Chapter.4 Last-episode:ただ一言だけ

 命令、だ、美桜市立病院にいる、法条結花って女の子に、これを渡して……、そして一言。ただ一言だけでいい。伝えてくれ。 


『――――』


       ◆


 八月十四日。彼女の退院日は、奇妙な来客から始まった。

 病室のドアが開かれたとき、法条結花が期待したのは、彼女の姉か彼女の恋人の姿、そのどちらかだった。けれど、ドアの向こうに立っていた二人の人物は、そのどちらでもなかった。

 

「急な面会ですまない。どうしても君に、伝えたいことがあってね。辛いことだ。聞く準備が整ったら、教えて欲しい」

 長身の女性は、そう言って病室の椅子に腰かけた。彼女の傍らには付き添うように、青年が立っていた。女性の方に見覚えはなかったが、青年の方は結花も何度か見覚えがあった。天城という名前の、インターンの医大生だ。

  

「大丈夫です。言ってください」

 結花は女性の顔を真っ直ぐに見つめ、そう言った。実のところ、数日前からずっと、悪い予感はあった。気付いていながら、気付かないようにしていた。

「麻里亜ちゃんのことは、知っているね」

「はい」

「彼女は亡くなった。もう、二週間以上前のことだ」

「そう、なんですね……」

 麻里亜は一度も、結花の見舞いに来なかった。初めはそう、あの些細な喧嘩が原因なのだと思っていた。彼女に愛想をつかされ、絶交されてしまったのではないかと恐怖さえした。けれど一週間が過ぎ二週間が過ぎ、電話をかけてもメールを送っても何の音沙汰もないことに気付いてからは、別の恐怖に支配されていた。

「わたし、麻里亜ちゃんに、酷いことを、言ってしまったんです。きっと彼女は、わたしを恨んでいるでしょうね」

 そんなことを言っても、気休めにすらならないことは結花も解っていた。

 でも、震えるように押し出したその声を自分で聞いて、結花は気付いた。

 悲しい。あの子がいなくなって、本当に悲しい。自分の一部が欠け落ちてしまったかのように、埋めがたい欠落が心に穿たれていた。

「麻里亜ちゃんのことは小さい頃からずっと見てきたけれど、あの子は、決して人を恨むような子じゃないよ」

「はい、解っています。でも、でも……」 

「本当にすまない。君にはもっと、辛い思いをさせてしまうことになる。天城。お前の口から伝えてくれ」

 女性は天城に促した。

 天城はゆっくりと、語り始めた。落ち着いた口調で、事実を伝えた。

 そして、法条結花は、自身の姉と恋人さえも、消え去ってしまったことを知った。

 既に結花には、事実を解釈する余力さえも残っていなかった。泣くことさえも出来なかった。感情が限界をとうに振り切れてしまっていて、悲劇を体験する自分を他人事のように冷徹に見つめる自分がいて、さらにその自分を見つめる自分がいて。何処かここではない、遠い世界の話を聞いているようだった。それでも彼女が混乱も錯乱もせずに、挫けずに最後まで話を聞き通せたのは、天城という青年が事実を歪曲も誇張もせず、最低限の言葉で伝えたからに他ならなかった。

「そうですか。もう、わたしには、わたしの周りには、誰もいなくなっちゃったんですね……」

 か細い声で、法条結花は自分自身に確認するように、そう呟いた。

 自分の身に降りかかった不幸よりも、もういなくなってしまった人たちの不幸がより辛かった。悲劇のヒロインの感傷に浸ってしまうのも嫌だった。ただ、自分の心の中であてどなく広がり続ける空漠だけを、彼女は感じていた。

「月並みな表現だが、自棄にだけはならないで欲しい。死んだ人間のためじゃない。君自身のためにだよ。……すまない。こんな知った風なことしか言えなくて」

 天城はそう言って顔を伏せた。

 そして、ポケットからあるものを取り出し、結花へと手渡す。

「彼から……、御厨くんから、君に渡してほしいって頼まれたものだよ」

 結花はそろそろと、彼からそれを受け取った。便箋の中に、薄い紙の感触があった。

「それと、君に伝言を頼まれたんだ。そのままに伝えるよ」

 そして結花は、その言葉を聞いた。

 彼らしいと言えば、彼らしい言葉だった。

 『愛してる』とか『忘れないでくれ』とか『俺が死んでも泣かないでくれ』とか……、『今までありがとう』とか。そんな自分本位な安っぽい感傷に浸った言葉では決してなかった。ありふれた、どこにでもある、ありきたりな言葉だった。

 そう冷静になってしまえる自分が何よりも辛かった。親友の死も姉の死も恋人の死も、いつの日か忘れていってしまって、『何でもないこと』にしてしまうのかもしれない。そんな自分になってしまうことが怖かった。感覚が麻痺して、感情が摩耗して、自分が消えていってしまうことが怖かった。

 ああ、でも……。最後にそんな言葉を残されたからこそは、生きなければならないんだろうな。確かに、そう思う自分もいた。

「さて……。私たちの役目は、ここまでだ。法条結花さん。生きていれば何かそれだけ良いことがある、なんてことは言わない。寧ろ辛いことの方が多いだろうな。でも、だからこそ、そんな存在だからこそ、最後まで生き抜くことに価値があると私は思うんだ。だから、君は君のために生きるんだ」

 突き放すような言葉だったのかもしれない。

 けれど、法条結花は、こう返した。

「大丈夫です。私は、もう、前を向いて、笑って生きていきます」

 ただの強がりだった。虚勢だった。そんなことはこれっぽっちも、思ってもいなかった。彼女自身、何故自分の口からそんな言葉が飛び出たのか理解していなかった。けれど彼女にとっては、それは潔いまでに、自らにしっくりと浸透した言葉だった。三神麻里亜も、法条暁も、御厨翼ももういない。でも、いなくなってしまった人たちの中に、自分が失ったものの中に、自分を見出し続けるのには、既に彼女は疲れていた。重くのしかかる過去は、既に変えようのない不変の事実として彼女に焼き付いてしまっている。だからもう、受け止めてしまうしかない。乗り越えることは出来ないかもしれないが、受け入れて、そして先に進むしかないのだ。


 鷺宮と天城に手続きを手伝われながら、そして彼女は入院生活を終えた。

 結花は実感する。ああ、まだわたしを、支えてくれる人はいたんだ、と。


「そのチケット、今日から有効みたいなんだ。そんな気分にならないかもしれないけれど、良かったら行ってみたらどうかな」

 病院を抜けて、街へと戻った彼女に、天城はそう切り出した。

 結花は少し思案し、

「そうですね。折角だから、行ってみます」

 そう言って天城たちと別れ、法条結花は一人、その場所へと向かった。


      ◇


 御厨翼から送られたのは、美桜市の美術館で今日から催されている展覧会のチケットだった。調べてみたところ、かなり高価なモノらしかった。

 彼にこんな趣味があったのか……。少し意外だった。

 入り口でチケットの半券を千切ってもらい、館内へと足を踏み入れる。うだるような真夏の暑さから反転して館内はとても涼しく、空調の冷気が隅々まで行き届いていた。

 初日の午前中だからだろうか。館内は静まり返っていて、結花の他にはまだ誰も客は入っていないようだった。

 画廊をゆっくりと見て回る。特にこれといって、目を引く作品はなかった。自身に芸術に関する鑑定眼がないことは、結花自身も理解していたから。

 といっても折角の、彼が残した贈り物だ。無碍にするのは忍びなく、彼女は一つ一つの作品を丁寧に、目に焼き付けようとした。正直なところ、退屈ではあったのだけれど。これも入院生活からのリハビリテーションの一部だと思えば、少しは気が楽になった。

 

 法条結花は昔から、芸術と名の付くものがどうにも苦手だった。絵画や彫刻といった所謂「芸術作品」から、小説や詩、映画といった大衆娯楽、流行りの音楽に至るまで。翼とデートで映画を観に行って、あまりの退屈さに居眠りをし、呆れられてしまったことさえある。弁護士という実務職で活躍する姉を間近で見ていたからだろうか。芸術家、創作者といった人種たちはどうも、世を捨てた自分たちのことを、俗世とはかけ離れた、何か崇高なものであるかのような意識を持っているような気がしてならなかった。『普通に生きる』人たちを陰で見下し、自分たちのことをさも『特別な存在』であるかのように演出しているような気さえした。

 画の脇に添えられた作者たちの写真や名前、物々しい略歴を眺めて、結花は思う。

 自分は、作品に籠められた「メッセージ性」みたいなものに抵抗を感じていたんだろうな。他人の作品を見ているうちに他人の価値観に染められてしまうようで、きっとそれが嫌だったのだ。

 作品に影響を受けて、自分が変えられてしまうのが怖かった。

 作品を摂取する側の自分が、いつの間にか作品側に摂取されてしまっているようで、他人の世界に取り込まれてしまうようで、意識的に避けていた。

 変わってしまうのが怖かった。

 芸術や文化なんて、ただの消耗品の一種じゃない。

 そんな風に斜に構えていた自分が、確かにいた。


 絵画の林を抜けて、大きなホールへと出る。

 瞬間、彼女は足を止め、見上げた。

 その絵は、ホールの中央に、高く掲げられるように展示されていた。


 絵の中から、春が吹き荒れていた。

 結花は、『春の日に歩く』と題されたその絵の前から、動くことができなかった。ただ、何かに取り憑かれたように、見上げ続けていた。


 額縁の中、桜が舞い散る道を、一人の少女が歩いている。フレアスカートをたなびかせ、風で飛んで行ってしまいそうな帽子を、片手で押さえながら、結花に向かって、はにかんでいた。その手は差し伸べられるように、こちらに向いている。


 不思議な絵だった。とても綺麗なのに、どこか影があって。少女は笑っているのに、どこか憂いを含んでいるような気さえして。絵の中に吸い込まれる、というよりは、絵が自分の一部になったかのような。キャンバスの中で舞い散る桜の花弁が、自分の周りにも絶えず降っているかのような。

 見る人を、優しく肯定してくれるような、そんな絵だった。


 ……そうか。翼くん、これを、わたしに見せたかったんだね。

 

 確かに。こんな絵を見せられてしまったら、少しでも生きたくなる。自分が知らない世界を、もっと、見てみたくなる。

 辺りを見回す。ホールには彼女一人だった。


 ああ、確かに。この絵を独り占め出来るのは、確かに過ぎた贈り物なのかもしれない。

 不意に、じわりと涙腺が緩んだ。そして、次から次へと、とめどなく涙が頬を伝った。どうして、どうして泣くんだろう。あの人たちの死を受け入れるって、辛くても笑って生きていくって、さっき自分で決めたばかりなのに。

 学校で麻里亜ちゃんとは会えないから?

 家にお姉ちゃんが帰ってきてくれることはないから?

 こんな絵を書けるだけの才能が、この世に亡くなってしまったから?


 どうして。もう、何も。何も、残ってないのに――――


 そのとき、結花の横で、十歳ほどの少女が絵を指さしていた。

「お姉ちゃん。感動して泣いてるの? これ、いい画だもんね」

 そっと少女を見つめる。少女の顔は無邪気さに満ちていた。

「うん。そう、そうなんだよ。この絵を描いた人はね、寂しいけれど、優しくて。それで、それで……」

 けれど。もう、一緒にはいられない。

 でも、これだけは言える。自分はこの絵を初めて見た瞬間を、この先ずっと、いつまでも覚えているだろう。そしてその度に、彼のことを思い出す。彼がくれた言葉を、思い出す。

 自分の周りから無くなってしまっても、ずっと残るものも、確かにある。

 思い出でも、風景でも、温度でも、手触りでも、作品でも、……言葉でも。

 心の奥底にそっと仕舞われたものが、確かにある。

 少女に別れを告げて、絵に背を向けようとして。

 その前に一つだけ。最後に、言い忘れていたことを思い出した。彼に別れを告げる前に、彼が死んだことを受け入れる前に、ただ一言だけ、伝え忘れていたことを思い出した。


『誕生日、おめでとう』

 彼が最後に残した言葉に、返せなかった言葉を、返さなければならない。


「プレゼント、ありがとう」

 最後くらいは笑顔で、本当は今にも泣きそうだったけれど、精一杯の笑顔で、結花は告げた。


『この絵を見た人が、少しでも自分自身を好きになってくれたのなら嬉しいです』

 絵の脇の作品紹介には、そんな言葉が添えられていた。

 一年前の、結花と出逢った頃の御厨翼が、決まり悪そうに、気恥ずかしそうに、写真の中で微笑んでいた。




/第四章 「恒久平和のために」――了


    

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