ることも姉を止めることもできずただ眺めているしかなかった。ただ無力で、歪みきった現実を見ているしかなかった。父親を惨殺した姉の素顔。とっくの昔に壊れていたのだ。姉も、自分も、父親も、家族も。いつか、全てが元に戻る日が来ると思っていた。
……けれど。そうはならなかった。
なるはずがなかった。
❆❆❆
身勝手な回想を打ち破るように、ホールの扉が開け放たれた。
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