Ep.35-2 月下美人(後編)



 彼女はするすると服を脱いで、僕に覆い被さった。初めてにしては、幾分か手慣れた様子だったけれども、言及はしないでおいた。

 直に伝わる体温は、まだ生きているのだ、という確かな手触りを与えてくれる。きっと彼女の方も同じだったろう。二、三、息を吐き出して、くっついたり離れたりを繰り返してから、僕たちは身体を重ねた。柔らかな月光がお互いの肌の起伏を明瞭にしていた。

 ……懐かしい感触だった。懐かしい、という単語は否が応でも幾分かのマイナスな感情を伴ってしまう。それは多くの人にとって過去が無意識のうちに「あの頃は良かった」、と美化しなければならないほどに過酷で、未熟なものだったからだろう。

 これまで本当に多くのモノを喪った。

 三神麻里亜。

 加賀美アリス。

 法条暁。

 朱鷺山しぐれ。

 早乙女操。

 彼女らにまつわる沢山の記憶。

 そして、僕たちの昔の居場所。

 それらは「過去」という寂しい単語で総括されてしまう。その虚しさは、心の奥底に奇妙な形で根付いて、消えることはない。

 滑らかな肌の起伏に月光が照り返す。連続する感情の波間に、彼女の吐息が心地よかった。

 もうすぐ、僕たちは、いや、譲歩して、僕たちのどちらかは確実に死ぬ。それは避けようのない事実で、逃れようのない現実だった。個体としての生物の本能として、死が近まると子孫を残すために性欲が高まる、みたいな話を小耳に挟んだ覚えがあるけれど、今、僕が彼女に抱いている気持ちはそうであってほしくなかった。そんなに文字の音の単調な響きではなく、もっと純粋で、願わくば儚いものであってほしい。

 

 彼女は泣いていた。

 僕は泣かなかった。

 

 その後、何を話すわけでもなく、二人で夜空を見上げていた。先ほどまで煌々と輝いていた月は雲間に消えて、辺りは完全な闇へと戻った。まるで元からそれが正しい状態であったように。


「あと一週間もしないうちに、全部、なくなっちゃうんだね」

 ふうっ、と小さく息を吐いて彼女は言った。

「ここで、こうして二人でいたことも、全部……」

「そんなものだよ。百年後や千年後も記録が残る人間なんて、本当に稀だ。運よく残ったとしても、それが名誉であるかどうかは本人にはわからないしさ」

 冗談交じりにそう言った。

「そうだね」彼女も言った。「でも……少し悲しいな」

「仕方ないよ。そういうものだから。でも……」

 でも、と少し言葉を飲み込んで、

「だからこそ、生きているって実感できるんじゃないかな」

 儚いからこそ。短いからこそ。僕たちの生に意味はあると。そう信じたかった。

「あたし、今夜のこと忘れないよ。最後の、その瞬間まで」

「うん……僕も忘れない」 

「消えてしまっても、変わってしまっても、今ここで、こうして二人でいたことは、変えようもない事実なんだもんね」

 舌を出して、彼女は子供のように笑った。朗らかな、葉月らしくない笑顔。その顔を見ただけで、ここまでふたりでやってきて良かったのだと思えた。あの、記憶を失くして路地で斃れていた僕を最初に見つけてくれた時のように、今度は僕が彼女を見つけられたのだ、と。

 少し遅れて、僕も微笑んだ。


       ◆


 もうすぐこの世界は終わる。このゲームも終わる。ゲームの勝者は一人だけだ。最後の二人まで残ったとしても、必然的に僕たちは敵になる。

 二人でこうやって同じ屋根の下で並び、同じ空を眺めることは、今夜が最後なのかもしれない。

 でも、今夜だけは。

 今、この瞬間だけは。

 彼女と過ごした日々が永遠であって欲しいと望んでも、罰は当たらないだろう。

 葉月は横で嬉しそうに笑っていた。安らかな寝顔だった。僕も目を閉じる。視界の端に捉えた瑠璃色が滲む暗い空は僕たちに共鳴するように、オレンジ色に染まりつつあった。



 /第五章 「命は悲し恋せよ乙女」――了

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