Ep.34-2 敗残者たち
葉月の母親の姿は、何処か超然とした雰囲気を湛えていて、何もにも犯しがたい神聖なもののように感ぜられた。
「他人の願いから生まれた者か。ふふ、冥府から蘇った影法師が、現実へ影を落とそうというのか?」
褐色の女悪魔は、皮肉めいた口調でそう問う。
「私は今、ここにいます。それだけで、意味があるのではないでしょうか」
「多重契約の影響で、汝の身勝手は連城にも伝わるぞ。奴が願った汝の蘇生を、最高位の祝福を、無碍にする気なのか?」
「大丈夫です。連城さんも、分かってくれていると思います」
問いかけも、嘲笑も、彼女には無意味だった。僕は確信する。葉月の無鉄砲さや愚直さは、きっとこの人譲りなのだろうと。
悪魔は葉月の方を見やり、
「致命傷からの蘇生か。あるいは事象の逆転、否定か。単なる治癒でも相当な対価がいるぞ。それこそ、汝の存在全てを賭けるような覚悟がな」
「私は消えるわけではありません。元居た場所に還るだけ」
ただ純然と。為すべきことを為す。
「ママ……。どうして、何で、折角また会えたのに!」
血濡れた叫びは、劈くように僕の耳朶を打った。
「大丈夫よ、はっちゃん。あなたはもう、大人になったの。もう、私がいなくても、自分の足で進んでいけるわ」
何にも染まらず、何の見返りも求めずに。……無償の愛。
「待って、行かないで! 話したいことが沢山あるの! だってまだ、会ったばかりじゃない! それなのに、こんな……」
「はっちゃん。大人になるということはね、与えられる側から与える側になることなの。「自分が」ではなく「他人のために」、心から何かをしたいと思った時に、人は大人になるのよ。だからこれは、私からの最後の贈り物」
「嫌だ、ママ! いや、行かないで!」
「葉月……!」
なんとか声を絞り出す。
しぐれはいつまでも、子を庇う無防備な母親の前で立ち尽くしていた。腕を振り下ろそうとしては力なく垂れ下げ、歯を食いしばって僕らを見つめていた。
きっと母の姿が、美しかったから。何にも代えて、月夜の下で煌めくように佇む死者の姿が。
「権能――『
彼女が呟くとともに、光の玉に包まれ、渦が巻く。傷ついた身体が癒え、痛みも引いていった。きっとこの場の誰もが、澄み渡った心持でいたのだと思う。
戦闘意欲の否定。暴力行為の無効。敵味方問わない完全な治癒。過ぎるくらいの贈り物だった。やよいさんの姿は、宙に浮かぶ光球に包まれ、次第に見えなくなっていった。麻里亜の権能と同じだ。強すぎる権能、他者へ莫大な影響を及ぼす権能は、自分自身の犠牲が不可欠となる。
霞がかって彼女の姿が見えなくなったころ、
「一つ、言い忘れていたわね」
澄み渡った空間に、柔らかな声が響く。
《22歳のお誕生日……おめでとう》
いつの間にか時刻は、十二時を過ぎていた。
八月十八日。葉月の誕生日だ。
低く唸るような声が、側から聞こえてきた。涙が落ちる音で、葉月が嗚咽しているのだと分かった。
……完敗だった。何もかも。僕は、僕たちは何もできなかった。
きっと心の何処かで慢心していたのだろう。何を思い上がっていたのだ、これまでもさんざん身に沁みて痛感してきたじゃないか、こんなにも脆く、呆気なく、人の命は消え去ってしまうことに。自分たちは狩る側でも何でもなかった。立場はいくらでも逆転してしまう。本当に、何を油断していたのだ。
……完膚なきまでに僕たちはやられたのだ。
しぐれはいつの間にか姿を消していた。彼女なりの弔意だったのかもしれない。操さんの遺体は葉月と運び、病院の裏手の見晴らしの良い小高い丘に埋めた。ここならきっと、操さんも喜んでくれるはずだ。
闇と静寂だけが、僕たちの間に在った。
「やあ、ここにいたんだね」
夜の闇が打ち破られたのは、それから半時ほどが経過してからだった。
懐中電灯の明かりとともにやってきたのは、連城、天城、そして長身の女性だった。鷺宮紗希、麻里亜の叔母に当たる人物であるらしい。
「済まなかったね。まさか、あれほどとは。僕たち三人がかりでも、彼女はお手上げだったよ」
口ぶりは剽軽だったが、表情からは抑えきれぬ憔悴と疲労が感じられた。軽そうに見えて案外、内に貯め込むタイプなのかもしれない。
無言の葉月に代わって、僕は連城と向き合う。
「連城さん、あなたはこれから、どうするつもりなんですか?」
連城は俯き、暫し迷うようにしてから顔を上げた。
「正直に言って、僕は未だに迷っていてね。この先どうすべきかも、良くわからないのさ。お節介ながら、ひょっとしたら君たちも、そうなのではないかと思ってね。何か話が出来たらと思っていたところなんだ」
連城は頭を掻き、再度僕たちへ向き直る。
「提案がある。僕たちと同盟を組まないか」
僕と葉月は顔を見合わせた。
「君たちは朱鷺山しぐれと金牛宮を。僕たちは八代みかげを。それだけのための同盟だ。目的さえ果たせれば、一向に破棄してもらって構わない」
訝しんでいるのかと思われたのか、顔見知りの天城から声を掛けられた。
「こういった形でお逢いすることになるとは思いませんでしたが、良ければ、前向きに検討してみてください。僕にも先生にも、紗希さんにも、あなたたちを傷つける理由はないんです」
鷺宮は天城を嗜めるように見据えていたが、そんな言葉をかけてくれるだけでも今の僕には有難かった。
「……」「……」
僕たちは無言だった。答えを出すには、まだ早すぎるような気がした。
「もし気が向いたら、今度事務所へ来てくれないかい。美味しい紅茶か珈琲を入れてお待ちしているよ」
連城は、鷺宮と天城に労りの言葉を掛けると、僕たちに背を向けた。
神経が冴え渡っていた。だから去り際、連城が鷺宮と小声で交わしていた会話も、途切れ途切れに聞こえてきた。
連城は、あるいは僕に聞こえるように、そんな会話をしたのかもしれない。
「……城。どうして、彼女に教えてあげないんだ?」
「何故、一度失ったものを、もう一度失わなければならないんだい? そんな救いのない道化を演じるのは、この僕だけで十分なのさ」
傷ついた葉月に声をかけることはしなかった。やよいさんの消失に言及することもしなかった。
それは君の役目だ、というように。連城は背を向け、去っていった。
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