Ep.27‐3(黒) 女神の天秤(前編)


 この世界は、地獄だ。

 

 そう、最初に想ったのはいつの日のことだっただろうか。

 ……いや、ことによると初めからそう認識していたのかもしれない。 

 誰に言われるでも、何に気付かされるのでもなく。

 きっと、初めからそうと知っていた。


 この世界は、地獄だ。


 今ここに、一つの清流があるとする。とても清らかな、一寸の穢れもない清流。だが、ある時から汚濁が上流から絶え間なく流れてくるようになる。当然、掬って除去する。動作に躊躇いはない。間違いは正す。汚れは取り除く。それが人間としてあるべき姿だからだ。そして、汚濁の源泉を取り除くべく、上流へと上流へと、遡っていく。そこに、果てがないと知らずに。其処には決して辿り着けないと知らずに。……。 


 この世界は、地獄だ。


 人を救えば救うほど救いきれないことに絶望した。期待を抱けば抱くほど裏切られたときの失望は大きくなった。希望の悉くは打ち壊され、後には空虚な、やり場のない茫漠とした無力感だけが残った。


 ああ、知っていた。私では、人は救えない。


 あら、そんなの、当然ですわ。

 そう、悪魔は言った。


 人を救うのは人じゃない。人を救えるのはいつだって神様さ。

 そう、悪魔は言った。


 では、私は、私はどうすれば。


  ……そんなの、決まっているじゃない。

 あなたはこれまで天秤が傾くのをただ眺めているだけだった。

 それじゃ何も変わらない。

 だからね、。正義の女神、天秤の女神にね。


 そう、悪魔は言った。


 暗闇のなか、三対の悪魔の眼が、爛々らんらんと光っていた。


       ◆


 通路を走る。途中で操さんと一人の女性が倒れているのを見つけ、空間転移で外へと運び出す。二人分を行き帰りで使ったから、もう今夜は転移を使えない。時刻はもうすぐ午後十時。人馬宮が指定した、午後十時だ。

 操さんが人馬宮の陣営と合流し、共同戦線を張るにあたって、僕自身も何度か人馬宮本人と会話した。葉月やしぐれから聞き及んでいた理知的で神経質そうな印象とは裏腹に、どこか粗暴で野卑そうな青年だった。操さんに操られていたせいかここ数日の記憶は朧げだが、人馬宮は僕に軽く尋問を行い、素性を問いただした。操さんには正直に答えるように言われていたので、僕が巨蟹宮、三神麻里亜の悪魔ネヴィロスであったこと、今際の際に麻里亜が残した願いのおかげで人間となり、特例としてゲームに参加していることなど、隠していることは包み隠さず話したはずだ。

 ……何か。何か大事なことを忘れている気がする。僕の根幹に関わる、何か大切なこと。人馬宮本人ではなく、人馬宮の陣営に所属していた誰か。人馬宮、双児宮、操さん……。違う。あそこにいた誰か。そう、あの……。


「アマネくん、そろそろ中枢部に着くみたい」

 葉月が弱弱しく言った。僕は静かに、中枢部へと通ずる細い通路を渡った。


       ◇


 状況は、凡そ彼の目論んだ方向へと進んでいた。あとはタイミングの問題だけ。

 

 彼はゆっくりと立ち上がり、目指すべき場所へと向かった。


       ❖


「さて……。今宵の戦いもいよいよ最終局面か。まだ一人も脱落してないのが不満だけど、まあ、最後くらいは特等席で見物させてもらうとしようかな」

 神たる少女はそう呟き、暫し瞠目する。それは彼女が神になってから数えるほどしか経験していない、驚愕という感情だった。

「おいおい嘘だろ、キミ……。あんだけ善人ぶっといて。ボクと同じかそれ以上のド外道じゃないか」

 みかげは嗤う。同類を観止めたことへの喜悦と、幾ばくかの怯懦きょうだが入り混じった、引きつった笑みで。


       ❖


 中枢部には、既に三人の人間がいた。どうやら僕たちの到着を待たずして、決闘は既に決着の目を見たようだった。

 一人は良く見知った顔。天秤宮、法条暁。その後ろには三体の悪魔、フリアエがふわふわと浮遊する。法条の足元には項垂れた青年がいた。。人馬宮の悪魔は所在なさげに彼の側で浮遊している。そしてもう一人は、意外な顔だった。


「天城……、どうして、ここに?」

 絶句する僕の横を、葉月が駆け抜けていく。

「法条さん……! 良かった、無事だったんですね!」

「ああ、葉月君も大事なさそうだな。……周も」

 法条暁は僕を見やる。彼女の口の端が僅かに、けれど確かに、歪んだのが見て取れた。


 法条の許へと駆けていく葉月が、スローモーションで見える。……僕は、僕は何か大事なことを忘れている。そう、


「……葉月っ!」

 葉月が振り向く。その足は既に、彼女の領域へと踏み込んでいた。


――『』。


 ……そう、法条暁は、危険だった。


 葉月はまだ、状況を把握していないようだった。権能をかけられたのが自分ではなく、その場にいる他の誰かだとでも思っているのか、左見右見しようと藻掻いている。

 そんな無防備な葉月に、法条は段々と近づいていく。


「……やめろ」

 掠れた声でそんなことを口にした。法条は聞こえていないかのように、葉月の方へと向かっていく。

「あの……。どうしたんですか、法条さ……」

 そう口を開けかけた葉月の頬を、法条は強かに打った。そして茫然と佇むしかない葉月を鉄製の床へと投げ出し、無防備な腹部を数度、つま先で蹴りつける。葉月のくぐもった悲鳴すら聞こえていないかのように、その動作には一切の躊躇いが見受けられなかった。楽しむでも、憐れむでも、屈服させるでも、恐怖させるでもなく、ただ単に、ただ冷徹に、暴力を振るうために暴力を振るっていた。


「法条……暁っ……!」

 臓腑の奥が異常に熱い。はらわたが煮えくり返る、というのは単なる比喩ではないらしかった。


「君を倒すなら身体よりも先に精神を突き崩す方が得策かと思ってね。手荒な真似をさせてもらった。如月葉月……。君は、今日という日まで本当によくやってくれたよ」

 葉月の頭部をブーツで踏みつけながら、法条はこともなげに言った。

「……どうして。なんでっ、こんなことするんですかぁ……! 法条さん……! 私たち、仲間でしょう…………!」

 嗚咽が入り混じった声で、葉月は叫んだ。

、だな。私が中枢部を制圧した先刻を以て、同盟は破棄だ」

 信じられない、という風に。葉月は大きく目を見開いて、

「嘘です、そんなの嘘です……! だって、あのとき桜杜公園で、あたしの同盟を、喜んで受けるって……! 争いには興味ない、休戦を望んでいるって、言ってたじゃないですか……!」

「ああ、あれか? 。正確には成瀬がいたあの場では君たち側に付いた方が得、だと判断したからだがね。ついさっき、神社で教えたばかりだろう? 私は神を目指している。然るべき時が来たら君たちの敵になる。。仲良しごっこの時間は終わりなんだよ、残念ながらね」

 葉月の心が軋んだ音を立てて折れるのが、僕にも解った。焦点の合っていない瞳の先は中空を漂い、唇はわなないていた。 


「このゲーム、いくら強力無比な権能や悪魔を従えたところで、一対多では分が悪すぎる。かといって全く争いの意志がないのも不味い。弱った参加者を集中して狙い脱落させるのはバトルロイヤルの定石、力がないと解れば格好の標的となる。だから私はまず、あまり争いに積極的でなく、かつ並み以上の戦闘能力を持つ味方を確保する必要性に迫られた。葉月君、君は絶好の隠れ蓑だったよ。休戦を呼びかける君と同盟を組んでいれば、まず「神を目指している」とは疑われまい」

 法条暁は淡々と語り続ける。

「アリスちゃんや成瀬の悪魔とあえなく相打ちにでもなって華々しく散るのが君の最期かと思っていたが、私の予想に反して君は実にしぶとく生き抜いたね。賞賛に値するよ、あれだけの蛮勇を晒し自らを追い込んで、それでもなお和平を説く愚直さはね。正義のヒーローにでもなっていたつもりだったかい? 実際にはかえって争いの輪を広げていただけだったような気もするがね」

 葉月は譫言のようになんで、どうして、を繰り返している。

「朱鷺山くんと周も、実によく働いてくれた。時間遡行による治癒と強力な遠視、空間移動と他者の権能の限定的な模倣。どれも私にはない、素晴らしい能力だった。。ああ、本当に。そして……」

 法条は言葉を切り、吐き捨てるように言った。

「君たちはもう、用済みだ」


 我慢の限界だった。月下美刃を発動し、即座に剣を抜き、真っ直ぐに疾駆する。法条が再度権能を唱えきる前に、あいつの喉を叩き切る。声が出せなくなれば、推定有罪も発動できない。そう嗜虐的な想像に取り憑かれた瞬間、僕の身体は完全に静止していた。蜘蛛の巣に絡めとられた蝶というのは、こういった状態なのだろうか。強く念じれば動けそうではあるが、確かに伝わってくるのは『動けば死ぬ』『逆らえば死ぬ』という絶対的な強制力。


「ああ、すまない。能力を共有した時には伝えていなかったな。一度権能を唱えて発動すれば、対象が半径五十メートルに入った瞬間に効力は適用されるんだ。……悪いね、情報を伏せていて」


 ……誰も、動けなかった。救いを求めるように天城や人馬宮を見たが、とうに彼らも法条の支配下だ。誰も、彼女に逆らえなかった。そして、ロケットのスイッチは彼女の掌中にある。……完全に、詰んでいた。


「さて、どうしてくれようか。……ああ。動くな、という法だがね、口だけは動かせるから、何か喋ってくれても構わない。私が相手にするかは別としてね」


 虚ろな眼差しで、葉月は法条を見上げる。懇願するように、葉月は口を開いた。

「お願いします、法条さん。街に家族がいるんです。ロケットだけは、撃たないでください。私たち、それを止めるために、ここに来たんでしょう……?」

「さあ、どうだろうな。私は君の想像を遥かに超えた外道かもしれないぞ。君は強いからね、ふと気を抜いた先に喉でも食い破られかねない」

「何でも、しますから……」

「そうか。では君にはでも頼もうかな」

 法条は今しがた思いついたように、その言葉を口にした。

「私はこれからこの施設内にいる悪魔憑きをひとりひとり処理していく。ロケットのスイッチを担保にしてね。『自害しろ』と法を敷こうとも思ったが、経験のある君を使用すれば話は簡単だ」

 葉月はもう、何も聞こえていないようだった。

 僕ももう、何も言いたくなかった。けれど、最後に一つだけ訊かなければ。

「何で、どうして、ここまで……。一体、何があなたをそこまでさせるって言うんですか? 仲間だった僕たちには、知る権利がある筈だ。答えてください、法条さん。あなたは一体、神になって何を願うんですか?」


 振り向き願いを口にする彼女の姿を見て、僕は先ほどあれだけ抱いていた怒りや憎しみを瞬時に忘れ去った。そこにあるのは、畏怖だけだった。


「願い、願いか。単純なことだよ。。人間の欲望のない世界を、私は望む」

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