Ep.28‐2 業火の果て

       ◇


 思い返すのはいつだって、初めて見た彼女の笑顔だった。笑顔のまま口に出された言葉だった。彼は今まで、人にそんな贈り物を投げかけられたことがなかった。ただの一度も。だから、それだけで、彼は救われた。彼は報われた。

 自分で自分のことが嫌いでも、他人を好きになることは出来るのだと、好きになってもいいのだと、その日、黄昏に染まった歩道橋で、彼ははっきりと自覚したのだ。


 だから問いへの答えは、もうずっと前から彼の中で決まっている。


「……誰のためでもない。何のためでもない。ましてや世界のためなんかじゃない。ただ、『間違っている』と思ったから。あいつが、あんな良い奴が泣いていること自体が、間違っていると思ったから。世界を変えたい理由なんて、それだけ。ただ、それだけだ」

 御厨はそう言い切って、静かに瞑目した。法条暁の判断を、仰ぐように。 

「……そうか。それが、君の答えか」

「ああ」

「君が創る世界では、結花は幸せになれるだろうか」

「ああ。幸せになれる。幸せにする。法条……。あんたは人の命は平等だって言ったよな。あんたは命を選ばないんだ。選べないんだ。自分の身内の命でさえ、他の命と平等なんだ。常に数歩身を引いたところから人間を裁いて、正すしかない。あんたは全ての人間を平等に俯瞰する、絶対者の立場に身を置きたかったんだ。そうすれば、命を『選ぶ』苦しみから解放されるから。そうすれば、法を破った者を冷徹に裁く思考機械として、自らを機能させられるから。だから、『推定有罪』は自分自身には適用されない。……『。それがあんたの歪みだ。あんたの弱さだ。俺は違う。俺は選ぶ。あいつを幸せにする未来を、選ぶよ」

「君は、結花を愛しているのか。あの子は大人しそうに見えて芯は大分固いぞ。我も強い。かなり頑固で意固地だ。私でも手を焼くほどだ。背負えるのか?」

「ああ。あいつのことも、あいつを貶めた奴等の罪も、自分自身が犯した罪も、全部認める。全部背負う」

「そうか。それは、頼もしいな……」

 その言葉で、御厨翼は気付く。彼女の真意に。

「おい法条、お前、まさか……」

「最後にひとつ、警告しておこう。君は人間の幸福のために、自ら進んで不幸になろうとしているだろう? 自ら進んで悪に堕ちようとしているだろう? それは、止めた方がいい。私でさえ仮初ではあるが『答えを知るため』って取り分はあったんだ。やはりね、少しくらいなら、願望も尊いものだよ」

「法条、お前。最初から、わざと……」

「……御厨翼。幸福を求めろ。求めて足掻き続けろ。そうでなければ人生はつまらない。今のままでは、たとえ神になったとしても、君は、君自身は幸せになれない。だから、最後の最後まで、君は希望を追い求め続けろ。……結花を。あの子を、幸せにしてやってくれ」

「わざと、負けるつもりで……! 俺に答えを言わせるつもりで、俺の真意を確かめるつもりで……!」

 法条は小さく笑い、その言葉を口にする。

「私の、負けだ」


       ◇


 結界が解けていく。勝敗は既に決した。御厨翼の勝利。そして、法条暁の敗北だった。


 法条も御厨も、目に見えて疲弊していた。特殊ルールの敷かれた結界の中だからだろうか。確かに、見ているだけだった僕たちにも、かなりの心理的負荷がかかっていたような気がする。御厨は悄然と佇む法条の手からロケットのスイッチを取り、静かに後退した。

 

「勝負ありだね。アタシらの勝ち~~! いぇ~~い! 神様確定~~!」

 御厨の悪魔は空中を飛び跳ねまわっている。御厨は彼女を嗜め、そして僕たちの方へ向き直った。


 ……そう。どちらにしろ、僕たちは詰んでいたのだ。詰まれる相手が法条暁か御厨翼だったかの、ただそれだけの違い。彼の網の中に入ってしまった時点で、勝敗は決していた。

 御厨の口が、ゆっくりと開かれる。どんな命令を敷かれるのか。僕は思わず目を瞑った。

「……流石にもう、今夜は疲れた。決着は日を改めて、だな」

 御厨はそう言って、よろよろと床に座り込んだ。


「え~~! 今なら一網打尽なのに~~! ちょっと、何やってんの~~!」

 少女悪魔は大層不満そうだった。


「……何が何だかわからないけど、助かったみたいね、あたしたち」

 葉月が弱弱しく微笑んで、僕の方へと歩き出した、その時だった。


「いいや。まだだ。まだ、終わってなどいないんだよ」

 そう、彼女が不敵に笑った。

 御厨の足元に不意に扉が空き、彼はその中へと引きずり込まれた。数秒の後、御厨は僕たちから遠く離れた熔鉱炉の後方辺りで、天城に組み伏せられていた。空間を移動する能力? それに、御厨の影武者だった早川も姿を消している。一体、何が……。


「迂闊だったな、御厨翼。君が現れたときから、天城君には能力内で待機命令を出していてね。不意打ちで済まない。まあ、お互い様だろう?」

「まだ続けるのかよ。もう、勝手にしてくれ。流石に勘弁して欲しいんだけどな……」

 御厨は忌々しげにそう呟いた。

「『負け』という言葉の定義を曖昧にしたのが失策だったな。負けではなく、『死』とでも設定しておけばよかったものを。確かに、今しがた私は君に敗北した。だが、

 法条はそこで言葉を切り、ある一人物に対して、こう告げた。

。何をしている。君は、あの約束を忘れたのか」

 葉月の身体が、びくりと痙攣した。

「……でも、でも法条さん! もう、決着は着きました! もう、あたしたちが争う理由なんてないはずです!」

 法条は静かに、かぶりを振った。

「一度裏切った仲間と組めるほど、君の相棒は辛抱強くないだろうね。それに、決着が着いたのは、私と御厨とだ。私と君との決着は、まだ着いていないぞ」

 葉月の表情が青くなっていく。手足は小刻みに震え、唇は強く噛み締められていた。

 ……葉月と法条の、約束? 一体、何のことだろうか?

「私は、君の、君たちの敵だ。さあ、かつての仲間を打倒して見せろ。如月葉月」

「どうしても、ですか? もう、あたしたちとは一緒に戦ってはくれないんですか?」

「ああ、どうしても、だ」


 葉月は立ち上がり、僕の腰に差してあった刀を静かに抜いた。

「ごめん。借りさせてもらうね、アマネくん」

 そうして葉月は、法条と対峙した。

「やめろ! おい、如月! ふざけるな! 『戦闘行為を……』」

 御厨は藻掻き、命令を敷こうとしたが、天城に即座に口を塞がれた。

 

 他者に介入の余地などない。

 これは、二人きりの戦い。たった二人の、戦い。

 如月葉月と法条暁。獅子宮と天秤宮。かつて信頼すべき仲間だった、二人の女性の戦い。


 館内放送が、午後十時を告げる。


「「権能イノセンス――――」」


 音が爆ぜる。光が迸る。


月下ムーンイズ――』『推定バーニング――』 


 互いが地を蹴り、互いの血を奔らせる。


美刃マイン!』『有罪コート!』


 どちらが早かったのか、どちらが先に権能を発動し終えたのか、実際のところは解らない。けれど、法条暁は何かを言いかけて、


「――――、た」


 言いかけたまま、



「ごめんなさい。あたしの勝ちです、法条さん」


 葉月の刃に胸を刺し貫かれたまま、


 どこか寂しげな表情のまま、


 行き場を失ったようによろよろと後退し、


 崩れ落ちるように鉄柵を超えて、


 静かに、


 吸い込まれるように、


 花弁が舞い落ちるように、


 熔鉱炉の炎の中へと、


 燃え盛る業火の中へと、


 落ちていった。


 一際高く、炎の柱が立ち昇った。届かなかった彼女の願いを、天へと届けるように。


 彼女のコートのポケットから転がり落ちた一丁の拳銃が、乾いた音を立てて空間に残響した。


 およそこの世のものとは思えない絶叫が通路から響いたのも、それと同時だった。


       ◇


 その人物が果たして誰なのか、いや、、僕には最初、判断がつかなかった。

 振り乱した朱色の髪にはところどころ白いものが混じり、陶器のように白かった肌は今や泥や汗や涙やらで汚れ、元の清らかさを損なっている。赤く血走った両目には狂気が滲み、唇を噛みすぎたのか、その口元からは幾筋もの血が垂れていた。


「……あなたは」

 

 葉月が口を開くのを待たずして、その怪人物は葉月へと躍りかかった。不意を突かれた葉月は体勢を崩し、そのまま地へと投げ出される。


「何で。なんでなんでなんでなんで、なんでっっ! どうしてっ! 法条さんを殺したっ! 答えろっ、如月葉月っ!」

 彼女は叫んだ。

「敵、だったからだよ。あたしたちの」

 葉月は彼女を真っ向から見据えて、そう呟いた。

「敵? い、意味が解らない。は、あはは。お前、やっぱり頭おかしい。狂ってる。狂ってるよ、お前っ! 敵だから? 悪だから? 倒さなければならないから? ふざけるなっ、そんな理由で、納得できるわけないだろっ」

 彼女は葉月の上に馬乗りになり、何度も葉月を殴打した。葉月は黙って、彼女にされるがままされていた。

「アリスちゃんが死んだことを知った時だって……。お前はおかしかった。少しも悲しむ素振りなんて見せないで、仕方なかったよって、なんだよそれっ! 人が死んでるのに、人が殺されてるのに、お前自身すら人を殺してるのに、何にも思わないのかよお前はっ! このっ……」

 彼女が再度大きく腕を振り上げたその時、葉月は動いた。上に乗った彼女の足を素早く払いのけ、そして今度は自らの足で彼女の顎を強かに蹴った。骨の砕ける、嫌な音がした。


「いい加減うるさいよ、黙って? そんなキャラじゃなかったでしょ、しぐれちゃん」

 よろよろと立ち上がって、葉月はそう吐き捨てるように言った。


 数日ぶりに顔を合わせた朱鷺山しぐれの精神状態は、端から見ていても尋常ではないことは解った。錯乱している、と言ってもいい。常にぶつぶつと何か独り言ち、瞳孔は見開かれている。四肢は震え、口許には奇妙な笑みが張り付いていた。猫のようだ、と僕は思った。


 しぐれが葉月に蹴り壊された下顎を瞬く間に権能で治癒させ、再度葉月へと掴みかかろうとした、その時だった。


「仲間割れも結構だがな、鬱陶しいんだよ。耳障りな声で喚くな、雌猫」

「ああ!?」

 しぐれは歪んだ形相で後方を振り向く。

「今夜はあの気怠そうな連れはいないみたいだな。好都合だ。それ以上続けるのなら、俺は如月側に付く。お前はここで脱落だ」 

 しぐれは御厨を睨みつけたが、戦況的に敵うはずもなく、静かに項垂れた。


 戦いが、終わった。最後の最後まで自分にとって正しく在ろうとした、自分にとっての正しさに殉じた、一人の女性の旅路が。僕は傷を負った葉月に肩を貸す。正気を喪ったしぐれをその場に残し、元から来た東通用口側の通路へと、歩を進める。 


 一度だけ振り返ると、最後に御厨と目が合った。感情というものの一切が失われた能面のような表情で、彼は呟いた。


「最後まで悪役として、か……。。あんた、本当に馬鹿だよ。本当に……」

 何かを必死に堪えるように、そんな言葉を口にして。茫然と佇む天城真琴を引き連れて、御厨翼は西通用口側の通路の奥へと消えていった。

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