二十八節 「胸裡」

Ep.28‐1 救済か支配か

 世界が塗り替えられていく。立ち現れるのは彼女が統べる絶対空間。

 対するのは二人の人間。僕は確信する。この「勝負」こそが、このゲームの大一番になるということを。即ち、この勝負を勝ち抜いた方が、次の――――

 空間の歪みが消え去り、結界が完成する。僕たちはただ、見ていることだけしかできない。法条暁と御厨翼、二人の舌戦の行方を。『負けだと思った方が負け』。この戦いはこれまでと同じ単なる力勝負ではない。いわば心と心の戦い。願いと願いの戦い。互いの持つ世界りそう同士の、戦い。


 先に口を開いたのは御厨の方だった。


「最初に言っておくぜ、法条。俺が目指す世界では、あんたも俺も生きるに値しない人間だ」

「……君は、神になった後に何を求めると言うんだ。人類に、何を与えるつもりだ」

「決まってる。だよ。法条、俺やお前には一生かかっても理解できない概念さ。なあ法条、お前、『生きてて楽しい』って思ったことあるか?」

 御厨翼は自嘲的に笑い、法条暁に問う。

「楽しいも苦しいもない。私はただ、人を正すために――――」

「だよな。あんた、そもそも『人生は楽しむもの』『人生は楽しまなければならない』みたいな根本的な姿勢そのものが欠けてるんだ。……実はさ、俺もなんだよ。生きてて楽しかったことなんてない。そもそも、楽しいってことがどういう状態なのかさえも解らないんだ」

「……君は先ほどから、何の話をしている?」

「……。抑々さ、幸福になる資格すらも与えられていないんだ。普通に生きているだけで幸福を享受できない。幸福を感じられない。俺たちは立派な病気なんだよ。とっくの昔に壊れているんだ。終わってるんだ。詰んでるんだ。世の中には、案外こういった人種は多いと思うぜ? 『何をやっても楽しくない、幸福が何かも解らない』、俺やお前みたいな生まれついての欠陥人間がさ」

「それで君は、その『欠陥』とやらを埋め、全人類が幸福になれる世界を創ろうというのか? それこそ夢物語だ。それこそ誰もが諦める幼稚な幻想だよ。誰もかもが幸福な世界など、世界として破綻している」

 御厨は短く嘆息してから、再び口を開いた。

「いいや、生憎と俺はそんなに善人じゃない。博愛主義者でもない。さっき言ったろ? 『人間を救おうなんてこれっぽっちも思ってない』、ってさ。俺が言いたいのは、幸福になる、幸福になれる人間は限られている、予め決まっているってことなんだよ」

「幸福の価値基準、資格……。生まれ持った財産や、容姿や、天賦ともいえる才能や能力の有無によってか? それこそ愚昧だろう。そんな俗な価値観は君が最も嫌いそうなものだと思っていたのだけどね」

「ああ。俺だってそんな価値観は反吐が出るほど嫌いさ。だがな、自分で言うのもなんだけど、『生まれ持った』って点なら、俺やあんただって素養自体は悪くないはずなんだ。でもさ、幸福を感じられない。『自分は他者より優れている』なんて下らない優越感に浸ることすらできない。何でだと思う?」

「それは、先ほど君が言った通り、普通のヒトに備わっている『幸福になる姿勢』とやらを形作れなかったからなのだろうな」

「ああ、そうだ。その通りだよ。だからさ、俺が目指すのは、『幸福になるべき人間だけが幸福になれる』世界だ。あんたみたいに初めから『全人類』を救済するなんて大言壮語は吐けない。こちとら根っからの悲観主義者でね。『全員が救われる』世界なんて純真な夢想するほど、人間が出来ちゃいないんだ。だから。切り捨てるべきモノは最初から。神気取りのセリフだけどさ、やっぱり人間は増えすぎたんだよ。俺たちみたいな生まれついての欠陥人間は世界に要らない存在だ。だからすべて消し去る。悪逆だと暴虐だと謗られようと、一切の情けはかけない。選ばれた少人数の人間だけが最大限の幸福を享受できる世界。小国寡民。最小少数の最大幸福。それが俺の理想世界だ」


 ……暫しの、沈黙。僕は震えた。法条暁も大概だが、御厨翼も完全にどうかしている。つまり、つまるところ、彼は。彼は人間を……。


 法条暁の理想世界。それは全ての悪を神が裁く世界。そこに幸福はない。ただ秩序のみがある。

 御厨翼の理想世界。それは全ての悪を神が担う世界。そこに秩序はない。ただ幸福のみがある。

 どちらの世界が優れているのだろうか。どちらの世界も著しく壊れている。どちらの世界も著しく歪んでいる。

 けれど、僕は二人の理想を貶すことは出来なかった。語るべき理想を持たない僕には、二人の世界を糾弾する資格すらないのだから――――


「あんたの世界が全人類を『救済』する世界なら、俺の世界は全人類を『支配』する世界だな。。さあ、どっちの方が優れた世界と言えるんだろうな?」

「君は、どうやってその世界を実現する? 数十億もの命を、どうやって繋ぐ? 神が如何なる権能を持ち得ようと、それだけの命を支配・管理するなど無謀も甚だしいぞ。事実あの八代みかげでさえ、私たちの行動を十全に予測していたとは言い難いだろう?」

 御厨は低く笑い、返答する。

。これだけ言えば、あんたなら分かるだろ」

「群衆生態学用語で、『天災や疫病等の災害に見舞われたとしても、種が存続できる最低限の個体数』だったか。ああ。そうか……。つまり君は、人為的に、いや神為的に、『世界を自分の手の届く範囲まで縮めよう』と言うんだな。馬鹿なことを。一体何人殺すつもりだ」

 法条は御厨を見据える。その言葉には先ほどの狼狽から生じた隙は完全に失せていた。

「さあな。千や万では利かないんじゃないか? 言っただろ。俺は善人じゃない。全員が救われる世界なんて最初から諦めている。だから自分の手の届く範囲だけ、支配できる分だけ支配する。選ばれなかった人間は俺の世界から完全・永久に追放する。選民思想でもオストラシムズでも、何とでも非難してくれて構わない。俺だって自分が異常なことをしようとしていることくらいは分別が付いているんだからさ」

「そうだとしたら、何故止めない? 君はまだ引き返せるんだぞ? 君は……」

「『私と違って人を殺していない』、か? 法条暁、あんたが公な場で裁き切れなかった人間を私刑してたのは知ってるよ。そこの男から聞いた。正確には訊いた奴から聞いた、だけどな」

 御厨は言葉を続ける。

「残念だったな。俺もあんたと同じ人殺しさ。しかも俺は『無能である』以外には何の罪もない人間も殺してる。だからもう、引き返すなんて道はないのさ」

 御厨の後ろで、少女悪魔が腕組みをしながら感心したように頷いている。

「よく言うだろ。自分を世界に合わせるか、世界を自分に合わせるかってさ。……馬鹿な話だよな。俺は何でもかんでも二元論を掲げる奴は一人の例外もなく思考停止のクソ馬鹿だと思ってる質だからさ、こう思うんだよ。自分か世界か悩むくらいならさ、自分と世界を完全に一致させればいいんじゃないかってさ。あんたはさ、救えたとしても自分の手の届く範囲の人間しか救えない、って言ってたよな。だったら、それでいいじゃないか」

「救える分だけ、救う? 支配できる分だけ、支配する? 馬鹿な。そんなことが許されるはずがない。

 法条暁は反駁する。

「は、結局あんたはそこに立ち返りたがるんだよな。善か悪か。白か黒か。無辜か邪悪か。そんなに、事の善悪が、人間の本性が大事かね……」

「ああ、大事だ。他の何よりも大事だ。その疑問を解決することが、その解を確かめることこそが、私の生きる意味の全てだ! 答すら手に入るのなら、世界すらどうなっても構うものか! 御厨翼、君の世界は大いなる矛盾を孕んでいる! いいか、たとえ神になったとしても、君は、君自身は……」

 法条暁の口調からは最早悠然さは失せていた。そこにあるのは彼女の叫びだった。

「最後まで言わなくてもいいぜ。もう、解ってるからさ」

 御厨はそう寂しげに呟いてから、法条を真正面から睨めつけた。

「なあ法条、『人間の本質が善か悪か解らない』、『その答えを知ることこそが私の願いだ』ってあんたは何度も言ってるけどさ。法条、人間が善か悪かなんて、あんたの中ではとっくに答えが出ているんだろ? だってさ……」

 法条暁は微動だにせずに立ち尽くしていた。まるで次に紡がれる言葉が解っているかのように。

「だってさ、もし悪人だと思っているのならさ、あんた、初めから人を救わなかっただろ。人を正さなかっただろ。……あんたはさ、『人間の善性を信じたい』んだ。。ヒトが善なるものだと信じているからこそ、正したいと思っている。在るべき姿に戻したいと思っている。あんたは、根っからの性善説者なんだよ」

 法条は無言で、項垂れていた。

「……君に、私の願いを言い当てられるとはな」

「負けを、認めるか?」

 御厨が問う。狂おしいまでの沈黙の中、僕たちは成り行きを見守る。

 法条暁が、ゆっくりと顔を上げた。彼女の相貌からは、もう迷いは消えていた。

「いいや、認めない。認めるものか。……御厨翼。君は、これまでの会話で、意図的に避けた話題があるな? ことによると願いの内容すら、私に敗北を認めさせるために即興で作り上げた虚言の可能性もある。確かに私の本当の願いを言い当てたことは認めよう。だが勝敗とこれとは話が別だ」

 今度は、法条暁が攻勢に出る番だった。御厨の表情が硬くなる。

「君が意図的に避けていた話題……。つまり、。さあ、聞かせてもらおうか。君の世界で、私の世界で、彼女はどうなる?」

「……っ。自分の妹のことを、他人のことのように話すな」

「他人だとも。家族ではあるが他人だ。、御厨。他人のことを自分のことのように理解できると宣うのは、思い上がり甚だしい戯言だ」

「……あんたは、結花を救わないのか?」

「それはあの子次第だと言うほかないな。あの子が悪人ならば、即ち、自らを凌辱した不良学生どもに報復しよう、などと愚かにも考えているのならば、あの子は推定有罪によって死刑だ。報復感情も、私にとっては断ずべき罪の一つでしかない。復讐は復讐を、罪は罪を呼ぶ。そんな不毛な連鎖は早々に断ち切るべきなんだよ」

「……違う! あいつは純然たる被害者だ! 悪いのはあいつらなんだよ! あいつが、あいつがいたからっ……」

「ふふ、君も結局は、私が今まで見てきた人間たちと変わりないね。世界だの理想だの、掴みどころのない概念となれば雄弁だが、自分のこととなると途端に必死になる。やはり醜いな、欲望とは。君、結花とはもう、したのか?」

「……は? お前は、何を……」

「性交したのか、と訊いているんだよ。ああ、その様子だとまだらしいね。今どき珍しい純情だ。良かったよ、目先の欲望に囚われないだけ君はまだ有望と言えそうだ」

「何が、言いたいんだよ、あんたは……」

「つまり、こういうことだよ。? ? どちらなのかと訊いている。……慎重に選べ。君の答え次第で、私の答えも決まる」

 御厨の緊張が、僕のところまで伝わってくる。法条結花。三神麻里亜の親友で、御厨翼の恋人。そして、法条暁の妹。凌辱され、心身ともに病んでしまった哀れな少女。

 一体誰が、彼女を救えるのだろうか?


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