Ep.28‐3 夢の終わり

       ◇


 死んだ。法条さんが、死んだ。

 殺した。如月葉月が、殺した。


 私は、何も、出来なかった。

 朱鷺山しぐれは、何も、何一つ出来ませんでした。


 以上、おしまい。

 何もかもおしまい。

 もう、何もかも。

 

 全てが、どうでもいい――――


 視界の隅に止まったのは黒い鉄の塊。人を殺すための道具。

 そろそろと手を伸ばす。中には三発の弾。これだけあれば、十分に過ぎる。


 もう、自分が今、どんな表情をしているのかさえも解らない。


 固く冷たい銃口を蟀谷に押し当てた。はい、もう終わり。三つ数えて全てを終わらせよう。そう、あの日から。もともとあの日から、私は死んでいたのに同然だったのだから。そう、あの日も。ゆらめく炎が、とても綺麗で。とても、清々しかった――――


       ◆


 その日の朱鷺山しぐれは、深夜遅く帰宅した。最近始めた――――趣味に、新しい友人たちとの交流に、彼女は放課後からの時間の多くを費やしていたから。

 ふと、屋敷の方向から灰褐色の煙が見えた。特に思うところはなく、しぐれは歩を進めた。家に向かうにつれ、暗鬱な気持ちは強くなる。 

 両親はしぐれを叱らない。叱ったところでどうなるわけでもないし、もう、彼らは朱鷺山しぐれという人間に対して何の関心も抱いていなかったから。朱鷺山しぐれという人間は、何処にもいないも同然だったから。

 

 屋敷の前には人だかりができていた。そして彼女は、彼女は、「それ」を見た。

 眩しい。それが第一に、彼女が抱いた感想だった。 

 光と音。弾ける大気。朱鷺山の屋敷はいまや赤黒い火炎によって、焦熱と轟音に包まれていた。

 きれい。そう、無意識に呟いていた。彼女の横では消防隊が屋敷を囲む高い塀を漸く乗り越え、庭園のアプローチを駆けていくところだった。


 ふと、聞こえる筈のない声が聞こえた。

 携帯電話の着信欄を見る。何件か、着信とメッセージがあった。内容はすべて同じ。

「お姉ちゃん、助けて」 

 ごめんなさい。私は自分ですら、助けられないの。

 だから、人を助けることなんて出来るわけがない。

 ごめんなさい。そう、心の中で呟いて、しぐれは屋敷の門の鍵を開けた。

 あんなにきれいな炎を、消すなんて勿体ない。そう、心の奥で思いながら。


       ◆


「なんだ嬢ちゃん、また情緒不安定になっちまったのか? よくないぜ自殺は。自殺は本当に良くない。何よりもさ、つまらないんだよ」

 また、邪魔が入った。こいつは、本当に、私をイラつかせる。

「一応あいつから伝言頼まれたから、伝えとくな。『逃げるなら東側から逃げてください』、だとさ」

「どういう意味」

「どうもこうもない。最後の最後、本当に最後の土壇場。あいつは、面白いことをしようとしてる。本当に面白いことさ。ああ、男なら、誰でも一度は夢に見るんじゃないかな」

「回りくどい。言いたいことだけ言って」

「つまりさ、一騎打ちだよ。正々堂々の一騎打ち。あいつ、あろうことか、嬢ちゃんを差し置いて、敵さんを一人で刺しに行った。嗤えるよな。少しは男らしい所でも見せるつもりなのかねえ」

「私に……どうしろっていうの」

「いや、何にも言わねえよ。嬢ちゃんの好きにすればいい。さっき死んだホウジョウってやつの仇を討ちたいのなら討てばいい。あいつを裏切りたいのなら裏切って、昔の仲間と仲直りしたいのならすればいい。俺としては不本意だが、死にたいなら死ねばいい。大事なのは、嬢ちゃんが自分で、自分自身の意志で、これからどうするかを決めるってことなんだよな」

「私に、したいことなんて何もない。もう、本当に今度こそ。何もかも、どうでもよくなっちゃったから」

 空白。空漠。無。今の自分を表すのならばまさにそれだ。私にはもう、死ぬことを除いては何の気力も残ってはいない。……何も?

「……嬢ちゃん。したいことがないってのは良くないぜ。人間ってのはもっと欲望に忠実であるべきだと俺は思うんだよな。かつての仲間をかつての仲間に殺されて意気消沈、無気力で無感動な嬢ちゃんに、ひとつアドバイスだ。悪い悪魔からの、悪いアドバイスだ」

 そう悪魔は言って、口を開いた。怖気が、全身を駆け抜けた。

。自分の窮地も、他人の窮地も、生き方も、死に方も、苦悩も、苦痛も、悲哀も、悲鳴も、なんでもさ。なあ嬢ちゃん、あんたはまだ気付いてないだけなんだよ。いや、とっくの昔に気付いているのかもな。そして敢えて『気付かないように』している。ユメから覚めろ、朱鷺山しぐれ。お前さ、本当は、自分のことが大好きなんだろう? 自分のことも、他人のことも、世界のことも。自分を苦しめるモノが、そして苦しんでいる自分が、他人が、苦しむことそれ自体が、好きで好きで堪らないんだろう? だから、今、?」

 悪魔は笑った。

「なんで。そんなことを私に言うの?」

「俺の契約者様な……まああいつ自体は好きなんだが、あいつの価値観自体はあんまり俺の好みとは合致しなくてな。俺には嬢ちゃんみたいなヒトデナシどうるいの方が、好きなんだよ」

 悪魔は暫し思案して、そして私に選択を突き付けた。


「ここからは独り言なんだが。このままだとあいつ、やられちまうぜ? さあ、あんたはどうする? どうしたい? なあ、朱鷺山しぐれ。あんた自身が、あんた自身の意志で決めな」


       ◆


 また、雨がやってきた。

 御厨翼は天を仰ぎ、そして深く嘆息した。

 法条暁は、もういない。だから、もう敵との対話は有り得ない。ただ、撃ち滅ぼすだけ。ただ冷徹に、舞台から叩き落とすだけだ。

「はあ、あんな善人どもを相手取って、まともに戦えるのかどうか」 

 誰に向けてでもなく呟かれたその言葉に、闇から返答があった。

「……心にもないことを。あなたに限って、そんなことは想わないでしょう」

「またお前かよ、金牛宮。いや、本名で呼んだ方がいいか?」

 明確な害意を以て、彼は翼を睨んだ。

「俺はさ、お前の真意が掴めない。他人を騙して、味方も騙して、恐らくは自分さえも騙して。お前は一体その先に、何を望むんだ?」

 ……沈黙。

「あなたには、関係のないことです」

 そう言って、彼は翼へと一振りのナイフを放った。

「何のつもりだ。罠か?」

「いいえ、今夜は正々堂々、一騎打ちと行きましょう。……ボクもあなたも、立場は似たようなもの。自分の愛しいものを、自分で壊そうとしている。つまりは、進んでも戻っても地獄ということです」

 翼は天城を地に横たえ、そして彼と対峙する。

 思い返すのは前回彼と相対したときに起きた、不可解な現象。

 あのとき、自分自身がかけた『動くな』という命令に、自分自身がかかっていた。だから動けなかった。だから、みすみす二人もの標的を目の前で逃した。

 恐らくは金牛宮の権能。だが、果たしてどのような効果なのか? 自分に対してかけられた権能を跳ね返す? 若しくは、相手よりも先に相手に相手の権能をかけることができる、だろうか? 答えは出ない。だから翼に出来たのは、これだけだった。

「権能、『高貴粛清』。『金牛宮に勝利しろ』」

 地を蹴った。

 翼は相手へと肉薄し、ナイフを振りかぶる。

 鉄と鉄が弾け合う音。能力が介入する余地もない。

 二人とも、目の前の相手以外のものは、見えていなかった。目まぐるしく反転する視点。ただの、単なる力の応酬。それだけが、二人の少年の間に在った。

 二十か、三十合か。それだけ打ち合って、いや、打ち合ったからこそ、勝負はついた。

 組み伏せる少年が一人。組み伏せられる少年が一人。闇夜に、そのシルエットを浮き彫りにさせる。

「あなたの敗けです」

 金牛宮はナイフを真っ直ぐに翼へと、振り下ろし、いや、振り下ろそうとして、ほんの一瞬、一瞬だけ、腕を硬直させた。

「……なんだ。お前、口だけかよ」

 自身に向けられたナイフを、満身の力をもって振り払う。

「やめて、ください」

 懇願するように、少年は呟いた。

「はあ、今更命乞いか? お前らしくもない。往生際が、悪いんだよ」

 翼は金牛宮の身体の真中へと刃を突き入れた。……何か。刃先が固いものに触れた感触があった。

 金色のふちが付いた、美しい時計だった。盤面は割れ、刃の先は止まっている。 

 奇妙な音が響いたのは、翼が目の端に時計を捉えた、その瞬間だった。

 金牛宮が叫んだのも、それと同時だった。

「やめて、ください! !」

 体が異常に熱い。

「……あ?」

 腹部に手をやる。赤黒い血が、べっとりと手に着いた。訳も分からぬまま地に倒れ伏す翼に、その人物は告げた。


「仇だ。マキちゃんの、仇」

 朱鷺山しぐれは茫然と、銃把を握った自身の腕を見た。口許に、何か可笑しな薄笑いを浮かべながら。

 そして、一歩一歩、翼に歩み寄る。

 銃口を構える。震えるその手から、銃が零れ落ちた。

「……できない。できないよお、私に、人を殺すなんて、できないよお」

 泣いていた。翼は心底、不愉快な気持ちになった。

。はっ……。お前ら二人そろって、甘いにもほどがあるんだよ。敵は殺せるときに殺せ。博愛主義じゃ誰も救われないんだよ。人が人を殺めるのは詰るくせに、いざ自分の段になった途端にこれだ。お前には、もうそれは撃てないよ」

 彼女はただ、赤子のように泣いた。泣き続けた。たとえ憎い敵でも殺せない、殺したくない、と。

 翼の側で、金牛宮が起き上がった。そして背後から抱きすくめるように、しぐれの手に銃を握らせる。雨の中、二人羽織のように、少年と少女は、ひとつの銃を握っていた。

「一緒に、撃ちましょう。ボクたち二人で、この人の命に責任を負うんです。これで、ボクはもう……共犯者だ」

 乾いた銃声が一つ、暗天へと吸い込まれていった。


       ◆


 気付けば、誰かの肩の上で揺られていた。

「だいじょうぶ。助かる、まだ助かるから」

 そいつは、自分に言い聞かせるように、何度もそう言っていた。

 俺は思ったことを口にする。

「いや、もう無理だ。俺は置いてけ」 

「絶対に、助けるから」

 そんなことを言って、そいつはまた、急な下り坂を降り始めた。

「あんた、何でそこまでしてくれる? 敵だろ、俺たち」

「……関係ないよ。もう誰かが死ぬところを、見たくないだけだ」

 どうやらこいつは、呆れるほど、いいやつらしかった。くぐもった声で笑う。

「大丈夫かい? 苦しく、ないかい」

 背負った俺に、怪訝そうにそう訊ねる。

「いや……。案外、世の中捨てたもんじゃないんだって、思ってさ」

 ああ。あんたみたいな底なしの善人にもっと早く出逢えてたら、俺の人生も変わってたのかもな。

「もう、喋らないで。頼むよ。あと、あと少しだから……」

 そいつは、そう言ったけれど。俺は口を開いた。

「頼みがあるんだ。あいつに……」

 そう言いかけて、気付く。もう、息はそんなに長く続かない。ポケットから目的のものを取り出して、肩の上からそいつに手渡す。

「命令、だ、『――――』」

 そいつは俺を林道の片隅に下ろして、見ているこっちが居た堪れなくなるような悲しそうな表情のまま、坂道を下って行った。


       ◆


 翼は仰向けに寝転がった。分厚い雲に遮られて、空の先は見えない。

「……畜生。あいつら、二人がかりでも、狙うところを狙えないのかよ」

「あ~~らら。心変わりしたと思った矢先にこれ。いや、心変わりしたからこそ、こうなっちゃったのかな?」

 意地悪そうに、少女悪魔は翼を見据えた。

「もって二分ってとこだね。どう? 最後に何か、あたしに訊きたいこととか、ある?」

 少女悪魔は邪悪に笑って、口を開く。

「たとえば、敗者の末路とか。契約強化の代償とか。……悪魔とは何か、とか」

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