三十五節 「蜜月」

Ep.35-1 月下美人(前編)


 僕たちは長いこと雑木林の闇のなかに佇んでいた。暗い林の中は微風にそよぐ葉擦れの音と、草叢で虫の集く音が木霊する以外は物音もなく、まるで何か巨大な生物の胎内に取り込まれてしまったかのようだった。何処からか、鼓動じみた音が聞こえてくる。それが自分の心音なのだと把握するのに、幾ばくかの時間を要した。

 

「あたし、行きたい場所があるの」

 不意に、葉月が顔を上げ、そう漏らした。闇のなかで表情は良く伺い知れないが、言葉の運びから、彼女の切なる気持ちは伝わってきた。

「……連れてってくれる?」

 葉月はそう言い、座標を僕に告げる。

 僕は頷く。そして彼女の手をそっと取り、握った。

 地表から身体が引きはがされるような奇妙な感覚を残したまま、身体が宙へと吊り上げられる。瞬きを一つする間に、僕たちは郊外の展望台の麓へ足をつけていた。

 周囲に灯りはない。夜も深く、辺りは無明の闇だった。

 白々とした展望台の外観だけが幽霊のようにシルエットとして浮かび上がっているほかは、どこもかしこも暗闇に包まれている。闇の濃淡に差はあれど、暗いことに変わりはなかった。

 音も光も消え去った、真空のような寂しい景色を、葉月は辿り始めた。僕も続く。足取りには拭えぬ焦燥と疲労が滲んでいた。自然公園での襲撃、操さんの死、やよいさんの消滅。今夜起きた一連の出来事が、出来の悪い悪夢のような得体のしれぬ実感を伴って、心身を蝕んでいた。

 展望台の近くにある四阿あずまやへ辿り着き、僕たちはそっと木星のベンチへ腰を落ち着けた。避難所の門限はとうに過ぎている。今夜はここで野宿するほかなさそうだった。かえってその方が良いのかもしれない。夜の冷気が肌を刺すたびに、茫漠とした思考が明瞭としたものになっていくのを感じ取ることができたから。


「アマネくん……。生きるって、悲しいね」

 声が響いた。僕が発したものではないから、当然、彼女の発言だ。

「本当に、なんで、こんな思いしてまで、生きなくちゃならないんだろうね……?」

 与えられたと思った途端に失って、

 楽しかった時間もいつかは終わる。

 今のこの時間も永遠には続かない。

 何で、どうして、何のために。僕たちは今、ここにいるのだろうか。

 

 長い、沈黙があった。それは以前のような空気の悪い静寂ではなく、血の通った、温かみのある静寂だった。


 そっちへ行っても良い?

 うん、とだけ短く答えた。


 音が漏れた。彼女が静かに泣いているのだと分かった。それは今まで彼女が見せたような、他者に媚びるような、縋るような涙ではなく、何かを清算するための、前へ進むための涙であるように思えた。

 赤子のように、

 堰を切ったように、

 しがみついて離れない。

 傷だらけの彼女の身体に触れるのに少し躊躇って、迷いを消し去った。そっと抱き寄せ、体温を感じ取った。……温かい。

 艶やかな黒髪が僕の肩に掛かった。思わず呼気が漏れる。 

 無言のまま、静かに唇を合わせた。闇の中、彼女は僅かに微笑んだように見えた。

 詰まらない意地の張り合いだとか、いつまでも煮え切らない関係を乗り越えて、いずれ彼女とこうなることは予期していた。これは血の通った自惚れではなく、単なる分析、観測の結果だった。いつか彼女と深い関係になる時が来るのだろう、と。

 麻里亜は揶揄いがいのある妹のようで、

 葉月は少し危うい、けれど頼れる女友達。

 どちらも恋や愛の相手とは縁遠い。結局は僕の主観なのだけれど、僕から観た彼女たちはそうだった。

 勿論僕にだって人並みに……いや、悪魔並みに契約者の女の子とこれまでに何度か関係を持ったことはあった。浅はかな打算や刹那的な快楽に塗れて破滅する姿も、同様に見てきた。

 人間だった時だってそういうことはあった。何人かの女の子と寝て、いくつかの想い出を作った。人間関係のバランスから生じた、バグのような結果だったけれど、僕にとっては数少ない人間らしい記憶だ。 

 こういうこと、

「あたし」

 はじめてだから。

 耳元で囁かれた。

 それがどうしたと言うのだろう。冷ややかな思考が頭の片隅を過ったが、僕は確かめるように、「うん」と頷く。鼻白みかけた自分を制し、暗闇の中で葉月を見つめた。

 なんて、中途半端。僕は狡い人間だった。

 けれど、誰もかれもがそうなのだろう、きっと。

 自分の感情や欲望に努めて自覚的な人間なんていない。

 最後に全てを喪うその時まで、結果は未確定なのだろうから。

 

 結局人間は、誰もかれもが孤独な生物。

 溝、隔たり、価値観の相違を擦り合わせて、

 生きる不安や耐えがたい孤独を紛らわせて、

 それでも生きていくしかないのだ。

 だから僕たちはこうやって、

 お互いの埋まらない部分を補い合って、

 埋めたがっているのかもしれない。

 僕たちは本当に暫くぶりに、無言で見つめ合った。


 奇しくもそのとき、分厚い雲間から微かに月の光が僕たちのところへ届いた。

 淡い光。

 ぼんやりと薄暗く、眩しさはなかった。

 仄白く光る上弦の月だった。

「あたしのことをもっと知ってほしい」暫く経ってから、葉月はそう言った。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る