Ep.28‐4 悪魔ノ深層
◇
彼はもう、自分が何者だったのかさえも忘却していた。
それでも、その言葉だけは覚えている。あの薄暗い深海のような地下で、自分の存在を根幹から崩壊させた、あの言葉だけは。
『出来るだけ苦しんだ後に、――しろ』
彼の前には揺らめく炎。片桐藍の悪魔によって放たれた炎が、篠突く雨の中でも未だに燃え残っていた。躊躇わず、彼はその只中にその身を投じた。
肌が焦げ肉が燻され、意識さえも燃やし尽くされそうとしている最中、彼は奇妙な安楽を感じていた。炎の外に、その人影を観止めるまでは。
少女は笑っていた。笑って、死に絶えようとしている人間を、何をするわけでもなく、ただ、ただ……観察していた。もうその時には既にして彼の眼球はバターのように眼窩から融け落ちていたから、彼はその笑みを観なくて済んだ。それは彼の生涯最後にして最大の幸運だったろう。もしその光景を目に焼け付けていたら、永久にも等しい死への刹那の中で、苦悶し続けたに違いないから。この世に生まれ落ちたことを悔やみ恨み呪って、発狂していたに違いないから。
なぜなら、焼け死ぬ人間を前にして、恍惚とした笑みを浮かべる少女の艶姿は、もうこの世ならざるモノに
◇
初めに感じ取った違和感は、ほんの些細なことだった。ズレとも歪みとも言い難い、しっかり締めた筈の
翼は思考する。決して辿り着きたくはない答えに行き着くために。
何故、誰も気づかない。いや、とっくに気付いていながら、気付かぬ振りをしているのだろうか? 自分にとって有益だからと、肯定的に解釈しているのだろうか? 気付かないはずがないのだ。このゲームの、目に見えた異常性に。
ゲームの目的、次の神を決めること。
ゲームの過程、最後の一人になるまで殺し合うこと。
ゲームの景品、何でもひとつ願いを叶えられる権利。
景品は、参加した時点で与えられる。
即ち、命の危険こそ伴うとはいえ、このゲームは。
このゲームは余りにも、参加者側に都合よく出来すぎているのではないか?
だとすれば、主催者側の……、八代みかげの目的は、果たして何処にあるのだろうか? 恐らくは、そう、恐らくは。参加者を選定した時点で、既に彼女の目的の大半は叶っているのだろう。『神を選ぶ』というのはただの建前。彼女の本当の目的は別のところにある。
誰だ……? 一体、誰のために……?
生命活動の停止を、死を間近に控えながらも、御厨翼の思考はこれまで以上の鋭利さを以て、既に一つの解へと辿り着いていた。元から仮説として持ってはいたが、凡そ受け入れがたい、認めがたい真実に。
しかし言葉を絞り出そうにも、臓腑が溶けるように熱く、喉は焼け付いている。
それに、その真実に行き着いたところで、最早彼にはどうすることも不可能なのだ。
そして今は。今はそれよりも、これから自身に課されるであろう運命の方が、彼にとっては重大な問題だった。
「お前、は……」
「あっ、ごめんごめん、うっかりしてたぁ。もうすぐ死ぬってのに、質問の内容の質問なんてされたら本当に死んじゃうよね」
……悪魔ルサールカ。彼と契約した悪魔。
「それじゃあ最後くらいシンプルに、一言で答えられるように、クイズ形式にして出題したげるね! いやあ我ながら、悪魔にしとくのは勿体ない心優しさ! ルカちゃんマジ天使! 最かわ! 魂取られたい悪魔ナンバーワン!」
……位階は天使。悪魔の位階の中では最低位。契約者である翼に服飾品の購入を要求し、着飾っては見せびらかしてくる、あまりにも悪魔らしくない……悪魔。
「それでは、問題です! ジャジャン! 第一問! って、時間的に一問しか無理だけどね。心の準備はいい? 行くよ、最終問題っ」
彼女はあの
思い返すのは会話の断片。悪魔が自身に投げかけた、言葉の数々。
『元からキミに戻る道なんてないんだ。もう進むしかないんだ』
『勝っても負けても、過去も未来も、地獄なんだ』
『なに、キミそんな甘い覚悟でこの戦いに臨んでたワケ?』
それは宛ら、訴えかけるように。『嘗てそうなれなかった誰か』に、必死に言い聞かせるように。
そして、あの時、翼に激昂する前に、剽軽ながらもどこか儚げな口調で、確かにこうも言っていた。
『あたしも――――』
思えば、ルサールカは暇さえあれば喋っていた。本当は自分に、気付いて欲しかったのかもしれない。警告していたのかもしれない。そう思うのは傲慢なのだろうか。まあ、どちらにしろ、もう何もかも手遅れなのだが。翼は自嘲的に笑った。ルサールカがゆっくりと口を開く。
「あたしの正体は、一体何でしょう?」
少女悪魔は息を深く吸い込んで、翼に問うた。彼女の相貌からはいつもの明朗さは露と消え失せていた。ただ真摯に、翼の回答を待っていた。重さを噛み締めるように、翼は答えを口にする。
「
霞がかった視界の向こうで、悪魔が寂しそうに微笑むのが見えた。
契約強化によって翼が得た権能を見、
「あたしもこんな強い能力が欲しかったなあ、なーんて」
あの時、悪魔ルサールカは、かつてのゲームの敗者は、確かにそう口にしていた。
◆
先ほど中枢部で御厨の悪魔と対面したときから、ずっと同じ光景が心の奥底で繰り返されていた。
あの時。そう、麻里亜に自身の願いを打ち明けた、あの時。
「人間に、戻りたい」
僕は確かに、麻里亜にそう口にしていたつもりだった。
「えっ? 何ですか? よく聞こえませんでした」
もう一度口にしようとし、気付く。
これは八代みかげの妨害だ。契約する人間に、敗者の末路を教えることは彼女の定めたルールに抵触する。仕方なく、こう口にする。
「一日で良いから、人間になってみたい」
人間に戻りたい。
それは僕に限らず、全ての悪魔に共通する願いだったのではないだろうか。
もう、かつて人間だったときの自分は摩耗し、消え去ってしまったけれど、これだけは覚えている。
僕は何度も心に誓った。もう彼女の名前さえ思い出せないけれど、大切な人を助けたいと。どんな手段を使ってでも、どんな犠牲を払ってでも、彼女を救うと決めていた。
にも関わらず。僕は敗北した。敵にではない。他ならぬ自分自身にだ。僕は外道になりきれなかった。裏切るつもりだった仲間は裏切れず、倒すべきだった敵は倒せなかった。
そんな僕に、まだ人間だったあの少女悪魔は、こう言ったのだ。
「これで、良かったんだと思うよ。だって、もうあなたに人は殺せないから」
その言葉を最後の救いに、人間だった僕は終わった。僕という存在は終わる筈だった。でも、話はそこで終わらなかった。
歪んだ願い。悪魔との契約を強化してまでも、自身の存在そのものを賭してまでも叶えたかった願い。それは僕の身体を蝕み、そして……。
悪魔に願いを叶える権利を与えられながら、それでもなお悪魔に願いを託した人間。即ち、悪魔との契約を強化したにも関わらず、ゲームで敗北した人間は、人間として死ぬことができない。その魂は神によって召し上げられ、悪魔となる。
普通に生きることも死ぬことも出来ず、ただ神が創った世界の部品として、永久にゲームの駒として使役され続ける。叶わなかった自身の願いの残骸に、永遠に囚われ続けながら、破壊と再生を繰り返すこの世界を漂い続ける。
永久に報われない魂の牢獄。
それが敗者の末路。敗者の運命。
死を超えてなお僕たちを蝕む、永遠の呪いだ。
けれどもう、この永遠は安らぎでもあった。
この世界に囚われている限り、消えることはないのだから。
「僕は悪魔になってさえ死の恐怖は拭えないというのに……」
朱鷺山ビルで霧崎と相対する前の麻里亜に口にしたあの言葉は、恐らくは本音だった。きっと僕は、終わってしまうのが怖かったのだろう。
そう、怖かった。けれどもう、前へと進まなくてはならない。麻里亜やアリス、法条の死。僕が経験したいくつもの仲間の死が、僕に気付かせてくれた。彼女たちの姿を見たからこそ、まだ生きている僕は、先に進まなくてはならない。
沈黙を破って、横にいる葉月に言う。
「落ち着いたら、全部話すよ。麻里亜とのことも、僕のことも……」
「うん……、わかった」
山道を抜け、街に降りる。
見知った街が見えてくる。ほんの数十時間前までいた筈の街が、酷くよそよそしく感じられた。あのセンターでの時間が、あまりにも苛烈すぎたからだろうか。
意識がまた停頓してきた頃、その音と光は僕たちの前に現れた。
異変に気付いたのは葉月の方が先だったようで、僕を振り切って走り出した。
「葉月! 待って、待ってくれ!」
その静止はもう、何の意味すらなさなかった。葉月にはもう、目の前の光景しか目に入っていないようだったから。
「あ、ああ……」
彼女は茫然として、ある建物の前で足を止めた。
葉月に後ろから追いついて、その建物を見上げた。
今にも燃え落ちようとしている、建物だったもの、を見上げた。
僕たちが暮らしていた、如月の表札がかかっていた一軒家を、見上げた。
「あ、あああ。ああああああああっ! さ、つき。サツキ! 皐月ぃっ!」
轟々と燃え盛る建物に半狂乱になって飛び込もうとした葉月を、今度こそ後ろから制止する。
「駄目だ! 生きてる。きっと何処かに、避難しているから……」
僕の言葉は、さらに僕の後ろから遮られた。
「いいえ。死んだよ。しっかりと丁寧に焼き殺しておいてあげたから。どう、気に入ってくれた? でもね、如月葉月。これが、あなたが法条さんにしたことだから」
ゆっくりと、振り向いた。
朱い髪。煤けた肌。狂気に淀んだ、昏い瞳。
まるで何処かの悪鬼のように、美しかった顔を歪ませて。
朱鷺山しぐれが、僕たちの前に立っていた。
葉月の慟哭が、夜を染め上げた。
◇
翼は力なく笑って、自身の悪魔に問うた。
「辛くは……、ないのか?」
悪魔に身を堕として。
願いを叶えることも出来ず。
死んでなお自分の存在を弄ばれて。
辛くは、ないのかと。彼はそう問いかけた。
「ううん。辛かったことなんてない。だって、あたしはまだ生きてる。人間ではないけど、かつてのあたしとは別の存在なのかもしれないけど、まだ生きてる。あたしにとっては、それだけで十分なの」
ルサールカは旋回を止め、空中で停止する。
「もう、人間だったときの記憶なんて、ほとんど亡くなっちゃったんだけどね。これだけは覚えてる。あたしは確かに、夢を叶えたんだって。願いを叶えて死んだんだって。だから辛くなんてない。どんなに時間が過ぎ去っても、あたしはもう、十分に報われたから」
そう口にし、少女悪魔は翼の懐から
「さて、これで今回もお勤め終了っと。君といると退屈しなくて、色々と楽しかったよ。うん、これだけは紛れもない本音」
翼は掠れた呼吸を繰り返しながら、目の前の悪魔を見上げる。ルサールカは微笑していた。憐れむように、あるいは慈しむように……、彼を見ていた。途端に、怖気が走る。やり場のない悪寒が、彼の身体を駆け抜ける。
「契約の時と同じ。この魔導書をあたしが君の身体に触れさせると、『逆契約』が完了。君はあたしと同じ、悪魔になる。……残念だけど、諦めてね」
正直なところ、翼は心の底から恐怖していた。悪魔の実態は既にしてルサールカから聞き及んでいる。神に永久に使役されるくらいなら、潔く死なせてくれた方がまだ数段は救いのある結末だと言えるだろう。
ルサールカは魔導書を両手で持ち、翼の手へと近づけていく。
「じゃあ、行くよ。スリー、ツー、ワン……」
彼はゆっくりと目を瞑る。そうしなければ、耐えられる自信がなかったから。本当は叫びだしたかった。やめてくれ、助けてくれと、少女悪魔に泣きつきたかった。
けれど。もう目の前の悪魔に迷惑はかけられない。最後の最後まで醜態を晒し、惨めったらしく自らの運命を呪う愁嘆場を演じるなど、まっぴらごめんだった。それが死に際の彼に残された、最後の矜持だった。
「ゼロ! はい、ターッチ!」
手の先に何かが触れた感触がある。翼はそっと目を開け、手の先に触れたものを見、激しい困惑に襲われた。
「何の、つもりだ……」
翼の右手にぴたりと合わされたもの。それは魔導書ではなかった。少女悪魔の、小さな手のひらだった。
「いやあ、あたしらって、開始時点では最弱候補だったじゃん? 能力も貧弱だしやる気は全然ないだし、で。それにしては良くやった方だと思うんだよねえ。能力も使いよう、ってやつ? まさかここまで勝ち抜けるなんて思ってなくてさ。だから最後に、自分たちの健闘を讃えてのハイタッチ」
いつもの天真爛漫さに戻ったルサールカを見て、翼は覚った。ああ、つまり。
「君は悪魔になんてならない。君はここで死ぬんだよ。みっともなく、惨めったらしく、志道半ばでね」
つまりこの悪魔は、彼が最後に抱いたちっぽけな矜持さえも、踏み躙ろうとしているのだ。
「ふ、ふざけるなっ! 俺は、俺は……」
そう叫んで、身体に残された渾身の力を振り絞り、少女悪魔が抱えた魔導書へと手を伸ばす。けれど、悪魔の方が早かった。ルサールカは彼から遠く飛翔し、いつも通りの笑みで彼を見つめていた。
「何で、何でだ。俺を、自分と同じ目に合わせたくないからなのか……? そんなことをして、お前に何の意味がある! くっ、降りてこい!」
「そんな殊勝なこと思っちゃいないって。というか~~、調子乗りすぎ。人間童貞のくせして」
自分の言葉が面白くて仕方がないという風に、少女はけらけらと笑う。無邪気さそのものの、憎らしいまでの笑顔で。
翼は悪魔へと届かぬ手を伸ばす。
「やめろ、嫌だ。……嫌だ! 死にたくない! 俺は、こんなところで死にたくない! やめてくれ、それだけはやめてくれ! 俺を悪魔にしてくれ、ルサールカ!」
「や~~だよ」
「見捨てないでくれ。頼むから……」
「だ~~め」
「俺を、悪魔に……」
「ごめんね」
御厨翼の心からは、矜持や信念などといったものはとくと失せていた。泣きつき叫び命乞いする彼の言葉は、まさに哀願そのものだった。
「頼む。……助けてくれ」
「あまりしつこいと、女の子に嫌われるよ? 最後くらい、あたしじゃなくて彼女のこととか考えたらいいのに」
「ああ……。何もかも疲れた」
そんな言葉が、自然と漏れ出た。
「もう、休むよ」
「うん。それでいいよ」
「神には、なれなかっ、たな……」
「なれなかったね」
「約束……。守れなくて、悪かった。明後日……」
「ん? 明後日に何があるの?」
そこで悪魔は気付く。もう彼は、悪魔のことなど観ていないことに。
「お~~い。寝ちゃった?」
返答はなかった。
御厨翼は、何かを言いかけた途中で、静かに事切れていた。
「そっかあ、寝ちゃったかあ。まあ、仕方ないね」
悪魔は空中で身を翻し、契約者を一瞥した。
そして最後に、そっと労るように、
「おやすみ。よく……頑張ったね」
そう呟いて、少女悪魔は夜闇へ融けるように消えていった。
❖
「
時計の意匠が刻まれた神の居城、
その中枢に、八代みかげは佇んでいた。
「いや、あと半分とも言えるか。ふふ、そうだ。あと半分。あと半分で……」
嗤いが零れる。
「どうにも苦手なのね。あんたのその笑い方」
みかげの背後に姿を現したのは、先ほど自身の契約者の最期を見届けたばかりの少女悪魔だった。
「やあ天使。今回もタダ働きご苦労さま」
「一体さ、何がそんなに楽しいの。創って、壊して、創って、壊して。誰も報われないじゃない。それで、一体何になるっていうの? あんたに、一体何が残るっていうの?」
「自分の世界を想像すること。それが神の権能だから。創るも壊すもボクの勝手さ。余計な穿鑿はするな」
「同期だってのに冷たいなあ。あたしもあんたもあのお兄さんも、一度は一緒のゲームで戦った仲じゃん。一体さ、何の意味があってこんなことを繰り返してるの?」
「意味なんてない。それが意味だよ」
かつて人間だった神は、こともなげにそう言い切った。
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