三十四節 「犠牲」

Ep.34-1 名前のない女


       ◆


 恐らくは、何処か遠い異国の戦場。

 風に乗った熱砂は間断なく頬を打ち、乾いた大地からの放射熱は身体を芯まで貫く。構え、照準を合わせ、引き金を引く。その繰り返し。

 夜な夜な繰り返される兵士たちによる凌辱。

 行き場のない少年兵であり大人たちの玩具でもある私たちに抗う術はない。

 延々とその繰り返し。

 飽きることもなく、変わることもなく。

 そんな地獄のような風景の中で、私の意識は生まれた。

 次第に感覚は麻痺してくる。外界と自己との境界は曖昧になり、何処までが自分の身体なのか、認識と実体が融けてゆく。寒い。ここは寒い。

 

 私を犯した兵士は泣いていた。故郷に残した妻子を思ったのだろうか、あるいは私の境遇に同情してくれたのだろうか。

 私は死にゆく彼に何を施し、与えることができたのだろうか。 

 何か、救いはあったのだろうか。

 結局、人は自分を救うことは出来ても、他人を救うことは出来ない。 

 救われるのは、救済を掴み取るのは自分自身の他にはないのだと。

 私たち人間は、他者との軋轢や、やり場のない憎しみを覚えても、まだ見ぬ誰かへの愛に置換し、誤魔化していくしかないのだと。

 

 戦争が、終わった。私は晴れて自由の身になった。行く場所はなく、会いたい人もなかった。

 私には何もなかった

 だからこそ

 これから私は、出逢う全ての人間を愛そう。愛されるようにしよう。その度に自己を作り替えて、借物で構わない、演技でも構わない。

 人を愛そう。愛されよう。

 そうでなければ魂が壊れてしまう。

 好意と悪意の区別がつかない自分には。

 きっと無関心こそが一番の恐怖だから。


       ◇


 ぼやけていた視界は徐々に光を取り戻し、像を結ぶ。

 久しぶりだからか、空間転移の前後の眩暈は今までの比ではなかった。

 僕たちはいつかアリスと命懸けの逃走劇を演じた、病院近くの雑木林へ辿り着いていた。即座に飛びたかったが、転移直後の反動は大きく、まだ視界はゆらゆらと揺れている。

 僕、葉月、葉月の母親(やよいさん)、そして、

「操さん!」

 黒いローブの人物に切り裂かれた傷は重かった。

 強い既視感。スローモーションのように時間が引き伸ばされて、延々と一箇所で停滞しているかのような酩酊感。

 麻里亜。アリス。操さん。

 一体僕は、何人喪い続ければ気が済むのだろうか。

 僕はまた、誰かを救えなかったのだろうか。

「君が責任を感じる必要はないよ」出逢った時のような口調で、操さんは言った。「……私の落ち度だ。全く、やってくれるよ、本当に」

 操さんは弱弱しくそう言って、目を閉じた。

「……来たわ。もう、居場所がバレたみたいね」

 葉月が顔を上げ、僕に知らせる。嫌な予感は的中していた。

 木々の向こうに、病院の門を抜けこちらへと向かってくる黒衣の姿が確認できた。

 早い。あまりに早すぎる。

 いつかの時のように、

 ――。

 

 予知?

 とうに脱落した悪魔の名前が脳裏をよぎったが、違う。

 八代、みかげ……?

 咄嗟にそう思ったが、神とはいえ、あれだけ弱った少女に、こんな所業が叶うとも思えなかった。

 だからこれは、単なる消去法。

 葉月じゃない。操さんでも連城でもない。勿論この僕でもない。

 あの場にいなかった人物。操さんが口にした、「彼女」。

 

 視るのではなく、識る能力。全てを意のままに把握する、神にも等しい悪魔。

 当て嵌まるのは、一人しかいなかった。

 葉月が駆けだす。動作に迷いはない。

 敵は葉月の姿を見止めると、フードのポケットから、先端に突起のついた長くしなやかな鞭を取り出すと、威嚇するようにそれを二三振って見せ、ゆっくりと近づいてくる。

 表情はない。赤い髪は艶を失くして、色褪せて見えた。まるで誰かに操られているような虚ろな瞳。あの華奢な体の何処にそんな力が秘められていたのか。薬で痛覚を遮断しているのか。疑問は尽きない。けれど、それがどうしたのだろう、現に朱鷺山しぐれは操さんに致命傷を負わせ葉月相手に互角以上の戦いをし僕たちをここまで追い詰め、僕たちを。

 ……殺そうと。

 あの日から敵になった朱鷺山しぐれは、今や葉月を圧倒するほどに、嘗ての彼女自身を凌駕していた。自分自身に権能を使っているのか、くらげのようにするりと躱したかと思うと、時間差で葉月の身体に鞭のようなものを打ち据える。恐らくは手許で時間流を操っているのか、軌道がまるで読めない。葉月の振るった剣先は虚しく空を切る。切り続ける。なまじ力が強いだけに、当たらなかった時の反動が仇となる。そうしている間にも鈍い衝撃が彼女の身体を打ち据える。線での斬撃と面での打擲ちょうちゃく。立体的な攻撃は直線の軌道を逸らし続けた。獲物を捕縛する蜘蛛のように、鞭が刀を絡めとったかと思うと、林の奥へ投げ去った。得物を喪った葉月に、容赦なく鞭の連撃が襲い掛かった。手足の肉を殺ぎ、脇腹を砕き、胸部を抉り、何の遠慮も韜晦とうかいもなしに、攻撃は続けられた。

 僕は見ていることしか出来ない。

 葉月が敗けるなんて考えられない。彼女はこれまでも、何度も絶体絶命だった。その度に危機を乗り切って、最後にはいつだって。なのにどうして。どうしてこんなことに。

 僕は見ていることしか出来ない。

「ああ……。君の手は、暖かいね」

 震えるように、操さんは口にする。

 葉月を無力化したしぐれは歩み寄ってくる。言葉はない。

 操さんはしぐれを見上げ、 

「最後に一つ、あなたに、良いことを教えてあげる」

 一呼吸おいて、続ける。

「……愛はね、もっとものよ」

 フードの人物……朱鷺山しぐれは答えなかった。投げかけられた言葉の意味を思案しているかのようだった。

 操さんは項垂れ、荒い呼吸を繰り返す。

「すいません。操さん。僕が、」掠れた声しか出ない。

「君はすぐに謝るね。……悪い癖だ。それでは折角の」

 続く言葉を聞くことは永遠に叶わなかった。

 目を閉じて、何処か満足げな表情で、操さんは眠っていた。黒い喪服姿のまま、自分自身の死を悼むように。

 しぐれは鞭を振り上げ、その姿勢のままで、信じられないものを見るように、立ち尽くしていた。

 僕たちの間に立ちふさがっていたのは、葉月の母親。

 葉月が血塗れの顔を上げる。

「私はもう十分に生きました。だから、」

 羽搏く音が近くで聞こえた。

「成程、妾と契約するか?」

 

 悪魔の哄笑が、遠い場所で聞こえた気がした。

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