三十三節 「贖罪」

Ep.33-1 母と娘

       ◆


 手術にね……失敗したのさ。よりにもよって、昔からの知人のね。丁度他の医師は出払っていて急患だったから、執刀するしかなかった。そして失敗した。 

 なんとも間抜けな話だ。普通、失敗するか? いつもは、いや手術に限らず、いつだって連城恭助ぼくという人間は、並の人間が並外れた努力で到達するはずの領域を敷居をまたぐように飛び越えられる人間だった。いくら手を抜いても、ふざけても、まるで周囲と同じように「平凡に」出来ない。「愚劣に」振舞えない。当たり前に「出来ない」ことが当たり前に出来る。違う世界を生きているかのようだ。だから、周囲の人間と「皮を被って」しか、付き合えない。仕方ないだろう? 好意的に接することができる人間なんて、それこそ砂山から一掴みの砂金を掴み取るようなものなんだからさ。

 昔から好きなのは……探偵小説くらいだ。あれはいい。作者の勝手な都合で人が沢山死ぬ血の涙もない凄惨な物語なのに、世間では生産性のあるものと見做されているから。読者と作者の知恵比べの側面もあるから、頭の体操にももってこいだ。あんな世界になったら、それこそ生き甲斐もあるだろうし、僕のような人でなしにも出逢えるかだし。

 ああ話が逸れた。 

 如月葉月さん、あなたの家庭が崩壊したのは、、半ば僕のせいでもあるんだよ。僕は知っていた。やよいさん亡き如月家が、崩壊の一途を辿っていることを。知っていて何もしなかった。まさか、あんな杜撰な死体遺棄で、誰かが気付かないとでも思っていたのかい? 僕が巧く偽装したのさ。司直の目を欺けたのも、偏に僕が裏で細工をしていたからさ。つくづく発想はお子様のそれだね。

 ……ああ。それにしても。

 つまるところ、自分は。連城恭助という人間は。自ら招いた知人の死すらも、まともに反省していない。いや、しているにはしているのだろうが、仕切れない。曖昧なのだ。


 自分には、人間としての感情が、凡そ欠落している。まるで人形ごっこだ。何故、そんなに楽しい? 面白い? 笑うことが出来る? 人間関係なんて、社会なんて、いや世界なんて、それこそ壮大なだけの茶番劇でしかないというのに。


 そんな日々の中で、彼女だけは特別だった。だから一時でも想いを寄せた。

 一度でも話をしてみたかった。

 ……というのに。 

 いざ話してみても、何も変わらなかった。一時は「満たされた」と思っても、それは穴の開いた容器に水を注ぎ続けるようなもので、いずれは枯れ果てるまやかしの感情だ。

 

 結局、生涯色褪せることはないと固く信仰していたあの気持ちでさえも、状況が生み出した、ノイズのようなものでしかなかったわけだ。

 僕の人間性は何ら恢復の兆しを見せなかった。

 自分にも人間らしい感情が残っているなんてまやかしだった。

 

 道化を演じる羽目になったのはその日からだ。

 嘘で塗り固めた嘘の世界。そんな世界でしか生きられなくなったのは。

 ああ、だから僕は今、こんな場所でこんな醜態を晒しているのだね。


       ◆


 男はやや俯き加減に、そう言った。

 殺した……? 殺したと言ったか、今? 

 僕は固唾をのみ、目の前で繰り広げられている会話を眺めることしか出来ない。

「『殺した』だなんて、そんな。連城さん、あなたが自分を責める必要は何処にもありませんよ。私に責められる謂れもありません。あなたは精一杯、私を救おうとしてくれたじゃないですか」

 葉月の母親は、娘から男へ視線を移し、

「恨んでなんかいませんよ。私も……この娘も」

 と言った。

「いいや……そんなはずはない。君はあの時、死ぬべきではなかった。君が死ななければ……」

 雪崩のような男の独白は、半ば狂気じみていて、それでなお、これ以上進むことがない虚しさを孕んでいた。ずっと一箇所で停滞しているかのような、そんな物悲しさが溢れていた。葉月の母親は、何処か寂し気な笑みを浮かべながら、適当に相槌をし、何か言葉を返した。


 独白が止まる。

「六道やよいさん。どうか信じてくれ。僕はあなたに一言、、今までずっと生きてきたんだ」

 葉月は震えながら、男の話を聞いていたが、葉月の母親……やよいさんは、何ら取り出す様子もなく、

「相変わらず、律儀な人」と言って、「ふふっ」と笑った。

 葉月は押し黙り、母親を見つめていた。僕の出る幕は、ない。


「はっちゃん……。あなたが今、どんなことに悩み、苦しんでいるのか分からない。なんでその女の人を、傷つけたがったのかも分からない。結局ね、友達でも、恋人さんでも、家族でも、「その人」自身がかけている感情は、結局はその人にしか分からないと思うの」

「だから人は、自分自身の人生しか歩めない」

 葉月は頷く。

「本来私はもういないの。わかるでしょう?」

 葉月は頷く。

。あなたが今、何をしたいのかを。言いたいことはそれだけよ」

 ふふっ、とまた小さく笑って、葉月の母親は口を閉ざした。

 葉月は頷き、顔を上げる。

「連城さん……。ママを一時でも蘇らせてくれたことには、感謝します。でもね、」

 でもね、と確かに彼女はそう言った。


「ご団欒のところ申し訳ないのですが」

 と、葉月の言葉を遮ったのは操さん。

「あれは……何ですか?」

 そう言って指差したのは、噴水の上部にある、奇妙な球体。

 は何かに似ていた。

 まるで何かを待っているかのような、奇妙な佇まい。

 ……羽化を待つ蛹?

 不意に、記憶が蘇った。以前ここに来たとき、この公園で悪魔憑きたちが会合したとき、起きたことは何だった?

 考える前に身体が動いた。

 怪訝そうな連城を追い越し、戸惑う母娘を通り過ぎ、駆け出した。


 球体が裂け、中から影のようなものが飛び出す。明確な殺意を以て、その何かがが振り払われた。自分に迫る黒い腕をスローモーションで捉えながら、思考の端に浮かんだ激情を、他人事のように感じ取っていた。

 数瞬の後、死ぬ。僕という存在は消える。予感めいたものは確信へと変わった。肉が裂け、血が滴り落ちる音。視界が赤く染まった。

 

「サタナキア……願いごとよ」

 時間が永遠に延長されていくような奇妙な感覚の最中、呟くような声を聞いた。

「私の身体の支配権をあげる」

 何を、言って。

「今だけでいい。どうかと、渡り合える力を」

 

 

 



 


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