Ep.27‐4(黒) 女神の天秤(後編)


 彼女が願いを口にしたとき、ひびでも入ったかのように空間が軋んだのが解った。

「……幼い頃から、ずっと疑問だった。? 何故わざわざ自分たちを雁字搦めにする決まり事を作り、そして定めた筈のソレを破り続けるのか?」

 一呼吸おいて、法条は続けた。

「簡単なことなんだ。それは、きっとなんだよ。他の何よりも自分の欲望コトを優先させるから、と言い換えてもいい。他者のことを考えているようでいて、結局は自分の利益になるようなことしかしない。見返り失く他者を助けようなんて立ち回り、物語の中にしか存在しないんだ。その日の食事すら儘ならぬ家庭に生まれ、毎日のように身売りを強制され、両親を刺殺した少女。体のいい人道支援を謳って、心の弱った人間の弱みに付け込み騙し、金品を搾取し続けるNPO。幸福な家庭を築いていた男を、冤罪だと知りながら依頼金のために死刑台に送ったのは、私が最も信頼を寄せていた同期だった。弁護士という仕事に就いて、とやらを見過ぎたせいなのかね。私はいつからか、こう考えるようになったんだ。という懐疑にね」

 僕も葉月も、ただ黙って彼女の言葉を聞き続けていた。

「私はね、判らなくなったんだ。何が良いことで何が悪い事か、誰が善人で誰が悪人か。弁護士になって不正を暴き、正し続ければ、いつかは世界はよくなると思っていた。私の抱える悩みも消えると思っていた。だが違った。そう、清廉だと、高潔だと、そこへ辿り着ければ私の抱える感情の何もかもが報われると、ずっと信じ憧れてきたものにさえ、私は裏切られたんだ。希望なんてものはどこにもなかった。世界は天辺はじめから真っ黒だった。規範は元から亡く、在るのは人間の底なしの罪業と悪意のみ。故に私は願う。果たして「善人」はこの世に存在するのか、人間の本質は悪なのか。その答えを確かめるために。私の理想のために。

 彼女は、もう僕等にんげんのことなど見えていない。そう、恐らくはもう、ずっと前から。


「……法条さん、あなたはね、潔癖すぎるんですよ。どんな人間にだって後ろ暗いところのひとつやふたつはある。でも悪いところだって、人間の魅力なんです。あなたは人を見ていない。ただ「法を守る」というその一点しか無いんだ。実体のある人よりも実体のない法を優先している。法条さん、あなたは自分の中の美しい人間像が、現実の醜い人間像と擦り合わさって崩れてしまうのが嫌なだけなんです! あなたは駄々をこねる子供と何ら変わらない。あなたはただ悪人を裁き続けるためだけに、神になるつもりですか! そんなの、ただ苦しいだけだ」

 法条は目を伏せ、低く笑った。その瞳が堪らなく悲しそうで、僕は思わず口を噤む。

「君とは最後まで意見が反り合わなかったな、周。最初の部分から答えよう。ああ。そうだとも。誰一人信じられなくなって、何もかもに絶望した法条暁に最期に残されたのはね、「ただ正しく在ること」、それだけなんだ。『それは正しいだけの正しさだ』、なんて揶揄も聞き入れよう。『その正しさはあくまで個人の尺度、ただの自己満足でしかない』、なんて嘲笑も耐え忍ぼう。私はもう、私の思う正しさを守ることでしか、ただ正しく在り続けることでしか、生きる道を探れないんだよ」


 自虐的な物言いに反して、彼女の言葉には確固たる信念が籠っていた。

 麻里亜に初めに契約を持ち掛けた時、自らが口にしたコトバを記憶の底から引き出す。

(どうしても叶えたい、叶わなければ死んでもいい、その位の強い願いを持った人間にしか悪魔は見えない)


 これほどの。これほどの覚悟と信念を持って『神になりたい』と宣言する人間を、僕は未だ嘗て見たことがなかった。今まで僕が見てきたどんな悪魔憑きも、ここまで歪んでも、壊れてもいなかった。これほど真っ直ぐに、見ている此方が目をそむけたくなるほど痛々しく愚直に願いを持ち続けた人間を、僕は初めて見た。願いとは畢竟、自己完結なものだ――『誰かを救いたい』という願いでさえも、自己のために違いはあるまい。最早、彼女の抱く願いはその領域を遥かに逸している。法条暁が抱く大願は、既に願いというよりもひとつの揺るぎない信仰、万人を救済するための弘願ぐがんと言っても過言ではないのだろう。


 僕は怖い。法条暁が怖い。どこまで人を憎めば、どこまで世界を疎めば、こんな――――。


「……私は神となる。為って見せよう。さんざん痛感してきたことだ、人の身では人は救えない。救えたとしても、それは自分の手が届く範囲までだ。それでは意味がない。意味がないんだよ。。あらゆるヒトの心から、欲望という荊冠けいかんを取り除こう。私が神になった暁には、。定められたルールを遵守し、決められたように生きて、決められたように死ぬんだ。そうすれば悪事を働くこともなく、罪の意識に苛まれることもない。「正しく在ること」、それが一番理想的なヒトの在り方だ。そのように生きられないのなら、正しく在れないのなら、死ね。そんな人間は私の世界に必要がない」


 これまでずっと沈黙を保っていた葉月が口を開いた。

「あたしは頭が良くないし、法条さんの考えていることの全部が解ったわけでもないです。でも、少し気になったことがあって……。法条さんは神になって、悪人を全員消すつもりなんですよね。でも、もし『善人』がこの世にいないとしたら、一体どうするつもりなんですか。あなたには最後まで、人に対する絶望と失望しか残らないじゃないですか」


 暫しの静寂。そして、微かに震えるような声が法条の口から洩れた。泣いているのか、と初めは思った。違った。嗤い、だった。法条暁は心底愉しそうに、僕たちを見据えて、こう言った。


。ああ、私に気遣いなど無用だよ。ふふふ、全世界に『推定有罪』を適用して、全人類を善か悪かで判じ終えた後に私が抱く感情はね、決して絶望でも失望でもない。ましてや落胆でもない。歓喜でもない。……


 虚ろな空間に、彼女の嗤いだけが残響する。


「仮に私にとっての『善人』が世界に一人でも残っていて、『推定有罪』による選別を生き残ったのならば良しだ。私の願いは叶う。即ち、私の疑問に対する答えは『多くの人間は悪だが、それでも少数は善である』。そして……」


 続く彼女の言葉を聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。僕は法条暁と相容れないがゆえに、これから彼女が紡ぐであろう絶望的な言葉が、僕たちが彼女に敗北する瞬間の決定的な言葉が、手に取るように解ったから。


「私にとっての『善人』が世界に一人もおらず、『悪人』しかいなかったのならばそれも良しだ。当然、その場合は私が全人類を一人残らず惨殺することになるだろうな。ああ、それで全く構わないとも。。『全人類は悪である、因って私にとってこの地上に生存に値する人間は一人たりともいない』。答を得た私はからになった世界を俯瞰し、永遠の安寧を得ることだろうよ。何故なら、もし全人類が悪人なら、もう人を救う必要など何処にもないのだからね」


 ……間違ってる。そんな言葉を口に出そうとして、気付いた。、と。

 彼女の正しさを褒め称え、讃美し、崇め奉りはしたけれど。誰も彼女の思想に共感することも、あるいは彼女の理想を強諫きょうかんすることもなかった。今この瞬間まで誰にも知られることなく、推し量られることなく、あれほどの願望を彼女はずっと、一人で、抱えて、生きて、来たのだ。

 だから彼女は気付かない。気付けるわけがない。

 

 正せなかったのかもしれないけれど、どちらにしろ悲劇だ。一人の人間が辿った、あまりにも悲しい未来まつろだ。


 悔しいけれど。僕は認めてしまっていた。法条暁という人間が選んだ、選ばざるを得なかった、ひとつの悲しい結末を。 


 この世の全てが終わってしまったかのような、耐えがたい沈黙だけが場を支配していた。

 法条は瞑目し、そして僕たちに告げた。


「これが、私という人間なんだよ」


 葉月も僕も、天城も人馬宮も、きっと法条暁自身も、こう思っていたに違いない。

『違う。そんなの、間違っている』


 誰よりも正しく在ろうとし、それゆえに誰よりも歪んだ女は、そして今その願いを天へと届けようとしている。


「さあ、もう気は済んだかい。残念ながら君たちとはここでお別れだ。君たちには本当に感謝しているよ、ああ、本当だとも」


 そうして法条は、法を敷いた。僕たちに終わりを示す、絶望的な言葉を。

「『自害しろ』」

 

 こともなげにそう言い切って、僕たちを順に一瞥する。

 もしかすると、僕らに課されたその法は、救いであったのかもしれない。

 ……救済の女神。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 人を助けて、人を救って。感謝されて、喜ばれて、尊敬されて。けれど彼女自身には歪んだ理想以外には何も残らなかった。


 一番救われるべきだったのは、彼女自身だったのに。誰も彼女を救わなかった――――。


 僕は、そっと目を閉じた。 


 腰に差した刀を抜き、自分の喉仏に当てがったところで、その声は響いた。


。『そいつの言葉に耳を貸すな』」


 高く反響した靴音は、警笛を連想させた。


ルールを守って安全に暮らしましょう、か。素晴らしい世界だな。はっ、一体いつから、あんたはそんな風になっちまったんだ?」

 その人物は、呆れるような、あるいは憐れむような声音で、そんなことを口にした。

 線の細い少年だった。白く肌理細かい肌とつややかな黒髪。軟弱そうな優男にも見えるが、目深にかけた眼鏡の奥の瞳には、確固たる決意が見て取れた。美少年の部類には入るのだろうが、どこか薄幸さを湛えた、自分が幸せになるのを自ら拒んでいるかのような、不安定さも感じさせた。

 一体、誰なのだろうか?


「何故っ、君がここにいる」

 僕たちの動揺も相当なものだったが、法条は僕たちが比較にならないほどに狼狽していた。両腕は細かに震え、相貌には蘇った死者と相対したかのような驚愕の色が浮かんでいた。

「あんたと同じで悪魔憑きだからだ。よろしくな天秤宮、人馬宮だ」

 軽口を叩きつつ、人馬宮を名乗る少年は法条の許へと歩を進めていく。

「……しかし! しかしだ、! 何故、二人も、いやしかし、どうして……」

 そう、なのだ。今この場に現れたこの少年が人馬宮だとするならば、法条の足元で蹲っている青年は何者なのだろうか? 僕に尋問をした彼は、一体……?

 二人で一人の契約者? そんな前例は耳にしたことがないが……。


 少年は動揺する僕らを嘲笑うように、口を開いた。

「決まっているだろう? 俺は俺としてここにいる。人馬宮としてここにいる。その事実だけで明らかじゃないか。


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