第五章「命は悲し恋せよ乙女」

二十九節 「残響」

Ep.29-1 周縁の風

 茫漠とした夢の中を彷徨っていた。

 夢……いや、

 繰り返されるのは同じ風景。僕以外の11の駒。夥しく流される血。何処にも届かない悲鳴。果たされなかった願い。

 そして――。

 そうだ……思い出した。僕はかつて、高月颯たかつきそうという名前の人間だった。名前すら時の彼方に置き忘れた「誰か」を救うため、グレモリイという悪魔と契約し、その身を賭して戦いに臨んだのだ。

 そして序盤にして、呆気なく敗れた。


 ……違う。

 今ここで重要なのは、もはや不変の事実と成り果てた、そんな過去の物語じゃない。大事なのは現在と過去の結びつき。そして、これから起こること。


 一番重要なことは、僕が参加したそのゲームに。それから御厨翼の悪魔少女……ルサールカも。霧崎と懇意だったあの嫌な上司アスタロトも。皆、皆、あの時は人間だったのだ。八代みかげは最後まで勝ち残り(誰と?)、その末に神の座を勝ち取ったのだ(何のために?)……。


 (『僕は……』)

  

 そう、僕は人間だった頃の八代みかげを知っている。以前、法条の権能で記憶の蓋をこじ開けられた時のような、鋭い痛みは今はなかった。だから記憶の奥底を探れば、必ず思い出せるはずだ。


 僕の記憶の奥底には……。人間だった頃の、八代みかげの姿が……。

 彼女を……この目で観ている。もう既に、何度も。何度も……。

 一番肝心なことだけが靄がかかったように思い出せない。

 かのじょの  名前は、

  確か、……き、


       ◆


 闇が取り払われる。

 世界に、音が戻っていく。

 

       ◇


「如月さぁん、如月葉月さぁん。いらっしゃいますか?」

 間の抜けた職員の声で、ふと目が覚める。どうやら葉月を探しているようだった。

「はい、あたしです」

「避難者名簿を作っている最中でして。お手数ですが、ここにサインを頂けますか」

「わかりました」

 視界の端で、葉月がさらさらとペンを走らせているのが見えた。


 ……夢というのは、どうやら肝心のところで覚めるものらしい。

 

 ゆっくりと上体を起こし、時計で日付を確認する。八月十五日。 

 僕が葉月と戦って、操さんの支配から解放されて、法条が死んで、それ以上に決定的な断裂があったから丸三日が経過した。

 御厨翼の生死は未だ明らかになっていない。けれど、僕は限りなく卑劣なやり方で僕たちを陥れた御厨に対し憤り以上の感情を覚えないし、願わくば、彼が出来るだけ酷い死に方をしてくれることを祈っている。

 そんな過激な思考が出来るだけ、きっと僕は平静を保てている方なのだろう。

 僕たちのいる避難所……美桜南高校の体育館からは、あちこちで絶えず啜り泣きや怒号が響き、それらが蒸し暑い夏の大気と渾然一体となって狭い空間へ広がっていく様は、さながら行き場を失くした激情が、空でとぐろを巻いているようだった。


 宇宙センターにあった巨大ロケット……アーベントレーテの墜落により、街は大惨事となった。市街地の一帯を墜落の焔が舐め、一部では未だに火の手が上がっている。不幸中の幸いと言うべきか街の外れの病院や神社は被害を免れたが、その分街の中枢部は大打撃を受けた。御厨翼が何処まで被害が出るかを把握していたのかは知らないが、いくらなんでもこれは度を越している。僕は目を閉じ、今日で何回目になるかもわからない溜息をついた。


「だめ。ここにいると、どうしても、気が滅入っちゃうね」

 葉月はそう漏らし、立ち上がった。

「無理もないよ。皆、疲れているんだ」

「あたし、少し外で風を浴びてくる。アマネくんも、いこ?」

 葉月は成熟した女性に似合わぬ表情で、悪戯っぽく微笑んだ。


 避難所から這い出て、灰色の街へと踏み出していく。僕たちの街は一変していた。剥き出しの鉄筋コンクリートの群れ。捻じ曲がったガードレール。暗褐色に染まっている幹線道路の余白を埋め尽くすのは、瓦礫の残骸、残骸、残骸……。


「世界の崩壊……。これが契約時に言っていた、世界の終わりなの?」

「影響の一部にしか過ぎないと思うぜ。こんなのは、まだ序の口だ」

 葉月とベリアルの淡々とした会話にも、以前のような張りはなかった。

 そう……皆、疲れているのだ。一度にたくさんのことが起こりすぎて、手には負えない。僕は法条の事務所に最初に赴いた日のことを思い出していた。そう、ちょうどあの時も今のような感じだった。立て続けの悲劇とやらに、感情が、認識が、追い付かないのだ。 


 瓦礫の山を避けながら進んでいた葉月は不意に立ち止まり、

「あ。そうだ、さっちゃんにも……伝えないと。外は危ないから、歩いちゃダメだよ……って」

 そう、言った。

 全身を、抑えきれない悪寒が走った。ぶるぶるとおこりのように、手足の先が感覚を喪っていく。


「葉月……。しっかりしてくれ」


 本当に、良いのだろうか。


「皐月は……」


 今の彼女に、現実を突きつけても。


「皐月は、もう、?」


 呆気にとられたように、葉月は僕を見返した。


「え? えっ……? アマネくん、何を言っているの?」


 彼女の虚ろな双眸には、何色も映っていなかった。

 

 長い、静寂があった。

 ざらついた感触の風が、僕たちの間を吹き抜けていく。

 この空白の三日間、いくつもの感情が胸に去来した。正直、未だに僕も整理がついていない。整理の付け方さえも、分からない。 


 そう、恐らくは、あの悪夢のような一晩から。葉月が壊れた、あの夜の慟哭のことから、再び物語を始めるのが良いのかもしれない。


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