Ep.27-4(白) 混じり合う黒白
御厨翼、と名乗った少年は僕や葉月の脇を通り過ぎ、法条暁の許へと向かっていく。
危ない、という言葉が咄嗟に口を付いて出た。五十メートル以内に入れば、彼も推定有罪の餌食だ。しかし予想に反し、御厨少年は悠々と法条の領域内に踏み込んでいく。そして法条の近くで力なく座り込んでいる青年の腹部を乱暴に蹴り上げ、あまりにも冷たい声で、こう告げた。
「起きろ。お前は生きる価値のない
◆
結花にあれだけのことをしておいて、あんなに酷いことをしておいて。そんなオマエでも涙を流すんだな。そんなことを考え、御厨は瞑目した。そして、最後に命じる。自身が考え得る限り一番最悪なカタチでの死を、与えんがために。
「早川慶太。最後の命令だ。『お前の今までの二十一年間分の記憶、全て忘却しろ』」
早川は車に引き潰された蛙のような奇妙な悲鳴を上げ続けて、頭を掻きむしった。瞳孔は充血し、返り血で濡れた肌は既に元の色が解らなくなっている。
「うっわ、えげつね~~。まさかの記憶全消去。これには流石のルカちゃんもドン引きっす」
「安心しろ、ちゃんと意図はある。なあルサールカ、悪魔憑きとは言うけどさ、悪魔って常に契約者と行動を共にしなければいけないわけじゃないよな?」
「うん? まあ、そうだけど」
少女悪魔は翼の企図するところを掴みかね、小首を傾げた。
「それなら案がある。お前さ、もし俺が「今からだ」って口にしたら、暫くこいつと行動を共にしてくれ」
「……それって、要するに影武者ってコト?」
「ああ、簡単に言えばそうなる。記憶を消したのはおまけみたいなもんだ」
そして翼は完全に呆けた早川青年の襟を掴み、嗜虐的な笑みを浮かべこう言った。
「いいか、よく聞け。お前は今から御厨翼だ」
……そして数瞬の後、早川慶太の意識は完全に塗り潰された。
それから数日の間、翼の早川への洗脳は続けられた。昼夜を問わず早川に自身の生い立ち、話し方や言葉遣い、自己評価や価値観に至るまでを記憶させ続ける。
「えっぐいこと思いつくねえキミは。これ、もうどうやってもまともには戻せないんじゃない?」
「だろうな。一生精神病棟のベッドの上で過ごすんじゃないか? ……こいつには能力と別で強力な催眠をかけておいた。俺が『お前は生きる価値のない人間だ』と口にすれば、こいつの新たな自我は崩壊する。簡単に証拠隠滅さ」
「ふうん、なるほどねえ。ロケットのハッキングも催眠術もしちゃうし本当天才サマって怖いわ」
入れ替わりのタイミングには運も絡んだ。最低限の期限では、全校生徒を粛正し、三番目の極大の権能強化権を得てから。取り逃がした宝瓶宮と金牛宮の存在を考慮すると不安材料もあったが、ルサールカの遠視を以てしても姿を把捉できなかったことから、既に死亡したか、あるいは頑なに自分との再接触を避けているか。どちらにしろ彼にとっては好都合だった。
電波塔のハッキング中に早乙女操と周青年が不意に尋ねてきたのは、かなりの誤算ではあったが、彼はその状況すらも逆手に取った。即ち、早川慶太=人馬宮の保証人として、二人を利用することに決めたのだ。
◇
御厨少年が語ったのは身の毛もよだつ真相だった。
憎い人間は殺さない。利用する。記憶を全部消して、仮初の記憶で上書きしてでも影武者として利用する。
「こんな人間として最底辺のクズでもな、多少は役に立ってくれたよ」
呻きを立ててその場から逃げ出そうと地を這いつくばる早川慶太を見、御厨翼は淡々と言葉を紡ぐ。
「にしても周、お前と早乙女が俺の居場所を探すのがあれほど早いとは予想外だったけどな。入れ替わるタイミングは実際あのときしかなかったわけだし、運にも恵まれたよ俺は」
「めちゃめちゃ焦ってるようには見えなかったね、アタシには。獲物が巣にかかるのを観止めた蜘蛛って感じだったけど」
人馬宮の悪魔はくるくると旋回し、本当の契約者の元へと戻った。
思い出した。僕が先ほど記憶を手繰り寄せていた、人馬宮の陣営に属する誰か。それはあの少女悪魔だった。だって、だって、あの子は……。あの子は。
「よっす、お兄さん、お久し振り~~。電波塔で君を初めて見たときは驚いちゃった。まさかこんなところでまた逢うなんてビックリだよねえ」
僕の記憶が再び生々しく再現されかけていたその時、御厨は法条と対峙していた。
「なあ法条、さっき人間の本性が善か悪か確かめたいとか抜かしていたよな? 俺からすれば笑止千万も良いところでさ、何でそんな二千年以上も前の話を蒸し返すのかがよく解らねえんだよな。性善説か性悪説かなんて二元論的価値観なんかに、あんたほどの人間が未だに囚われていたなんてな。いや、あんたほど賢ければ、考えるに値することなんてそれくらいしかなかった、とも言えるか」
「……君には回答が解るというのか」
「回答、ね。なあ法条、俺の答えはこうだよ、「どうでもいい」。まあ強いて言うなら性悪寄りだな。本当に善だったら「善悪」なんて概念さえそもそも存在していないだろうし。人間の本質が善であるか悪であるかなんて、人間が悩むことじゃない。どっちでも構わないし、それならいっそ個人が一人一人に対して決めればいい。あいつは善で、あいつは悪だってな。どの道あんたの夢見る世界はドン詰まりなんだよ……。実情がどうであるかは別としてさ」
「君には、私の代わりの理想世界があるというのか。私の、『全ての人間が法を守り正しく生きる世界』を、君は否定するのか」
「ああ、否定するね。時代遅れのディストピア小説じゃあるまいし、そんな世界は先が見えてるよ……。ああ、この話はまあ、どうでもいい。ところでさ法条、あんた今俺に訊きたくて訊きたくて仕方がないことがあるんじゃないか?」
法条は御厨を見、そして訝しむように尋ねた。
「君は……何故私の敷いた『動くな』というルールの中で動けている。推定有罪が効かないのか? しかし、だとしたら何故、一体誰が……」
「呑み込みが早いな、流石に。問題は、そう、如何にして法条暁の『推定有罪』を無効化するにあったんだ。『
僕たちは固唾をのんで御厨少年の話を聞き続けていた。
「あんたが俺に訊きたいことを当ててやろうか? つまり、こういうことだ。俺に『推定有罪』は効かない。効かないということは俺には既に誰か別の権能がかかっている。それが誰のものなのかって話なんだろ、要するにさ」
そう、御厨少年の言う通り、推定有罪の効果は法条自身と、既に誰かの能力で操られている場合には効力を発しないのだ。御厨が自由に動けまわれている以上、考えられるのは「御厨自身も誰かに操られている」可能性。……わざと誰かに、推定有罪を防ぐためにかけさせた? しかし、あれほどの入れ替わり計画を即興で仕立て上げる計画性と判断力を有しているのに、わざわざ他人から能力をかけられる必要があるのだろうか? それに御厨の命令能力も人を操るタイプの権能だ。操られることのリスクは重々承知しているはず。操さんからかけられた可能性も考えてみたが、僕たちは本物の御厨翼に会っていない(僕たちが電波塔を訪れる直前から早川と入れ替わっていた)のだから、この線は有り得ない。
すると、残るのは……。
「まさか、君は……。自分で、自分に……」
「そういうことだ。今の俺には俺自身の権能がかかっている。『法条暁と戦え』って、決して逆らえない命令の楔がな」
「在り得ない! そんなことは有り得ない! 私たちの権能は他者へとかけるものだ。それが本来の用途だろう? 何故、自分に掛けるなんて馬鹿な真似を……」
「そこが俺とあんたの決定的な違いだな。自己に重きを置くかどうか。自己を能力の対象とするかどうか。法条、俺はさ、残念ながらあんたと同じような高潔な人格者じゃないんだ。「人を救おう」なんて大それたことなんて考えちゃいない。死んだほうがいい奴なんてこの世に掃いて捨てるほどいるって心の底から思っているし、俺自身ですら自分のことを生きる価値のない人間だと認識している。世界なんていつ滅んでも構わないと思ってるし、しょうもない人間は誰に何をされようが一生しょうもないままなんだと諦めてる。……もうとっくの昔から自覚しているのさ、自分が
法条暁の相貌には次第に焦燥が見え始めていた。僕たちは、成り行きを見守ることしかできなかった。
「ああ、法条、お前だって。あいつの姉でさえなかったら、本当はどうだって良かったんだよ。だけどさ、今のあんたは流石に俺でも観ていられない。さあ、『推定有罪』は封じた。俺が三番目の極大の権能強化で叶えたのは、『法条暁の推定有罪にのみ、後掛けが出来る』。だからな、予め言っておくがそこらに散らばっているやつを操っても無駄だ。即座に俺が権能を改めてかけなおす」
「く……君は、一体どこまで……」
「あんたに確実に対抗できるように、かなりの犠牲は払った。法条、あんたの権能は、結局「他者を戒めるため」のものだ。だから自分は能力の対象に含まれていない。そこがあんたが抱える最大にして最悪の矛盾、あんたの一番醜いところなのさ……。さあ、結界を出せよ、法条。
法条暁と御厨翼、対峙する二人。
「……結界のルールは、君が決めろ」
「俺が、ルールを決めてもいいのか?」
「そうでなければ不公平だろう? 私の能力内で戦うのだから」
「律儀なことだな……」
御厨は暫し瞑目し、何か考えているようだった。
「……決まったか?」
「ああ、決めたよ。語るのは互いが神になった
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