Ep.29-2 慟哭の夜


 その死体は、何かを訴えかけるように、燃え残ったリビングの片隅に横たえられていた。

 奇妙な眺めだった。

 殆ど炭化し、黒焦げになったオブジェ。死体というにはそれは、あまりにも出来すぎた、人工的なモノのように感ぜられた。葉月は、蹌踉とした足取りで、それに近付いていった。

 朱鷺山しぐれは既に何処かへ消え去った。僕と葉月は、ただ燃え残った嘗ての家の前で、ただ立ち尽くしていた。


 狂気に駆られたしぐれへの憎悪も、今夜の宇宙センターの戦いで落とされた涙の全ても……。

 彼女の瞳には、既に感情というものの一切が取り払われてしまっていた。感情をぶつける術はおろか、ぶつける感情さえも失くしてしまったかのような、空っぽな……。


 葉月はへなへなと床に座り込んだ。黒い残骸は、彼女には見えないようだった。

 

「帰って来たよ……。お姉ちゃんは、帰って来たよ……?」

 そのまま、空へ向けて独り言つ。

「葉月……」

 彼女は振り返らなかった。ただ闇の中で、ずっと蹲っていた。


 どのくらいの間、そうしていただろうか。徐に彼女は立ち上がり、こんな言葉を口にした。

「ああ……そうだ。あいつが、あいつがやったんだ。しぐれちゃんが言っていた、あの……」

 彼女が口走ることの意味が解らなかった。

「葉月……? 何を言っているんだ、こんな酷いことをしたのは、他ならぬしぐれだろう? 彼女を追って、」

 葉月が顔を上げた。

「アマネくん……


 そうして、彼女は走り出した。暗い夜の街の中へ。

「待って、待つんだ、葉月!」


 僕の叫びは、大地に何かが炸裂する轟音で掻き消された。後になって知ったことだが、それはあの宇宙センターのロケットが市街地に墜落した時の音だった。

 

       ◆


 闇の中を走っていた。

「ベリアル……。わかるわね」

 傍らの悪魔に向けて呟く。

「流石に長い付き合いだからな。来るべき時が来たんだろ、俺は構わないぜ」

「もうね、手段を選んではいられなくなったの」

「で? この混乱に乗じて、?」 

 悪魔は笑い、彼女に尋ねる。

「そうね……。ここから一番遠いのは、誰?」

 悪魔は魔力を周辺一帯に飛ばし、感知した。そして、その名前を告げる。


      ◇


 片桐藍は、山間部を下っていた。御厨翼の命令から解き放たれ、自由の身になったのにも関わらず、彼の心は依然として暗いままだった。姉を喪い、人形も失い、彼の権能はもう、「不合理な現実を見たくない」という本来の性質を失いかけていた。


 探偵に掛けられた言葉だけが頭の中で何度もリフレインしていた。


 生きるって、何のために。藍は自嘲的に笑う。

 なんて皮肉な結末だ。叶わなければ死んでもいい、なんて願いを喪ってしまったら、生きることはおろか、もう死ぬことさえも出来ないじゃないか。

 結局、人の願いは、叶っても叶わなくてもその人自身を蝕んでいく。願いを達成してしまったら、もう「それ以上」はないのだ。ゴールの先には何も、何も……。


 ああ。そうだ、もう、こんなゲームなんて降りよう。降りてしまおう。

 その代わりに、ずっと昔から夢見ていたことを叶えよう。他者には頼らない。今度こそ、自力で。


「普通になりたい」


 そうだ、思い出した。

 小さい頃、僕は――僕が本当にやりたかったことは―― 


 不意に、藍は背後から温かな風を感じ、振り返った。

 風を切る音がした。何処か 懐かしい 響きの する音 だった。

 幼い 頃、自分と 同体の   姉と 遊んだ   時の   ような――

 その懐かしさをしっかりと感じ取る前に、彼の頭部は胴体から離れ、熟した木の実のように地面に落ちていた。


「ごめんね」と、誰かが言った。

 この世で最後に聞いたのは、かつて彼自身が姉に言いそびれた言葉だった。 


       ◆


「あと、五人か……」

 彼女は空を見つめ、長いこと佇んでいた。

「初めからこうしてりゃあ良かったのさ。罪悪感なんて感じる必要なはないぜ。操られていたとはいえ、こいつも十分な悪党だったんだからな」

 悪魔は喋り続ける。 

。断言してやる、縛るものもなくなった今のお前は十二分に強い。その気になれば神にだってなれる」


 足元に転がってきた片桐藍の首を見、僕は唇を噛み締めた。仕方のないこととはいえ、彼女の犯した殺人に、更には宇宙センターでの法条との因縁について、問いたださねばならなかった。  

「葉月……。聞きたかったことがあるんだ。その、って、一体、何だったんだ……? どうして君は、法条暁を殺したんだ……?」

 気掛かりだったのは、葉月の豹変ぶりにではない。彼女の精神は、寧ろ嘗てよりも遥かに落ち着き、均衡を保っていた。


「あたしは……」

 一呼吸おいて、彼女は続けた。

「あたしはね、法条さんと約束したの。もし法条暁がこの戦いの途中で斃れることがあったら……「」ってね」

「それが……約束?」

「ううん、それだけじゃない。暁さんは言ってた。私が倒れても、きっとまだ続きがある。八代みかげ、だけじゃない。もっとが、まだ残っている……って、そう言っていた。だから、あたしはまだ、戦わなければいけない」

 煮え切らない話だった。そんな重要なことも教えず、法条は僕たちを裏切り、そして死んだのか。つくづく最後まで、食えない奴だったなと思う。


「それって、誰のこと?」

「知っているが、今は言えない、って。なんだか昔の探偵さんみたいだよね」

 ふふ、と葉月は笑って、僕の方を見た。

「あたし、もう決めたんだ。。未来にも執着しない。ただ、今この瞬間を全力で走るよ。法条さんが死んでも、さっちゃんがいなくなっても、アマネくん……君が私より先にいなくなっても、きっと、あたしは走り続けるよ。その日が来るまで、何処までも」

 虚勢ではなかった、と思う。この時点の葉月は、ちゃんと前を向いていた。

「だから、だからさ……。これで最後だから、今夜くらいは、まだ、弱くても、いい……?」


 そう言って、彼女は大きく息を吸い込んだ。

 暫くその声にもならない叫びが、彼女の口から洩れているのだと気付けなかった。

 これまでの全ての悲しみや怒りを洗い流すような凄絶な叫びは、夜明け近くまで、ずっと、鳴り続けていた。


       ◆


 僕たちが山を下りたのは、八月十三日の明け方だった。 


 

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